Roar 8
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真っ暗な洞穴の中で、何かが喘ぐ。
息は荒く、姿こそ見えないものの、猛獣のごとき威圧を感じる。
その洞穴には、右目から血を流したローの姿があった。
彼の足もとには、薄らと血がたまっており、彼の傷が深い事を思わせる。ローは今、後悔の念に包まれている。
何故、あの時快く群れを率いることを了承しなかったのか。
了承していれば、彼らの心を救う事が出来たのではないのか。
何故、ロムスが彼らをクズ呼ばわりした時に否定しなかったのか。
否定していれば、彼らに勇気を与えることが出来たのではないか。
何故、逃げ出してしまったのか。
逃げなければ、ロムスを追い払う事が出来たのではないか。
そんなどうしようもない事が、彼の脳に焼き付いていた。この思いは彼の中でループして、彼を苦しめ続けた。決して逃れることの出来ない後悔の輪だ。
「俺こそ群れを率いる資格なんてないな」
彼は、自分の恨みや辛みで群れを見放してしまった。己の利己心だけで動いていたロムスと大差ないと考えた。ロムスに、群れを率いる資格はない、と言ってしまった自分をひどく嫌悪した。彼の心は、粉々に砕け散っていた。
ローはふらりと立ち上がり、いつもの場所に、月の見える場所へと赴いた。ほぼ無意識の行動であった。
しかし、その場に月はなく、ただただ漆黒の闇が広がっているだけだった。空には分厚い雲がかかり、雪が舞い散っていた。雪は彼の悩みなんて知らずに、無邪気に踊っている。
「君も僕を嫌うかい? 自分の利己心を優先した僕を。我が身しか省みなかった僕を」
月は光すら発さない。
月がローのことを天から見下し、苦悩する彼を嘲笑っているかのように感じられる。
「そうだよね。そんな僕を嫌わないでいてくれるはずがないよね。とうとう、君にまで嫌われちゃったか。僕は、これからどうすればいいんだろう?」
闇だけが夜空を侵食する。
「ねえ、答えてくれよ」
静寂が彼を包む。
「きっと、君なら戻って戦えって言うんだよね? でも、出来ないんだ。僕は出来損ないなんだ。群れ一つ守ることが出来ない出来損ないなんだ」
彼の脳裏に、ロムスが襲いかかってきた時の光景が浮かぶ。彼は、それを振り払う事が出来ないでいた。絶対的な恐怖。生物がもつ本能だ。ローは遠吠えをした。
何もない虚空に向かって。
その遠吠えに、どんな感情が込められているのかは知る由もない。
「ロムスの言ったとおりなんだ。僕は真っ黒な、穢れた出来損ないなんだ。僕は、救いようのない……」
「出来損ないなんかじゃないわ!」
聞き覚えのある声がローを貫いた。
「え?」
ローが振りかえると、足を引きずり、息を切らしながらこちらに歩いてくるアマラの姿があった。綺麗な金色の髪は乱れ、服は所々が破けている。
「どうしたんだ、アマラ。その足にその服」
彼女は、あの後窓から飛び降りたのだ。雪がクッションになったからか、足をくじいた程度で済んだようだ。
「私のことなんてどうでもいいわ! あなたこそどうしたっていうのよ、その目」
「なんてことはない」
「嘘! 早く手当てをしないと」
アマラは、腰に下げた袋から包帯を取り出し、彼の目に巻きつけた。包帯が彼の血を吸いこみ、じわりと赤く染まった。
「これで大丈夫」
彼女は満足気だが、包帯の巻かれたローの姿はとても不格好だ。包帯の巻き方は、決して丁寧とも上手とも言えない。
「ありがとう」
「いいのよ。それよりも聞いて」
ローは、アマラの慌て様を尋常ではないと悟った。そして、彼女の言葉に静かに耳をかした。
「あなたと、あなたの群れが危ないの!」
「どういうことだ?」
「私たちの村の人たちが、狼を殺すためにこの山へ来るの! 急いであなたの群れを移動させないと、皆殺されちゃう! 今日の朝にはここへ来るって言ってた」
ローはその言葉に衝撃を受けた。自分が麓の森へ下りて行ったことが原因だと悟った。更なる後悔が彼に重く圧し掛かり、そして、その重みで彼の心はぽっきりと折れた。
「俺には無理だよ」
「なんでよ! 危機を伝えて逃げなきゃ彼らは……」
アマラの言葉をさえぎり、ローが語り出した。
「この目はな、さっき群れの長と戦った時につけられたんだ。そいつは俺の言葉になんて耳を貸さない。それどころか、俺を見つければ殺しにかかってくるだろう。それに、俺は出来損ないなんだ」
ローは頭をたらし、洞穴へと歩き出した。
「そんなことない!」
「それに、俺はここで隠れていれば助かる。わざわざ危険な目にあってまで、伝えることじゃない。俺は戦いから逃げ出した臆病者だ」
「あなたの仲間じゃない! どうなってもいいって言うの?」
「どうなってもいいわけじゃない。でも、今行けば、殺されるんだよ。俺だって、死ぬことが怖いんだよ」
彼の心の底から、恐怖の感情がこみ上げる。それと同時に、群れの狼たちへの憎悪の感情が込み上げてくる。しかし、助けたいという感情がないわけではなかった。
「今、行動を起こさなくていつ起こすって言うのよ! そうやっているうちに、すべてが取り返しのつかないことになるわ! すべて終わってから、悲しみに暮れたってもう遅いのよ!」
割れんばかりの声でアマラが叫ぶ。
「俺は黒いから出来ないんだよ」
次第に闇は裂け、山の麓から朝日が差し込み始めた。村では武器を整え、山へ登ってくる時間だろう。もう一刻の猶予も許されない。
「ロー!」
彼女の声が山に響く。アマラの顔が、みるみるうちに悲しみに染まっていく。そして……。
パン、と音がした。アマラがローに平手打ちしたのだ。
「何をするんだ!」
ローは牙をむき出し、アマラを威嚇した。しかし、アマラは威嚇をものともせずに言葉を続ける。
「黒いからなんだっていうのよ! それが仲間を助けられないっていう理由にはならないわ! ローは色にばかり目をやって、見なきゃいけないもの見てない!」
アマラが大粒の涙を流した。それが雪の上へと零れ落ちると、美しく散った。
「アマラ」
「もういいわ。あなたが行かないなら、私が行く」
アマラは足を引きずり、雪山を登っていく。いつ雪山から転げ落ちてもおかしくないほどにふらついている。
「待てよ、アマラ」
「臆病者に用はないわ! 私が危機を救ってみせる」
「お前に何が出来るって言うんだよ」
「何も出来ないかもしれない。けど、指をくわえて震えているだけのあなたよりかはマシよ」
「殺されるだけだぞ」
「私は何も怖くないわ。臆病者のあなたと違ってね。そんなだから群れから追い出されちゃったんでしょうね」
その言葉に、ローの怒りが沸点に達した。煮えたぎる怒りがローの心に激流のごとく流れ出してくる。
「お前に何が分かるっていうんだ! 死と隣り合わせの恐怖も、飢えの苦しみも、黒い、穢れていると言われた俺の気持ちも、群れに対する怒りも、お前は何も分からないだろう!」
ローは怒り狂い、アマラの細く白い腕に噛みついた。彼女の腕からは真っ赤な血が溢れ出している。しかし、アマラは表情一つ変えずに、やめなさい、と一言言った。その言葉には、少女とは思えないような意志が内包されているように感じる。ローが噛みつくことを止めると、アマラはこう続けた。
「そうね、私には何も分からないわ。でもね、これだけは分かる」
一瞬、あたりが静寂に包まれた。
「色なんて重要なことじゃない。あなたにしか出来ないことがある。真っ黒なあなただからこそね。それがあなたの群れを救うことなんじゃないの?」
ローははっとした。アマラの姿が彼の母親と重なった。アマラの放った言葉と似たような言葉を母親から言われたことがあることを思い出した。憎悪に燃えていた群れの狼たちと今の自分の姿も重なった。今のまま逃げていれば、あの時と何も変わらない。今の自分はあの時の群れの狼たちとまったく同じだ。色の違いを重要視し、怒りと憎しみに身を任せている。
アマラの言葉に、とうとう彼は決意を固めた。
そして、彼はアマラの方を見ずに、黙って走り出した。
彼は風のごとく駆けた。
彼はしっかりと大地を踏みしめ駆けた。
彼は朝日を食いちぎり駆けた。
周りの景色など見えない。
恐怖の感情はない。
ただ、自分を捨てた群れを自分を認めなかった群れを救いたい。そんな一心で彼は駆けた。
「ロー。絶対に救ってあげてよ」
アマラは、悲しげな瞳で彼の向かった方角を見つめていた。




