プロローグ せんせい―①
「もしかして、せんせい?」
それは、大きな駅の書店で本を見繕っていた頃のこと。
背後からそんな声が響いてきたけど、最初は自分が呼ばれているとは思わなかった。
だって、私が教職を離れてから、もう数年。『先生』なんて呼ばれなくなって随分と久しかったから。
それに私はあまり、沢山の生徒と関わることのできた教師じゃなかったし。
何千、何万という人が集う、都会の駅の真ん中で、そんな再会をする確率はどれくらいのものなのだろう。
別々の場所で、海に流した二つの瓶が、たまたま同じ砂浜に辿り着くようなものなのだろうか。
だから、その声が、私を呼んでいる可能性は、とても低かったはずなのだけど。
それでも、声に誘われるまま、振り返ってしまったのは。
その声が、酷く懐かしい響きをしていたからかな。
いつかの暑い夏の日の、静かな国語準備室の情景が。
どこかに滲んで見えた気が、したからだろうか。
そうして、ふっと振り返った先に居たのは―――。
記憶の中の面影とは、少し違って。
肩ほどまであった綺麗な黒髪は、すらっと伸びてセミロングになっていて。
風貌はすっかり大人びて、でもクリっとした茶色の瞳は、あの頃のまま。
恰好も、当たり前だけどもう制服じゃなくて、スタイルの良さがよくわかるまっさらなスーツを身に着けている。
でも、どうしてか私の口は、その子の名前を寸分の迷いもなく呼んでいた。
「………………あーちゃん?」
私が新任の頃、担任をしていた女の子。
気遣いが出来て、優しくて、まだまだ未熟だった私によく懐いてくれた。
「え……うそ…………せんせい? 本当に?」
彼女は呆然として、私を見つめたまま、そっと近くに寄ってくる。
私も何も言えないまま、そんな光景をただぼんやりと見つめてて。
眼の前に立った背の高い彼女の指が、そっと私の頬に触れたあたりで。
ああ―――と、確かに想いだす。
「―――せんせい、だよね?」
私の肌を優しくなぞるその感触を、肩口からそっと見上げる、その光景を。
「――――うん、久しぶり、あーちゃん」
私が、そう言葉を零すと同時に。
次の瞬間には、身体がぎゅっと抱きしめられた。
何千、何万という人が行きかい、通り過ぎるはずの、その場所で。
7年前、あの国語準備室で一緒に過ごした、かつての教え子と。
私は、再び巡り合っていた。
周りには沢山の人がいて、数多の雑音がその場所を満たしていたはずなのに。
「せんせい―――せんせい」
何かを確かめるように、私の身体を抱きしめる、かつての教え子の声だけが。
その時は、酷く鮮明だった。
そんな、ある夏の日のことだった。
※




