第1話 レタス・シティ(前進)
レタス・シティの朝はいつも騒がしい。
「前を向け! 過去を振り返るな!」
これが街の唯一のスローガンだった。市長のこの大号令のもと、市民たちは毎朝、昨日起きた嫌なことも、失敗も、すべて忘れて全力で前だけを見て走り出す。
一見、とてもポジティブで活気のある街に見えた。しかし、この街には奇妙な特徴があった。
交差点では、毎日同じ車が、毎日同じ電柱に激突していた。
「おい、危ないぞ!」と誰かが叫ぶが、ぶつかった運転手は頭を振りながら車を降り、笑顔で言う。
「いやあ、過去を振り返っちゃいけませんからね! 次はきっと上手くいきます!」
そして翌日、彼はまったく同じ速度で、同じ電柱に突っ込むのだった。
パン屋の主人もそうだった。彼は昨日、塩と砂糖を間違えて、黒焦げの塩辛いパンを大量に焼いてしまった。
「昨日の失敗を気にしてちゃ進化はない!」
主人は胸を張って、今日も全く同じレシピでパンを焼いた。当然、今日も黒焦げの塩辛いパンが焼き上がる。それを買った客たちも、「過去の味にこだわってはいけない」と言いながら、顔をしかめて飲み込んでいた。
彼らにとって、昨日を思い出すことは「悪」だった。
だから、「なぜ失敗したのか」を分析することすら、「後ろ向きな行為」として徹底的に排除された。
そんな街の片隅に、小さな時計屋を営む老人がいた。
老人は、街で唯一、ノートに「過去の記録」をつけている人物だった。
ある日、市長が直々に時計屋へやってきた。街の「前向き運動」をさらに推進するため、すべての時計の針を強制的に進めるよう命令しに来たのだ。
「時計屋、お前もノートなんか閉じて前を見ろ。過去にしがみつく者は、この街にはいらない」
市長の言葉に、老人は静かに首を振った。
「市長、私は過去にしがみついてなどいません。ただ、学んでいるだけです」
「同じことだ!」市長は一喝した。「振り返るなと言っている!」
「いいえ、全く違います」
老人は手元の古い時計の歯車をピンセットで挟みながら、穏やかに言った。
「『過去を振り返らない』というのは、起きてしまった失敗を悔やんで立ち止まらない、ということです。つまり、心の持ち方の話です」
「そうだ、その通りだ!」
「しかし、『過去から学ばない』というのは、失敗の原因を見ようとせず、同じ愚行を繰り返すということです。それはただの怠慢であり、無知です。前を向いて走っていても、足元の落とし穴の場所を覚えようとしなければ、何度でも同じ穴に落ちて骨を折るだけです」
市長は鼻で笑った。
「屁理屈を。我々は前進している。現に、街のスピードは上がっているぞ」
「それは、同じ場所をぐるぐると回るスピードが上がっているだけですよ」
老人がそう言った瞬間、外で凄まじい爆音と地響きが鳴り響いた。
市長が慌てて窓の外を見ると、街のシンボルである巨大なダムが決壊し、大量の水が押し寄せてくるのが見えた。
そのダムは、3日前にも小さなひび割れが見つかっていた場所だった。しかし市民たちは、「過去のひび割れを気にするな、新しい明日を見よう」と言って、誰も補修工事をしなかったのだ。
「なんということだ! なぜこんなことに!」
頭を抱える市長の横で、老人は静かに荷物をまとめ、あらかじめ用意していた高い丘へと続く避難経路の地図を開いた。
「私は以前の洪水の記録から、このルートを導き出しておきました。さあ、行きましょう。命があれば、また新しい街を作れます」
老人が差し出した地図を、市長は呆然と見つめた。
水に飲み込まれていく街の中で、市民たちはなおも「前を向け! 諦めるな!」と叫びながら、濁流に向かって全力で足踏みを続けていた。
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「そんな馬鹿な……!」
老人の手からピンセットが落ち、カランと高い音を立てた。
窓の外では、信じられない光景が広がっていた。
濁流に向かって全力で足踏みを続けていた市民たちの足並みが、完全に一つになったのだ。
「前を向け! 過去を振り返るな! 我々の辞書に『撤退』の二文字はない!」
市長の叫び声に合わせ、何千、何万という市民が腕を振り、猛烈なハイステップで濁流へと突撃していく。昨日と同じ電柱にぶつかり続けた運転手も、毎日黒焦げのパンを焼き続けたパン屋も、全員が一切の迷いなく、狂気的な笑顔で地面を蹴り上げている。
凄まじい足音の振動が、大気を震わせた。
ドゴゴゴゴ……!
次の瞬間、驚くべきことが起きた。
市民たちの集団が放つ、物理的な「前進のエネルギー」と凄まじい風圧が、押し寄せる濁流の勢いと真っ向から衝突したのだ。
バシャアアアアン! と激しい水飛沫が上がった。
しかし、市民たちの足は止まらない。
「進め! 進め! 進めぃ!」
彼らの超ポジティブなパワーが水圧を凌駕し、なんと濁流がジリジリと逆流を始めた。物理法則を完全に無視して、水がダムの向こうへと押し戻されていく。
「な、何なんだ、この力は……!」
老人は開いた口が塞がらない。
過去のデータを集め、洪水の水位を計算し、完璧な避難ルートを導き出した自分の知性が、目の前の圧倒的な脳筋パワーによって完全に全否定されていた。
「はっはっは! 見たか時計屋!」
市長が腰に手を当てて高笑いする。
「過去のデータが何だ! 治水の歴史が何だ! 我々が反省などせず、ただ前だけを見て突っ込めば、自然の摂理すらひれ伏すのだ!」
押し返された水は、そのまま決壊したダムの向こうへと綺麗に収まり、街には何事もなかったかのように平穏が戻った。市民たちは「今日もいい汗をかいたな!」と爽やかに笑い合っている。
老人は、手元の完璧な避難地図をそっと丸めた。
「……学ぶ必要すら、なかったというのか……」
愕然とし、己の存在意義を見失いかけた老人。しかし、彼がため息をついて窓の外をもう一度見たとき、市民たちはすでに次の「前進」を始めていた。
彼らは水を押し返した勢いのまま、前しか見ていないので止まることができない。
「前へ! 前へ!」
笑顔の市民たちは、そのまま自分たちの家や、せっかく直ったダムの壁に向かって、全力で突撃し、次々と激突して自爆していった。
老人は静かに、またノートを開いた。
【記録:どれだけ圧倒的なパワーがあっても、ブレーキの概念を学ばなければ、結局全員壁にぶつかる】
老人の眼鏡が、キラリと冷たく光った。
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