第7話 濁った井戸を鑑定する
朝になっても、井戸は静かだった。
昨夜、あれほど耳の奥に残っていた声は聞こえない。
ただ、村の中央に古びた石組みの井戸があり、濁った水を底にたたえているだけだった。
けれどレインには、もうそれがただの井戸には見えなかった。
百年前、百二十三人の最後の声を聞いた井戸。
王国兵の死体。
ルミナリア遺構。
生存者は処分せよという命令書。
この村に残されたものは、どれも偶然ではない。
レインは井戸の縁に手を置く前に、深く息を吸った。
昨夜のように、また過去の映像が流れ込んでくるかもしれない。
悲鳴や炎を見せられるかもしれない。
それでも、調べなければならなかった。
水がなければ、この村では生きていけない。
「レイン……本当に見るの?」
後ろからミラが声をかけてきた。
彼女はまだ顔色が悪かった。昨夜、命令書の「ルミナリア」という言葉を聞いた途端に倒れたのだ。無理に起きなくてもいいと言ったが、ミラは「一人で井戸に近づいちゃだめ」と言ってついてきた。
「見るだけだ。危なそうならすぐやめる」
「この井戸、夜になると泣くよ」
「昼なら少しは機嫌がいいかもしれない」
冗談のつもりで言うと、ミラは不安そうな顔のまま、少しだけ瞬きをした。
「井戸って、機嫌あるの?」
「たぶん、普通はない」
「じゃあ、この井戸は普通じゃないね」
「それは間違いない」
レインは苦笑し、井戸の石に指を触れた。
「鑑定」
意識を集中する。
まず流れ込んできたのは、普通の情報だった。
石材、古い花崗岩。
経過年数、およそ百二十年。
構造、地下水脈接続型。
破損、滑車部劣化、桶消失、石組み一部緩み。
水深、七メル。
水質、飲用不可。
レインは眉を寄せた。
飲用不可。
やはり、そのままでは使えない。
さらに深く見る。
毒性反応はない。
腐敗でもない。
動物の死骸が落ちているわけでもない。
水そのものは、本来なら澄んでいるはずだった。
濁りの原因は、魔力汚染。
井戸の底からではない。
村の中心部に流れている古い魔力回路が壊れ、そこから漏れ出した魔力が地下水に混じっている。
「毒じゃない」
レインは呟いた。
ミラがそっと近づく。
「飲めるの?」
「今は無理だ。でも、原因はわかった。水が腐ってるわけじゃない。魔力が混じって濁ってる」
「魔力?」
「ああ。村のどこかに、水を清めるための仕組みがあったんだと思う。それが壊れて、逆に井戸を汚している」
ミラは井戸を覗き込んだ。
「じゃあ、直せば飲める?」
「たぶん」
その言葉を聞いた瞬間、ミラの目が少しだけ明るくなった。
「本当に?」
「まだ、たぶんだ。仕組みを見つけてみないとわからない」
「でも、直せるかもしれないんだよね?」
「ああ」
ミラは胸の前で両手を握った。
「すごい」
何気ない一言だった。
だがレインは、思わず動きを止めた。
「……すごい?」
「うん。私、この井戸はずっと泣いてるだけだと思ってた。もう水は飲めないんだって。でもレインは、どうして泣いてるのか見つけた」
「見つけただけだ。まだ何も直してない」
「でも、すごいよ」
ミラはまっすぐに言った。
レインは返事に困った。
勇者パーティーにいた頃、彼は何度も異常を見つけてきた。
呪われた道具。
傷んだ装備。
毒の混じった薬草。
崩れかけた道。
けれど、言われたのはいつも「細かい」「心配性」「小言が多い」だった。
すごい、などと言われたことはなかった。
「……ありがとう」
かろうじてそう答えると、ミラは不思議そうに首を傾げた。
「どうしてお礼を言うの?」
「俺にもよくわからない」
レインは照れ隠しのように井戸から手を離し、周囲を見回した。
井戸の魔力汚染は、村の中心部にある古い回路が原因だ。
ならば、その起点がどこかにあるはずだった。
レインは井戸から伸びる魔力の流れを追う。
普通の人間には見えない。
だが鑑定を重ねると、地面の下を細い光の筋が這うように感じられた。
その筋は井戸から少し離れた、村の広場の中央へ向かっている。
広場には、腰ほどの高さの石柱があった。
苔に覆われ、上部は欠けている。昨日はただの古い飾りだと思って見過ごしていた。
レインは石柱の苔を手で払った。
表面には、複雑な紋様が刻まれている。
王国の紋章ではない。もっと古く、繊細な線だ。井戸や門柱で見た、消えかけた紋様に似ている。
「これだ」
「これが、井戸を泣かせてるの?」
「たぶん、昔は井戸を守っていたものだ」
レインは石柱に触れる。
「鑑定」
今度は、より明確な情報が流れ込んできた。
名称、水脈浄化用魔導具。
製造、ルミナリア王国北方工房。
機能、地下水脈の魔力濃度調整、汚染除去、生活水供給。
状態、停止。
原因、制御魔石の欠損、第二回路の焼損、外部衝撃による接続断裂。
レインは石柱の裏側に回った。
そこには、拳ほどの魔石をはめ込む窪みがあった。
今は空になっている。
「制御魔石がない」
「それがないと動かないの?」
「ああ。それと、中の回路も一部焼けてる。部品が必要だ」
「部品……」
ミラの顔が曇る。
「この村には、もう何もないよ。壊れたものばっかり」
「壊れたものの中に、使えるものがあるかもしれない」
レインは石柱の周囲を調べた。
古い金属片、割れた魔石、錆びた工具。どれも劣化しているが、完全に無価値ではない。
その時、石柱に触れた指先が、微かな反応を拾った。
過去の残響。
レインの視界に、ぼんやりと映像が浮かぶ。
若い職人たちが、笑いながら石柱を設置している。
子どもたちが井戸の周りを走り回っている。
女たちが桶に水を汲み、老人が「今年の水は甘い」と笑う。
炎も悲鳴もない。
そこにあったのは、穏やかな村の日常だった。
レインは胸の奥が締めつけられるのを感じた。
この村は、最初から廃村だったわけではない。
当たり前だ。人が暮らし、笑い、水を汲み、食事を作っていた場所だった。
それを誰かが壊した。
「レイン?」
ミラの声で、映像が消えた。
「どうしたの?」
「いや……この村にも、ちゃんと生活があったんだと思って」
ミラは石柱に手を添えた。
「覚えてないけど、懐かしい気がする」
レインは彼女の横顔を見た。
ミラは記憶を失っている。
けれど、この村の過去に反応している。
やはり、彼女とエルネ村は深くつながっている。
レインは魔導具の欠損部分をさらに調べた。
制御魔石は専用のものだ。普通の魔石では代用できない。
だが、魔導具には補修記録が残っていた。
過去に一度、同じ部品が交換されている。
交換用の部品は、村の北側にある旧倉庫に保管されていた。
場所の情報が、かすかな光の線として意識に浮かぶ。
「北の倉庫……」
レインは顔を上げた。
「そこに部品があるかもしれない」
「北って、森の方?」
「ああ」
ミラの顔色が変わった。
「だめ」
「ミラ?」
「あっちは、だめ。森の奥には行かない方がいい」
「危ないのか?」
「わからない。でも、あっちに近づくと、頭が痛くなる。声も聞こえる」
「井戸の声か?」
ミラは小さく首を振った。
「違う。子どもが泣いてる声」
レインは黙り込んだ。
北の旧倉庫。
井戸を直すための部品。
ミラが避けたがる場所。
子どもの泣き声。
何かがある。
だが、行かなければ井戸は直せない。
井戸が直らなければ、この村でミラが安心して暮らすこともできない。
「今日は無理に行かない」
レインが言うと、ミラは少し安心したように息をついた。
「でも、近いうちに調べる必要がある」
「……うん」
「その時は、俺一人で行く」
「だめ」
ミラは即座に言った。
思いのほか強い声だった。
「一人で行ったら、レインも帰ってこないかもしれない」
「危険なら、なおさらミラは――」
「私、森の道を知ってる。危ない場所も、少しならわかる。だから、一緒に行く」
レインは困ったように息を吐いた。
守ると決めた相手に、危険な場所へついてくると言われている。
断るべきだ。理屈ではそう思う。
だが、ミラの瞳は揺れていなかった。
自分の過去に怯えながら、それでも向き合おうとしている目だった。
「……わかった。準備してからだ」
「うん」
ミラは小さく頷いた。
その時、広場の石柱がかすかに震えた。
井戸の底から、ぽちゃん、と水音が響く。
レインは井戸を振り返った。
一瞬だけ、濁った水面に何かが映った気がした。
炎の中を走る、小さな影。
誰かに手を引かれ、泣きながら北の森へ向かう子ども。
そして、途切れ途切れの声。
――倉庫へ。
――隠れて。
――見つからないで。
レインは拳を握った。
北の旧倉庫には、井戸を直す部品だけではない。
この村が消えた夜の手がかりも、きっと残っている。
そう確信した。




