井7 密室
黙って廊下を進む東三条先生の後ろを歩きながら、双葉和歌名は、落ち着かなげに、自分のカールしたくせっ毛を触っていた。
いつもの癖で、高い背丈を気にして、猫背気味に歩く。
今日の和歌名の服装は、腰が隠れるくらいに若干長めな白いブラウスと、紺色のジーンズという出で立ちだった。ブラウスの丈が長いのは、ちょっとでもスカート風に見せたいという、和歌名の僅かながらの抵抗(?)だった。
…わたしには、真愛ちゃんや、衣埜莉ちゃんのような、可愛い女の子らしい服は似合わない。スカートは恥ずかしい。でも、靴下や、特に、ハンカチ等の見えないところのお洒落では、極端に甘い少女趣味に走っているということは、
……誰にも内緒だ。
前を歩いていた東三条先生が、立ち止まる。
そこは、音楽室の前だった。
先生は、他の教室の扉よりも少し分厚い扉を横に開き、脇によけると、和歌名に中に入るように促した。
和歌名が入っていくと、先生は背を向けて、一瞬扉の前で手間取るような仕草を見せていたが、それは、和歌名の気のせいだったのかもしれない。
防音壁に貼られた濃い緑色の布。上履きの足音を吸い込むグレーの絨毯。どことなく湿気った木の香りが鼻腔をくすぐる。
「そこに座って。」と東三条先生が、余ったピアノ椅子を指差した。
和歌名が腰を下ろすと、先生も、パイプ椅子を引っ張ってきて、自分もそこに座る。和歌名との距離は、丁度机1台分くらいだった。
「……さて。」先生が両手の指を組み合わせて、前のめりに和歌名の顔を見る。東三条先生の瞳が、長い睫毛の間でブラウンに光るのが見えた。かすかな香水の香りがする。
東三条先生は、紺色のジャケットのポケットから、鎖に繋がれた銀色の懐中時計を取り出して、時間をちらっと見た。天井のオレンジ色の照明の光を反射して、時計の輪郭が鈍く輝いている。
「違っていたら、ごめんね?」深く落ち着いた声で、東三条先生が言う。「双葉さん、さっきの様子だと、今朝の朝当番の時に、ひょっとしたら何か見たんじゃないかな?」
「え」「隠さなくてもいいよ。さっき教室で質問した時、少し様子がおかしかったから。」「いいえ、わたし、なにも……」
「ふうん?」東三条先生は口に出してそう言うと、目を伏せた和歌名のことを、じっと見つめてきた。
「そっか。」
やがて先生が柔らかく微笑む。「なら、いいんだけど。」と言い、先生はパイプ椅子に深くもたれ直した。
「……も、もういいですか?」和歌名は、握り締めた手のひらに、汗をにじませながら恐る恐る顔を上げた。
東三条先生は、顔の前にかざした自分の爪を見ながら「…それにしても……、リコーダーがなくなった女子は、……クラスでも目立つ子ばかりでしたね。」と言って口元を緩めた。先生は続けて「ああいう子達は、やっぱり狙われやすいんですかね。」と言って、改めてこちらの方を見返してきた。
和歌名は顔を赤くして、再びうつむいてしまった。みるみるうちに首から上が、耳たぶまで真っ赤になり、額の生え際のうぶ毛が、にじんだ汗で張り付いているのがわかった。
「あれ?意外と…。」と先生が可笑しそうに笑いながら言う。先生は、小指の爪だけ伸ばしていた。
「犯人は、見る目がなかったようですね。」
「双葉さんも、リコーダーを盗られてもおかしくなかった。」
「本当に、今朝は何も見ていないんですね?」「え?は、はい」和歌名が辛うじて口に出せた言葉はかすれていて、よく聞き取ることが出来なかった。先生は、もう一度聞きたそうに口を開きかけたが、思い直して、椅子に足を組んで座り直した。……和歌名は、何となく違和感を感じて、目蓋の裏がピリピリとするのを感じた。
「…そういえば、昨日の宍戸さんのこと。聞きましたよ?」和歌名の肩がびくりと震える。その様子を興味深そうに見ていた東三条先生が「ああ、柿本先生から聞きました。君と高嶺さんで、宍戸さんがこぼした水筒の中身を、」「拭いてあげたそうですね。」
和歌名から返事がないので、東三条先生は軽くため息をついてから言葉を続ける。「でも、あの宍戸さんが、学校にジュースを持ってくるなんて。まあ………正直、意外でしたね。」
「柿本先生や、他の先生方とも話していたんですが、」「こうも風紀が乱れてしまうと、」「抜き打ちで、水筒の中身チェックかが必要になるかもしれませんね。」コロンの淡い香り。再びポケットから取り出された懐中時計が、手から滑り落ち、落ちきってしまう前に握られた拳の下で跳ね、その後はゆっくりと左右に揺れる。閉めきった音楽室の角で、加湿器のタイマーが作動したのか、中の水がコポコポと音を立て始め、甘い匂いが蒸気と共に吹き出された。東三条先生は、ピアノの上に置かれたメトロノームの針を、軽く指で弾き、それは一定のリズムを刻み始めた。
カチ、チーン…カチ、チーン…カチ、チーン…カチ…
「双葉さん?聞いてる?」「は、はい」「うーん。ねえ、双葉さん?……本当に、今朝は何も見ていないんですね?」
和歌名はからからになった口の中で、ようやく唾を呑み込んで「……見ていません。」とだけ答えた。…何だろう、この違和感は。
「後になって、やっぱり見ました。では困りますからね。」東三条先生が微笑む。
「双葉さん?」「は、はい」「場合によっては、水筒の抜き打ち検査の時、」「……誰かの水筒から、ジュースが見つかることだって、あり得ない話ではないんですからね。」
「……え?」「わかっているはずです。そういうこともあり得る、ということです。」「せ、せんせい…?」メトロノームの音が止まった。
その瞬間だった。和歌名は、さっきまで感じていた『違和感』の正体に気が付いた。
何故、先生は、わたしがリコーダーを盗られていない、ことを知っていたのだろうか?
わたしは…、誰にも喋っていない……はず。誰かが先生にそう言った?え?わからない。
東三条先生が、にっこりと笑う。
「双葉さんは、」「いつも男の子みたいな格好ですよね。」……え?なに?「ひょっとしたら……、君は自分の性別に違和感を持っているタイプなのかな?」え?え?「いや、なにも恥ずかしがることはないですよ。今の世の中では、特別おかしなことではないから。」え?なに?せんせいは、なにを言っているの?
「君といつも一緒にいる、高嶺真愛さん…、あの子、可愛いですよね?」東三条先生が顔を近付けてくる。和歌名は思わずピアノ椅子から立ち上がって、後ろに飛び退いた。「ああ、なるほど。やっぱりね。私のことは嫌ですか。…君は、もしかして、女の子が好きなのかな?」…え?え?え?「そんなに嫌がらないでください。クラスの他の女の子でしたら、私の指導を喜んで受けてくれますよ?」
和歌名は頭の中が真っ白になって、無我夢中で扉に向かって走り出していた。足がもつれて、途中に置いてあったクラシックギターにぶつかる。倒れたギターから、歪んだ弦の不協和音が反響する。
扉に手をかけた和歌名は、それがロックされていることに気が付いた。内側からの鍵なので、本来は外せば良いだけなのだが、
和歌名は、パニックになって、そのまま開かない扉をガタガタと揺すっていた。
気付くと、いつの間にか背中のすぐ後ろに東三条先生が立っていた。
「……君が男の子になりたいと言うのなら、それは認められるべきです。」
シューッと加湿器から蒸気の吹き出す音がする。甘い、眠くなるような、懐かしいような、とても優しい匂い…あれ?あれ?わたし、何をしていたんだっけ?逃げようとしていた?何から?あれ?「でも、まだまだ世の中には偏見もあってね。」東三条先生の口角が、片側だけ上がる。乾燥した唇の端だけがかすかに泡立っているのが見えた。「君が、今朝見たことを誰にも言わなければ、この学校で、そういった偏見に晒されこともないでしょう。」「わ、わたし、なにも見ていません……!」
「そう。それでいいんです。……正直、君が男の子になりたかろうが、そんなことは、他人にはどうだっていいことですからね。」先生がアハハと笑う。「わたしは……わたしは…、女子です。男の子になんて、なり…、」震える声で、和歌名が言うと、素早く東三条先生が、扉を背にした和歌名の上から覆い被さった。そして勢い良く手のひらを壁に押し付けながら「ふうん?それなら、君が女の子だっていう証拠を見せてくれないかな?」と言って、目線を下に落とした。
予鈴が鳴り響く。和歌名は腰が抜けて、その場に座り込んでしまいそうになったが、その寸前、東三条先生が脇の下に手を差し込み、無理矢理立ち上がらせた。「双葉さん、大丈夫ですか?」和歌名はぼんやりと放心した顔で、先生の顔を見上げる。「……あれ?わたし…?なにを」「大丈夫ですか?双葉さん、音楽室に入ったと思ったら、急に倒れそうになったんですよ。」
扉の鍵がカチャリと開かれる音がした。「あ、ありがとう、ございます。」
和歌名は、自分が東三条先生に抱き止められていることに気付いて、顔を赤くした。脇に差し込まれた手から解放される直前、和歌名は東三条先生の片手の親指が、かすかに服の上をなぞるのを感じたような気がした。……多分、気のせいだ。
「どうかしたの、和歌ちゃん?」顔を覗き込んでくる、淡い褐色の肌の女の子。青ざめた表情の和歌名は、友達の可愛らしい顔を見て、思わず肩を引き寄せて、抱き締めたくなる衝動を抑えた。
「和歌ちゃん?」「ん、なんでもない…。」「ねえ、なんか変だよ?どうしたの?」一瞬の沈黙の後、和歌名が口を開く。「真愛ちゃんはさ、わたしがリコーダーを…」「ん?」「…いや、なんでもない。」
わたしが、リコーダーを盗られていないことは……、やっぱり言えない。東三条先生は、さっき何て言ってたっけ?なんだかぼんやりとして思い出せない。夢だったの?いや、そんなことはない。鼻の奥に甘い香りだけが残っている…。
「ねえ、…真愛ちゃんは、東三条先生のこと、どう思う?」「なあに突然?あ、はは~ん、和歌ちゃん、さっき先生に連れていかれてなに話したのぉ?」真愛が、こちらを指でつつく真似をする。和歌名は、さっき倒れそうになったところを先生に抱き止められたことを思い返して。耳を赤く染めていた。
その様子を見て、目を閉じた真愛が、胸の前で腕を組んで、(ふんふん)と1人で頷く。「まあ、東三条先生って、カッコいいからねえ。……でもさ、なんて言うか、優しすぎてキモい?…かも。」
ああ!真愛ちゃん!あなたならわかってくれると思っていたわ!そう、それが言いたかったの!さっきのこと、何故かよく覚えていないけど、なんか、気持ち悪いの!
和歌名は結局、真愛の手をぎゅっと握っていた。「ちょ、ちょっと和歌ちゃん?!」顔を真っ赤にして、真愛が首をぶるぶると横に振る。羽のように宙を舞うツインテールが、和歌名の額に何度もぶつかった。
その時、目の端に、柿本聖羅先生が教室に戻ってくるところが見えた。東三条先生は、いない。
柿本先生が黒板の前に立つ。国語の教科書の角を揃えて、静かにトントンと教卓の上で叩いた。 「皆さん。」
始業のチャイムが鳴った。
「今日のリコーダーの件、……先程、東三条先生とお話ししてきました。今、他の先生方と一緒に、校内のどこかにリコーダーがないかと、探しているところです。」
和歌名は、ちらっと、さやかちゃんの机に目をやった。さやかちゃんは、この件と何か関わりがあるのだろうか。昨日の朝のこと、早川くんに聞きそびれてしまったから、次の休み時間こそは問いただしてみないと。
あ、でも考えてみたら、…さやかちゃんだってリコーダーがなくなっている可能性があるよね。盗まれた(?)子は、みんな特別に可愛い子だけだった。
……だからこそわたしのリコーダーは無事だったわけだけど…。とにかく!
和歌名は首を振った。休み時間になったら、さやかちゃんのリコーダーがあるかどうか、こっそり確かめてみよう。
いつの間にか、柿本先生が一通り伝達事項を終え、国語の授業をようやく始めようとしているところだった。和歌名は、体に妙な疲れや気だるさを感じたが、自分の手の甲をつねって、国語の授業に意識を向けようとした。
次回、『嘘と嘘』




