井5 和歌名ちゃんの手助け
斉藤水穂と井上咲愛が、
鳴り響く予鈴の中、廊下を駆けていく。
すれ違いざまに、ぶつかりそうになった双葉和歌名が、体勢を崩してよろける。
「ごめんなさい」と言ったのは、和歌名の方だったが、当の2人は、彼女を無視して走り去っていってしまった。
…廊下は走っちゃいけないのに。
今日の日直だった和歌名は、一時間目の終わりに黒板掃除をしていた。しかし、もうひとりの日直の男子が、ふざけてチョークの粉を散らかしたせいで、片付けに時間がかかってしまっていたのだ。
おかげで、もうすぐ次の授業が始まりそうな時間だ。……ちなみに、そのふざけていた男子は、今頃、真愛ちゃんに怒られて、しょんぼりしていることだろう…。いい気味だ。
そうこうしている間に予鈴が鳴り始め、
和歌名は、競歩のような速度で、廊下を縦断して、御手洗いに向かっていた。
次の授業が始まる前に、手に付いたチョークの粉を洗い流してしまいたい。急がなきゃ。和歌名は上履きのゴムをきゅっといわせて直角に廊下を曲がり、滑り込むように御手洗いに入った。
「あ」
和歌名が御手洗いに入ると、すぐに、それが目に入った。
見間違えようのない、淡い栗色の髪の後ろに付いた、可愛いチェック柄の赤いリボン。
そこには、うつむいた赤城衣埜莉が、立っていて、目の前の白い洗面台の上には、大小様々な、幾つもの赤い斑点が飛び散っていた。
和歌名は瞬時に状況を理解した。
……衣埜莉ちゃん、急に鼻血が始まっちゃったんだ。
和歌名自身はまだ、鼻血を出したことはなかったが、『万が一のため』に、母親から鼻血用のコットンティッシュを持たされていた。
和歌名は、手早く自分のハンカチポーチから、それを一袋取り出すと、衣埜莉に向かってそっと差し出した。
目の前に差し出されたものを見ても、衣埜莉は、すぐに受け取ろうとしなかった。
見かねた和歌名が、コットンティッシュの個包装の袋を破き、顔の前にもう一度差し出す。
……諦めたように、衣埜莉はそれを手に取った。そして(彼女も初めてであろう)止血のやり方に戸惑いながら、その小さくて白い、高い鼻にティッシュをあてがった。
衣埜莉が「……誰かに言ったら…、」「わたし、あなたをコロスからね。」と目を合わせないままつぶやく。
「……衣埜莉ちゃん、ハンカチは?」
和歌名の言葉が、衣埜莉には聞こえなかったのか、彼女は何も答えなかった。見ると、運良く彼女の服には、血が付いていないようだった。
でも保健室に行って、替えのハンカチを借りた方がいいのかもしれない。
「ね、保健室に行こ?」和歌名は出来るだけ優しく声をかけ、そっと衣埜莉の髪の毛をさすった。
「な!…やめてよ!」勢いよく手が払いのけられる。「ご、ごめん、」
和歌名が想像した通り、一瞬触れた衣埜莉の髪の毛は、滑るようにさらさらで、指にいっさいの抵抗を感じなかった。
衣埜莉が、こちらをきっ、と睨んで言った。
「……わたしは、早退とかしないからね。」「音楽のテストも受ける。」
「……でも、でも…無理しちゃダメだと思うよ」
予鈴はとうに鳴り終わっていた。あと5分。あと5分で、教室からリコーダーと教科書を取ってきて、音楽室に移動しなければならない。和歌名は慌てて、自分もラバトリーシンクの前に立ち、急いで手を洗い始めた。
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唐突に、衣埜莉は、鼻からティッシュを離すと、「もう止まったわ」と言った。
鏡の前で少し上向きになり、自分の鼻の穴を確認すると「もう止まったわ。」と再び言う。
鼻血の出方は人それぞれだが、衣埜莉の場合は、すぐに鼻の奥で固まって、出血を塞いでくれているようだった。それでも、ある程度の量の血を飲み込んでしまったせいで、喉に焼けるような痛みが残っていた。
衣埜莉は、洗面台に水を流し、さっき和歌名からもらったティッシュを丸めて、ゴシゴシと血の跡を洗い流し始めた。
「ハンカチの方は大丈夫?血が付いちゃってない?」自分のハンカチで手を拭きながら和歌名が声をかけると、
「それ以上言ったら、あなた、ほんと、コロスからね。」と衣埜莉が言った。
「……」
「……でも、まあ、あれね、」衣埜莉が、視線をななめ上に逸らしながら、人差し指で頬をかく。
「ありがとね」
急にお礼を言われたことで、逆にびっくりしている和歌名の顔を見た衣埜莉は、「なによ?なにが言いたいのよ」とだけ言うと、再び、自分の血を拭く作業に戻った。
「もう!なんなのよ!この染み、取れないじゃない!あなた、もう一枚、ティッシュないの?あ~、もう!…それにしても、なんでわたしだけ、こんな思いしなきゃならないのよ!」と叫び、何かが吹っ切れたように、ドスドスと地団駄を踏んだ。足踏みする度に衣埜莉のまっすぐな髪が上下に跳ねる。
「……さいあく。喉が痛い…」
「お母さんが言ってた。」和歌名がポツリと言う。「鼻血は、誰でも出るんだって。」
「は?なにを偉そうに?だからなんなの?……あなたは鼻血が出たの?わたしは、何で今、わ、た、し、が!こんな目に合わなきゃいけないか、って言ってるの!あ~!イライラする!もう、最悪!最悪!最悪!」
何故か「最悪」と言う度に、衣埜莉の顔色に血の気が戻っていくようだった。
「あーもうなんでもいいわ!ほら、あんたも!さっさと、戻るわよ。」
すでに足早に歩き出した衣埜莉を、和歌名は慌てて追いかけていた。
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しかし、2人が戻ると、
教室の様子が、変だった。
始業時間ぎりぎりになっているはずなのに、まだ、教室には半数の生徒が残っていて、
あちこちに固まったグループが、何やら興奮して、話し合っているのが見えた。
「あ、衣埜莉ちゃん!」水穂が走り寄ってくる。「大変だよ!」
何かを言いかけた水穂は、横にいる和歌名の存在に気付いて、一瞬怪訝そうな顔をする。
確かに、わたしと衣埜莉ちゃんは、珍しい組み合わせだ。和歌名はそう考えて、居心地が悪そうに視線をさ迷わせた。
「大変だよ!衣埜莉ちゃん!」 「まあ、落ち着いて。何があったの?」
「聞いて!……女子達の、リコーダーがないの…!盗まれたの!」「は?なにそれ?」衣埜莉が答える。
「わたしも、わかんないよ。とにかく!わたしも、咲愛ちゃんも、他の何人かの女子も!リコーダーがないの!……なくなってるの!」
そこで始業のチャイムが鳴る。
衣埜莉は、眉をしかめると、教室の後ろにある自分のロッカーに行って、リコーダーの袋を確かめてみた。……袋は空っぽだった。
「…ないわ。」同じく空っぽのハンカチポーチを片手でぎゅっと押さえながら、衣埜莉が振り返って言う。
和歌名は、まさか、と思いながら、自分のロッカーに走っていた。
「……」「………」「…………。」固いものが手に触る。
「(……あった。)」和歌名のリコーダーは、ちやんと袋に入っていた。
突然、後ろから「和歌ちゃん!わたしのもないの!」と声がしたので、びくっとして振り向くと、褐色の肌をした高嶺真愛が立っていた。
咄嗟に、和歌名はリコーダー袋をロッカーの奥に押し込んだ。
真愛は怒り心頭といった感じで、腕を胸の前で組み、スカートから飛び出した細い脚を開いて、踏ん張って立っていた。「和歌ちゃんもないの?わたしもリコーダー、なくなってるの!盗まれた!キモい!キモ過ぎる!」「ま、まだ盗まれたって決まったわけじゃないよ。」
教室のあちこちで、女子達が「わたしのは、ない」「わたしのは、あった」と、悲喜こもごもの声が上がっていた。
そこで、教室の扉ががらりと開き、背の高い男の先生が入ってきた。
東三条克徳先生。クラスの副担任で、音楽の先生。すらりとした長身に、甘いマスク。カールした黒い前髪。低音のイケボイス。さりげなく開かれた襟。そして、何より優しい。さらに音大出身で、ピアノはプロ並みの腕と噂されている。
当然、女子の人気は高く、大抵の子は、先生のリコーダーの指導を受けたがっていた。何せ、指の押さえる位置を手取り足取り(?)教えてくれるのだから。
「どうかしたのかな?もう、授業は始まっているよ。」東三条先生はしばらく周りを見回した後、お目当ての学級委員を見つけると歩み寄ってきた。「赤城さん、何があったのかな?知っていたら、教えてもらえますか?」
声をかけられた衣埜莉は、すぐに返事をせず、ポーチの付いた方の体を斜めにして、半歩後ろに下がった。
すかさず、割り込むように水穂と咲愛が出てきて、我先にと東三条先生に状況を報告する。
「先生!」「先生!」「大変です!女子のリコーダーが、」「盗まれたんです!」「です!」
「何だって?!」東三条先生が「大変だ」と言って教卓の方に向かう。「赤城さん、永宮さん、悪いけど、音楽室に行ってる子達を呼び戻してきてくれるかな?」「はい」
男女学級委員の2人が教室を出ると、東三条先生は、「困ったぞ」と腕を組み直した。
和歌名は、皆の顔を見回していた。
…リコーダーがなくなった女の子達……、なんて言うか……みんな『可愛い』子達だけだ。クラスの中で『普通以上』の可愛い子達だけが、リコーダーを盗まれた……の?
「…和歌ちゃん」真愛が、横に立って袖を引っ張ってくる。
「ねえ、これってさ……、多分男子の誰かの仕業だよね?なんか、キモすぎて、吐きそうなんだけど。」真愛が身震いするのがわかった。「でも真愛ちゃん、まだ、男子に盗まれたって決まったわけじゃ…。」
「なあ、」急に、クラスメイトの早川雄大が声をかけてくる。「話しかけんな、キモ。」真愛が和歌名の背中に隠れる。それを見た雄大が「なんだよ、俺がなにしたってんだよ。」と言った。
「早川くん、なあに?」代わりに和歌名が返事を返す。真愛はと言えば、大袈裟に背中を丸めて、身長の高い和歌名の後ろに身を隠しながら、雄大のことを睨みつけていた。
「まったく。まともに話せるのは双葉くらいだよ。」雄大が大きなため息をつくと、和歌名はもう一度「早川くん、なあに?ひょっとして何か知ってるの?」と言葉をかけた。
「俺さ…、お前らのリコーダー、誰が隠したか知ってるかも。」「え?隠した?盗まれたんじゃなくて?」真愛が背中から顔を覗かせる。
「やっぱりそうなのね、和歌ちゃん、こいつが犯人よ。」「な、なんで、そうなる?!」
「違うんだよ、俺、昨日見ちゃったんだ。」「なにを?」「昨日俺、日直だっただろ?」「それがどうかしたの?」「珍しく朝寝坊しないでさ、朝当番に一番乗りだったんだよ、」「その話、長いの?」「真愛ちゃん、ちょっと聞いてあげよ?」雄大がごほんと咳払いの真似をしてから、声を潜める。
「(…それでさ、朝いちで教室に入ったらさ……、)」よく聞こえないので和歌名と真愛が、雄大に顔を近付けると、思わぬことを彼は口にした。
「何故か、日直でもない宍戸さやかが、そこにいたんだよ。」
その時、ざわめきと共に、教室の扉から、先に音楽室へ行っていた生徒達が戻ってきたのが見えた。学級委員の赤城衣埜莉が、先生に何かを報告する。
東三条先生が「はい、みんな、席に戻って」と言いながら手をたたく。
和歌名は、心臓がばくばくとして、思わず自分の胸元を服の上からぎゅっと握っていた。
……さやか、ちゃん? 和歌名の頭の中に、昨日の出来事が映画のシーンのように去来する。柿本先生に抱き止められながら、笑いをこらえていた、さやかちゃんの、あの顔……。
「ねえ、早川くん?」席に戻ろうとする雄大を、和歌名が呼び止める。「なんだよ?」「今の話って……、ほんと?」「ほんとだよ!なんで嘘なん」「じゃあ、黙ってて」「は?」「今の話、他の人には黙ってて。」「(なんでだよ?)」
そこに真愛が割り込んできた。「あんた、バカなの?なんでぇ~?じゃないの、わか様がそう言ってるんだから、あんたはそれに従ってればいいの。」「なんだよ、それ?俺に人権はないのかよ」「ないわよ。」「真愛ちゃん?」真愛がペロリと舌を出す。
「…とにかく、早川くん、今の話はいったん誰にも言わないで。」和歌名が雄大の目をじっと見つめる。「…あ、ああ。わかったよ。だからもう、そんな怖い顔するなって。」雄大の顔は何故か赤くなっていた。
席に戻る前に、真愛が和歌名の裾を引っ張っる。「…和歌ちゃんが、何を考えているのかわからないけど…わたしも、今さやかちゃんのことは、そっとしておいた方がいいと思うの。………でもさ、さっきの話、本当だとしたら……、和歌ちゃんは、その、どう思う?」
「え?正直、わたしにもわからないよ。…それにまだ、さやかちゃんが、みんなのリコーダーに何かしたのかもわからないでしょ。」「そうだね、和歌ちゃん。…それに、早川の言うことなんて、元々あてにならなさそうだしね。」
最後に和歌名と真愛が席に着くと、東三条先生が静かに言った。「…今日は、音楽のテストの予定でしたが、」「こんなことになってしまったので、急遽クラス会議を開こうと思います。」
「今回の件は、柿本先生には、赤城さんから伝えてもらっています。柿本先生は、今、ひかり学級のご用事で手が離せません。先生が戻るまで、教室にいるようにと、赤城さんから今伝言をもらいました。」
「先生!」
「はい、井上さん、なんでしょう?」
井上咲愛が頬を紅潮させて起立する。「わたし達のリコーダーがなくなったことについてですが…」咲愛が艶のあるショートボブの毛先を指で弾く。
「警察に通報するべきだと思います!」
「そうだよ」「そうだよ」と、女子達から賛成の声が上がる。
「確かに。」そう言った東三条先生が、顎に左手をあてがった。その薬指に指輪が光っている。先生はつい最近、婚約をしたそうだ。相手はどんな女の人なんだろう。
「…確かに、盗難があったと言うのなら、警察に通報しなければいけないね。」
和歌名には、前方の席に座る真愛が、
早川雄大のことを、凄い顔で睨んでいるのが見えていた…。
次回、『東三条先生の学級裁判』




