井4 衣埜莉ちゃんの災難
「ママ!どうして、全部わたしのハンカチに名前を書いちゃったの?!」
赤城衣埜莉は、母親に詰めよっていた。
「どうして、って、今までもそれで使っていたじゃない?……なあに、急に?」
化粧水を顔に塗っていた母親が、戸惑ったように眉をしかめて答える。
「名前なんか書いてあるから、もう恥ずかしくて学校に持っていけないよ!」衣埜莉は、涙目になって怒っていた。「明日からわたし、どのハンカチを持っていけばいいの!!」
一瞬、驚いた顔をした母親だったが、やがて大きなため息をつくと
「……困った子ねえ。わかったから。ほら、もう、わかったから。そんなに怒らないで。そういうことなら、これを使いなさい。」
そんな優しい言葉と共に、母親から差し出されたもの。
…それは、母親が自分の箪笥から持ってきた、薔薇の花輪が刺繍された、あのドイツ製のハンカチだった。
「こんなばばくさいの、嫌!!」
「な……っ、衣埜莉?どういうこと!ばばくさいって、なに?なんなの、これが……!ばばくさいですって?!は?……ばばくさい?ああ、もう、勝手になさい!」 「じゃあ勝手にするわ!!」「は?なに言ってるのよ?あなた、明日ハンカチを持っていかないつもり?!よく考えて物を言いなさい、あなた、今いったい幾つになったの?赤ちゃんなの?!」
思わず口走った言葉に、母親自身が驚いてすぐに口ごもる。
一瞬、表情の固まった娘は、「ひどい!」と叫ぶと同時に、泣きながら二階へと駆け上がっていった。そのまま飛び込むように部屋に入ると、後はベッドに突っ伏して、階下まで聞こえるように、大きな声で泣きわめき続けた。
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…どれくらい時間が、経っただろう。お盆に夕食を乗せて上がってきた母親が、娘の部屋の扉をノックする。
すでに泣きやんでいるのか、扉の向こうはしんと静まりかえっていた。
母親は、食事と一緒に、何枚か、自分が一番可愛らしいと思った柄の『ばばくさい』ハンカチをお盆に乗せて持ってきていた。
「衣埜莉ちゃん、……聞こえてる?さっきはごめんね。このハンカチ……なんか今、若者にも流行ってるみたいよ。これなら使えるんじゃない?」
返事がないので、「ここに置いておくね」とだけ言い残すと、母親は、お盆を廊下に置いて、暗い顔をしたまま階下へと降りていってしまった。
またしばらくの時間が経過して、扉がゆっくりと開かれる。
泣き腫らした目で、衣埜莉は、シチューの横に置かれたハンカチを見る。
「こんな、ばばくさいのは、……嫌。」
衣埜莉は、柔らかい手触りのハンカチを掴むと、部屋の隅に投げ捨てた。
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翌朝。
……どうしよう。学校に行きたくない。……あんなハンカチは…、持っていけない。
衣埜莉は、ペールブラウンのランドセルを背負ったまま、部屋の中央に立っていた。
サスペンダー付きのスカート。ふくらはぎをピッタリと締め付ける白い靴下。髪にはチェック柄の赤いリボンを付けて、もう、登校の準備は完璧に整っている。
……そう、ハンカチ以外は。
赤城衣埜莉は、小学校に入って以来、一度も欠席したことがなかった。
特別、体が丈夫というわけではないと思うのだが、病気になった時も、その日が偶然、休日であったこともあり、今まで学校を休まずに済んでいた。
無遅刻無欠席。皆勤賞。衣埜莉の通う小学校で、6年間その記録を続けられた生徒は、ここ20年間1人もいないと聞いている。
衣埜莉は、5年生までその記録を途切れさせていない。衣埜莉は、そのことを誇りに思っていた。
わたしは、簡単に休むわけにはいかないのだ。
衣埜莉は今朝で、何度目になるかわからない、鏡台の引き出しを開けて、中の確認を行っていた。
色とりどりのハンカチには、全て同じ位置に『あかぎ いのり』とサインペンで名前が書かれている。
今までは、当然のこととして、気にしたこともなかった。小さい頃からそうであったから、5年生になった今でも、ハンカチに名前が書いてあることを恥ずかしい、と感じたことはなかった。昨日までは。
……今まで誰かに見られて、ばれていなかったことは、奇跡でしかない。
もう、時間がない。登校班の集合時間ぎりぎりだ。トントン、と優しく扉がノックされる。「…衣埜莉ちゃん?大丈夫?もう時間よ?」
衣埜莉は、ランドセルの背負い紐をぎゅっと握ると、唇を噛んだ。
いつものように、スカートのベルトループ部分に通した、ギンガムチェックのハンカチポーチの上で、手のひらをさ迷わせるが、あのばばくさいハンカチだけは、どうしても入れることができない。
…とうとう、衣埜莉は、中にハンカチを入れないまま、銀色のスナップボタンをパチンと閉じていた。
更に赤いリボンの付いた上蓋部分を隠すように、肩から薄水色のカーディガンを羽織る。
「…今、行く。」 衣埜莉は、自分に言い聞かせるようにつぶやいて、
扉を開けて、廊下へと踏み出した。そのまま無言で母親の脇をすり抜けて、階段を足早に降り、真っ直ぐ玄関に向かう。
……衣埜莉は、自分のポーチに、ハンカチが入っていないのにもかかわらず、そのまま家の外へ飛び出していってしまった。
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「……」
「……の……」
「……の……ちゃ…」
「衣埜莉ちゃん?」「え?な、なに?」
衣埜莉は耳を赤くして、友達の方を向いた。
机の前には、いつもの二人、斉藤水穂と井上咲愛が立っていて、こちらの顔を覗き込んでいる。
「聞いてた?」「ん?なに?」「もう!今日、結局、宍戸さん学校休んだね、って言ったの。」「あ、ああ、そう?そうみたいね。」
水穂と咲愛は、衣埜莉の方に顔を寄せあって、こそこそと小さな声で言った。「…もう、学校来れないかもね」「さすがにちょっと、可哀想かも。」
それを聞いた衣埜莉は、心ここにあらずといった様子で、曖昧に頷いた。
水穂と咲愛は、顔を見合わせる。
「そっか~衣埜莉ちゃんは、宍戸さんのこととか、あんまし興味ないよね。」水穂達は、そう言って笑うと「あ、朝の会、始まるよ」と自分達の席に戻っていった。
……なにも耳に入ってこない。なにもアタマに入ってこない……。
衣埜莉は、何度も何度も、ハンカチポーチのスナップボタンがきちんと閉まっているかを、指先で確かめていた。
ハンカチは、見せびらかすものではない。当たり前だ。それはわかっている。…アタマではわかっているのに…、もし、ポーチの蓋がめくれて、今日の衣埜莉がハンカチを持っていない、なんてことがばれてしまったら……、もし、それを誰かに見られてしまったとしたら……、
そう考えると、きちんと蓋が閉まっているかどうかを、何度でも確認せずにはいられない。
それに、今日1日は、手を汚すことを、極力避けなければいけない。ハンカチを使う状況を作らないように、慎重に行動しなければ。
……そう考えたそばから、衣埜莉の手は、汗で、じっとりと濡れていた。
机の上に置いていた手のひらの跡が、白く浮き出しているのを見て、慌ててそれを教科書で隠す。
「……かぎ…ん」
「あ………さん」
「…赤城さん?」「は、はい?!」衣埜莉は自分が、柿本先生に指されていることに気が付いて、慌てて席から立ち上がった。
「この問題解いてもらえる?」「…は、はい!」「ちょっとややこしい問題だから、赤城さんに説明してもらいたいの。赤城さんなら、みんながわかりやすく出来ると思って。……えーっと、出来る?」
算数は、いつも自信満々で、指されると颯爽と髪を靡かせて黒板に向かう衣埜莉が、今日はまだ席を離れようとしないので、
柿本先生は、『珍しいこともあるな』と考えていた。他のクラスメイト達も同じ気持ちだった。
……とにかく落ち着かないと…。衣埜莉は、もう一度、腰に付けたポーチのスナップボタンが閉じられているかを確かめていた。黒板の前に立ったからといって、ハンカチがないことがばれるわけではない。
衣埜莉は、席を引いて、教卓の前へと足を進めた。自然と皆の目が、衣埜莉の歩く姿を追いかける。
衣埜莉は、スカートのベルトループに付けた空っぽのポーチが、歩くたびに跳ねて、太ももに当たる感触が気になって、
少し、腰を引いてポーチを手で押さえながら歩くことにした。
そして、左手で上蓋を押さえたまま、もう片方の手でチョークを掴み、黒板の問題を解き始める。
黒板の上の方に書かれた部分を解くために、衣埜莉は少し背伸びしなければならなかった。かかとを上げる姿勢になると、スカートのサスペンダーのクリップも一緒に突っ張られ、繋がったハンカチポーチのスナップボタンにも引っ張る圧力がかかるのを感じた。
…腰に押し付けた左手に、力を入れ直す。
一番前の席で、その様子を見ていた、褐色肌の少女、高嶺真愛は、
赤城衣埜莉が手で押さえている、ギンガムチェックのハンカチポーチに視線を合わせていた。普段は気にするようなことではないのに、衣埜莉が不自然に?手を添えているせいで、皆も何とはなしに、そこに注目しているような感じだった。…可愛いポーチ。そこには、後ろ姿の衣埜莉の髪についた大きなリボンと(模様は違うが)、色を合わせた赤い小さなリボンが付いている。それが、若干丈の足りない水色のカーディガンの裾から見え隠れしていて、…悔しいけど、すごく、可愛い……。
真愛は、女の子だが、思わず、赤城さんのハンカチポーチの中には、どんなハンカチが入っているんだろうな、と考えて顔を赤くしていた。
……でも、昨日の赤城さんは、意地悪だった。さやかちゃんが、あんなことになったのに、赤城さんはひどい言い方をした。
………、
……………、
…………………。
でも、さやかちゃんだって、いけないところがある。学校にジュースを持ってきていたのは、どう考えたって、さやかちゃんがいけない。昨日は咄嗟に庇ったけれど、本当は、これに関しては、さやかちゃんの方が悪い。
でも、…このままじゃいけない気がする…。
真愛が物思いに耽っている間に、衣埜莉は問題を解き終え、自分の席に戻っていた。
勿論、全て正解。更にわかりやすく綺麗に書かれた解法は、柿本先生が改めて解説するまでもない完璧なものだった。
衣埜莉は、汗ばんだ額を、ぬぐわずに手の甲でとんとんと叩いて、そっと乾かしていた。右手の指に残ったチョークの粉を、親指と人差し指を擦り合わせて落とす。
休み時間に手を洗いたい…。でもダメ。今日は、ハンカチを持ってきていないのだ。
どうしよう?
*****
……ようやく、休み時間になった。
衣埜莉は、さんざん迷った挙げ句、席を離れて御手洗いの方へと向かっていた。
「さっきの問題、わたし、わかんなかった~。さっすが、衣埜莉ちゃん!」水穂が、後ろから駆け寄ってくる。咲愛も走り寄ってきて、水穂にわざとぶつかって、くすくすと笑い合った。
衣埜莉は、御手洗いの入り口を横目に、そのまま前を通り過ぎようとした。
「あ、衣埜莉ちゃん、ちょっと待って。」咲愛が声をかける。「わたし、ちょっと手を洗ってくね」「あ、じゃ、わたしも。」水穂が言う。
「あ、じゃ、わたし、外で待ってるね」衣埜莉がそう言うと、「えー、一緒に洗おうよ~、さっき、チョーク触ってたじゃん」と水穂が肩にしがみついてきた。衣埜莉の、ハンカチポーチの上に被せた手に力が入る。
2人は、そのまま、この共通の友人を両脇から挟み込むと、女子用の御手洗いに連れ込んでしまった。
正面に鏡の付いたラバトリーシンク が五つ。それぞれ、お互いの手元が見えないように、平たくて白い衝立てがしてある。四つは、自動水洗で、一番端の洗面器だけ、旧来の蛇口を捻って水を出すタイプのものだった。
水穂と咲愛は、すぐに蛇口に手をかざして、ぴちゃぴちゃと手を洗い始めた。衣埜莉は、2人とは洗面所を一つ離して、(古い蛇口のところはよけて)立った。
…水穂ちゃんに、チョークで汚れている、と言われてしまったからには、もう手を洗わないわけにはいかなくなった。…でも、そうだ、ちょっとだけ、ちょっとだけ濡らすだけなら…。それから、ポーチを開ける振りをして、ささっと上蓋の布で軽く拭いて、
後は自然乾燥させるだけなら…。大丈夫。これならばれない。
……よし、この方法なら完璧だ。
蛇口のセンサーに手をかざす。しかし、衣埜莉自身が警戒して、手を洗面台に深く入れなかったせいで、なかなか水が出てこなかった。何度か手を空振りさせた後、…急に水が勢い良く吹き出した。
慌てて手を引いたが、気付けば衣埜莉の手は、袖まで濡れてしまっていた。
水穂と咲愛はすでに手を拭き終えたようで、もぞもぞと、腰のポーチを閉じている様子が伺える。
まさか2人が覗き込んでくるとは思わないが、自然を装って、衣埜莉は、濡れた手で、ハンカチポーチの蓋を外し、中をまさぐる振りをした、
その時、予鈴が鳴り響いた。
「やば、次、音楽のテストじゃん?』水穂がそう言うと、咲愛も小さく悲鳴をあげる。
「やば、衣埜莉ちゃんも急いでね!」2人は言い終わらないうちに、走り出していた。
衣埜莉は「わたし、もう少し石鹸で洗うから…」と、独り言のようにつぶやいて、2人の後ろ姿を見送ると、
ほっとため息をついた。…緊張から解放されて、そのままこの場に座り込んでしまいそうになる。助かった……。2人にぎりぎりばれなくて済んだ……。
……さ、わたしも、遅れないように戻らなきゃね。
その時に、ふと違和感を感じて、衣埜莉は咄嗟に顔に手をやった。口元?違う。え?鼻の下に何か温かいものが流れ、落ちる…。
え?え?……衣埜莉がうつむくと、洗面台の上に、赤い血がポタポタと落ちた。
え?え?
わたし、鼻血、始まっちゃった。
次回、『和歌名ちゃんの手助け』




