井20 吉城寺紫園
貴賓室は、さっきの出来事の後で、いったん清掃が入ることになり、今回の顔合わせには使用されないことになった。
代わりの会場は、同じ棟にある宴会場に急遽用意されたとのこと。あきらは電話で言われた通り、その場所へと向かっていた。
……ここでは毎年、年の暮れに、本家から招かれた親族だけが集まる大きなダンスパーティーが催される。それは宍戸家の繁栄を祝す、一族あげての盛大な祭典で、小さい頃のあきらとさやかも、毎年この舞踏会には必ず参加させられていた。
宍戸家の幼い長兄と長姉がペアでダンスを踊るのは、その日のちょっとしたハイライトになるイベントと言えた。可愛らしい兄妹が、ホールの中央をくるくると回るさまは、さながらビーズを散りばめた万華鏡のよう。この日だけ特別に招いてもらえた分家の子供達が、溜め息をついて、うっとりとこの2人のことを見ていたものだ…。
2人は7時を回ると、早めのシンデレラのように会場を後にする。残していくのは、飲みかけのシャンミリーが入ったままのガラスのコップ。今宵だけは大人のお洒落をした妹が口をつけた、コップの縁には淡い口紅がうっすらと残っていて、幼いシンデレラは、その唇の形で本人を特定される……。
あきらのエスコートで退場した妹は、疲れていても尚、頬を上気させて、
まだしきりに兄に向かって、ドレスを見せたがっていた。普段は感情をあまり見せない、大人しい性格のさやかが、この日だけは別人のように輝いて見えた。
さやかは踊るのが大好きだった。社交ダンス、日本舞踊、ジャズダンス。言葉を使わない体の表現に、実は天性のものを持っていた妹は、兄の贔屓目線を差し引いても、
天使のようだった。
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その天使の輝きに、
翳りが見えたのは、さやかが4年生に上がった時のこと。とある音楽コンクールの会場で、突然引き合わされた許嫁、東三条が現れてからだった。
初めは耳を疑った。は?許嫁?こいつが、さやかの婚約者?こいつは、誰だ?だいたい、こいつは今いくつなんだ?
東三条は、見た目だけで言うと、実年齢よりも若く見えるあきら達の母親と、正直大差のない年齢にさえ見えた。
その日から、さやかの顔から笑顔が消えた。
元々、身内以外には表情の乏しい子ではあったが、
その時から、さやかはあきらの前でも笑わなくなった。
……許せない。もし父が生きていたら、こんなことにはならなかったはずだ。母に向かってそう叫んだあきらは、数少ない母の急所を抉ったのだと気付いて、
内心、愉悦に浸っていた。
所詮、僕も宍戸家の人間ということだ……。同じ穴の狢。人を蹴落として喜ぶ、醜い、呪われた血すじ……。
それは、さやかとて逃れられない強力な呪いなんだ。
天使のようにくるくると回っていたさやかは、もういない。穢れた僕達は、万華鏡の中で反転して、裏返ったままバラバラに壊れてしまった……。
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あきらは、今はまだ、パーティーの準備も始まっていない、がらんとした、宴会場を見渡していた。
あきらは、会場の一角に、ドレープのついたゴブラン織りの布を垂らしたパーティションが設置してある場所を見つけて、ポケットから手を出すと、そこへ向かって歩いていった。
「失礼します。」あきらが、少し緊張した面持ちで、パーティションをずらして、中に入っていく。
「………」「………」
板張りのフロアに敷いた丸いカーペットの上に、簡易的に置かれた、見た目だけは高級な丸テーブル一台と、猫足の椅子が向かい合わせで2脚。
その一つに、足を投げ出すようにして、ズボンのポケットに手を突っ込んだ姿勢で、小さな男の子が一人きりで腰掛けていた。
「えーっと……」と、あきらが目をさ迷わせながら言う。
「君は……、どちら様、かな?」
その男の子は、こちらをちらっと見上げて、すぐに視線を横にずらしながら「ああ、ぼく?ぼくは、きちじょうじ しおん。」「え?」「あなたは、ししどあきらさんですか?」
「え?ちょっと待って……ていうか君、男の子なの?」とあきらがそう言うと、自分を吉城寺紫園と名乗ったその子は、上目遣いでこちらを見て、「そんなの、どっちでもいいじゃん」と言った。
ふわりとしたマッシュルームカットの髪と、色白の顔。睫毛の長い大きな目と、それに比べて、小さな鼻と唇。細く尖った顎から下に伸びた、これまたか細い首。その周りには、レースの付いた白いイートンカラーの襟が広げられていて、鎖骨が見えそうだった。そして黒いベストと、膝までのチェックの半ズボンという少年らしい出で立ち。彼は、ふくらはぎ全体を覆う白い靴下の上に、赤茶色のエナメルの靴を履いていた。
「どっちでもよくはないかな。」とあきらが言った。
「君、今日は一人で来たの?」「ママと来たよ。でも向こうで待ってるって。」
あきらも、この場に母がいないことを意外に思っていたので、何となく大人達の真意をはかりかねて、このまま様子を見ることにした。
「君は、本当に吉城寺、さん…、なんだよね?」その子は、ぷい、と顔を背けると、「そう言ったよね?」とふてくされたように言った。
「……ねえ、おにいさん、さっきから、君、君、ってぼくのこと呼ぶけどさ、…ぼくには、しおんって名前があるよ。」
「ああ、ごめん。じゃあ…、しおん……くん?」
紫園の顔が、微かに嬉しそうに?こちらを見た。あきらは、さっきから何か自分が騙されているような気がして、正直、少し腹を立てていたのだが、
その一方で、自分には許嫁がいるということが、間違いであったことがわかって、いっそ笑い出したいような気分でもあった。
「紫園くん?」「なあに?……その…あきら、おにいさん。」紫園の顔が赤くなる。「その…、紫園くんは、ここに、何て言われて来たの?」
「あの…その……」紫園の顔がどんどん赤くなる。「将来、けっこんする人に会いにいく、って言われた。」それを聞いてあきらは思わず笑い出してしまった。「あははは、実は僕もそうなんだよ。でもね、紫園くんも驚いたろ?
まさか、君の方も男がやってくるとは思ってなかっただろうからね。僕の名前もあきらだし、
もしかして、僕が来るまでは僕のこと、女だと思ってた?」と言ってアハハ、とあきらは笑った。最近では珍しく、心から楽しそうに笑っていた。
その様子を見ていた紫園は、(この人は、なにを言っているのだろう?)と不思議そうな顔をした後、笑顔で話すあきらの顔を改めて見て、眩しそうに目を細め、一層頬を赤らめていた。
「あきらさん、て呼んでいい?」ようやく笑いの収まった頃、紫園がおずおずと聞いてきた。あきらは「ん?ああ、いいよ」と答え、「まあ、これも何かの縁だね。僕達、友達になろうか?」と言った。
「うん!」紫園が満面の笑みで返事をした。
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気付けば小一時間ほど、2人はお喋りをしていた。紫園は、お喋りな男の子で、あれやこれやと取り留めのない話を、一方的に捲し立ててきた。あきらにもわかる話題もあれば、全くわからない話題もあり、学校でのことや、塾の先生のこと、この前食べたお菓子のことなど、こっちは相槌をうつだけでも忙しい、といった感じだった。
これだけ時間が経っても、許嫁の件が誤解?だったこと、親達の邪魔が入らないことに、若干の疑問を感じながら、あきらは「紫園くん」と言った。「なあに?」興奮してお喋りをして、鼻の頭にうっすらと汗をかいている紫園は、いつの間にか椅子を近付けて、
あきらの体にぺったりと寄り添うように距離を詰めてきていた。
「ちょっと疲れたでしょ。」「ん?あ、うん」紫園は今話していた話題を急に遮られて、少しがっかりしながら、あきらの顔を見上げた。あきらが立ち上がって、うーんと伸びをする。
「このホールの角のとこに、休憩室があるから、そっちに移らない?」「あ、うん。いいよ。」
あきらは、パーティションをずらすと、小さい紫園のことを先に出してあげ、すぐに体を入れ替えて「こっちだよ」と言って歩き出した。
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そこは、パーティーの時に、人込みに疲れた人達が一時避難するスペースだった。普段であれば、ボックスシートが並べられているはずだが、今は何かの理由で撤去されていて、グレーの絨毯には、その凹みだけが残っていた。
「あれえ?」とあきらは、一帯を見回しながら、紫園を振り返って「何もないね」と言って笑った。「あ、でもあれはあるか」と独り言っぽく呟き、
花の時期の終わったサクラランの鉢の横に置かれた、ウォーターサーバーに近付いていった。
あきらは、連なった紙コップから2個を引き抜き、小指大のプラスチックの取っ手を捻って水を2杯作った。
両手に紙コップを持って、あきらがこちらへ戻ってくる。紫園は今起きていることに戸惑って、若干後ずさりをした。
「はい、どうぞ。」あきらが紙コップを一つ手渡す。紫園は「え、うん?」と言ってそれを両手で受け取っていた。
おもむろに、あきらが、こちらに体を向けて、自分の腰に手をあてがうと、
立ったままで
もう片方の手に持ったコップを、口へと運んでいった。
え…?紫園は思わず目を逸らすタイミングを逸し、あきらの姿を凝視してしまった。
コップの水があきらの口に注がれる。
……上を向いたあきらの剥き出しになった首の上で、すでに大人の形をした喉仏が、盛り上がって、前に突き出していて……、ごくごくと上下して動いているところを、……紫園は見てしまった。
喉が乾いていたのか、慌てて飲んだ口元から、ひとすじの水がつーっと垂れてきたのが見えて、あきらが無造作にそれを手の甲で拭き取った。
あきらは(ん?)といった顔で紫園に視線を戻し「どうしたの?飲まないの?」と言った。
え?え?ええええええええ?!
…イ、イイナヅケって、●●●●●まで、す、す、す、するんですか!? 紫園の目がぐるぐると回る。
「いいよ、遠慮しないで飲みなよ。どうせ無料たがら。」
「ちょ、ちょ、ちょっ、」紫園は両手の指で紙コップを支えたまま後ずさりをした。顔はこれ以上ないくらい赤面して、涙目になっている。
「た、た、立ったままで、ですか?!」
あきらが 「ん?ああ、そっか…最近は座って飲む子も多いのか。」と笑顔で言う。「椅子持ってきてあげようか?」「な、なんで、ここで飲む前提?!」と紫園が全力で突っ込む。
「あはは、なんだ、恥ずかしいならそう言いなよ。見やしないよ。」あ、あ、あ、当たり前でしょ!!
…………。
………で、でも。ぼく、
あきらさんのを見ちゃった…。もしかしてぼくも……、見せなきゃ、いけないのかな?イイナヅケって、将来ケッコンする相手、ってことだよね。だったら……、見せちゃっても、…いいのかな。
紫園が頭の上から湯気を出しながら、そんなことを考えていると、
あきらが「今、飲みたくないならいいよ、そこに置いといて。後で誰かが片付けてくれるから。」と言った。
「あ?、あ、うん。」紫園はサーバーの横にある屑籠へ、水が零れないように真っ直ぐ紙コップを立てて捨てると、もう出ていこうとするあきらの背中を、慌てて追いかけていた。
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「…初顔合わせは成功のようですね。」宍戸かぐやが、スマートフォンに語りかける。
「そうですね。帰り際の2人、なんだか、仲睦まじい感じで……」おほほとスマートフォンが笑う。
「では、今後とも宜しくお願いいたします。」「ええ、ええ、こちらこそ……」
……何かあの子は勘違いしているみたいだけど、まあ、ひとまずはこれでいいわ(笑)
……それにしても、あんな風に笑うあきら、久し振りに見たわね。吉城寺家のお嬢さんも、あきらを気に入ってくださったみたいだし………、
…後はさやかを何とかしなければね。
かぐやは、頭痛薬の袋を破き、テーブルの上にばら蒔いてから、意味もなく指先でそれを左から右に仕分けし始めていた。
全ては、宍戸家の繁栄のために………
次回、『あきらとさやか』




