井21 あきらとさやか
宍戸あきらは、何日か前に着ていたジャケットのポケットに、
何か固いものが入っているのに気付いて、それを取り出してみた。
……それは、妹さやかの、耳検査の入ったプラスチックケースだった。あきらはしばらくそれを手の中でじっと眺め、やがてパソコンデスクのライトにあてがって、
中にある緑色のジェルに覆われた、小さな異物を透かし見ていた。
デスクの上に置かれたスマートフォンが、ブブブと揺れ、光が明滅する。
あきらは顔を赤くして、その筒状のケースを引き出しの一番奥に突っ込み、スマホの画面を指でスライドした。
それは、先日交換したばかりのluinで送られてきた、吉城寺紫園の母親からの連絡だった。
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{今から) 12:45
{紫園が遊びにいきたいそうです) 12:45
{よろしいでしょうか?)*あせあせ* 12:46
12:46(大丈夫です}
12:46(2時にどうぞ}
{ありがとうございます!)*ぺこり**わーい**やったー**かんしゃ**きゅん*|12:47
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…最後のは、紫園くんがスタンプをいっぱい押したな。あきらは、思わずくすっと笑ってluinを閉じた。
そのままあきらは立ち上がり、さやかのいる離れに向かうためにダッフルコートを羽織った。
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寒々とした印象の、コンクリート造りの無機質な建物に入ると、あきらは、はっと息を呑んで立ち止まった。
暗い廊下の奥の方から、微かに音楽が聞こえてきたのだ。逸る心臓をシャツの上から掴んで、あきらは足早に廊下を突き進んでいく。
…閉じられたスタジオの扉の隙間から、強い明かりが洩れているのが見えた。
「さやか?」外から声をかけるが、反応はない。
あきらは深呼吸をすると、重心を後ろに移し、重い扉を力を込めて引いた。
『₩₩₩₩₩₩₩₩₩₩』
スタジオのスピーカーから大音量で流されたピアノの演奏が、音割れしながら、あきらの鼓膜に突き刺さる。驚いて耳を塞いだ彼の目に、
それが目に入った。
…ジェルで長い髪を詰めた妹が、バレエスクールの薄紫色に輝くレオタードを身に纏って、チャイコフスキーの曲に合わせて、ひたすらに舞い、そして
踊っていた……。
こめかみまで強くひっつめられた髪。後ろでだんごに纏められたシニヨンスタイル。皮膚を突っ張られたさやかの目は、切れ長になり、さらにラメの入ったピンクと青のアイラインが二重に引かれている。
太く強く描かれた濃い眉。蜘蛛の糸に乗った朝露のように輝くアイラッシュ、エジプトの彫刻のように塗られた、不自然に彫りを深く見せるノーズシャドウ。
一心不乱に、バレエの動きに創作ダンスのステップを取り入れた振付の中、後頭部に纏めた髪の塊の上で、薔薇のリボンシュシュが激しく旋回する。
折れてしまいそうに細い鎖骨を付き出したまま、さやかは深く抉れたVラインから、餓鬼のようなあばらを浮き出させて、
上半身を後ろ側に反らした。
あきらには、ピアノの暴力的な音が、もう音として聞こえていなかった。ただ重く鋭い振動だけが、身体中の膜を震わせていることだけを感じていた。
……さやかは、多分。レオタードの下に。インナーをつけていない。
胸を反らせる度、訴えるように、願うように、天に向かって仰向けた体を突き上げる度、さやかの体の線が、ぴったりとした薄いレオタードの生地に響いてしまっていた。
さやかは、肩の途中からぱっくりと割れた背中に、痛々しい肩甲骨の翼を開いて、
トゥシューズの爪先で立って、
汗をつぶのように撒き散らして、
白いタイツ部分に汗沁みを作りながら、
激しく床の上で踊っていた。
あきらは、拳を握って唇を噛んだ。……こんなもの、これ以上、見ていられない。その、はずなのに、一瞬たりとも目を離すことが出来なかった……。
その時、さやかのダンスが急に止まり、音楽だけが引き続き流れる中、彼女は肩で息をしながら天井を見つめた。
すぐに彼女はしっかりとした足取りで、その場を離れ、
スタジオの壁際にたたんで置かれていたタオルを取りにいった。そこで一緒に置かれていた水のペットボトルを掴む。
あきらは、観念したように、妹の姿を目で追うのをやめ、徐々にこちらに近付いてくる彼女をじっと待っていた。
近付いてくる制汗剤の香りと、その中に隠された、もっと生々しい、生き物の臭い。さやかは肩にかけたタオルで額の汗を拭きながら、あきらの前でピタリと立ち止まった。
あきらは、目を反らして足元を見ていたが、そのせいで、汗で張り付いた妹のレオタードに、ほぞ穴の窪みがしっかりと浮かび上がっているのに気付いて、急いで顔を上げた。
さやかは無言で兄の顔を見返した。
片手に握られたペットボトルの表面が、結露して濡れている。さやかはそれをあきらの前に差し出した。
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まだ小さい頃……。さやかが「開けて~」とミニペットボトルの蓋をこちらの方に向けて差し出してくる。
「まかせろ」あきらが顔を真っ赤にして、えいっ、と蓋を捻る。ピキピキとプラスチックが小さく砕ける音がして、蓋が開く…。「こぼさないで飲むんだよ」「はぁい」
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あきらは、妹からペットボトルを受け取った。
「……さやか。聞いたよ。
君は授業中に水筒を溢したそうだね。」さやかの胸の鼓動に連動して、皮膚そのもののようなレオタードがピクピクと痙攣している。
「……わざとだろう?
君はこうなるって、わかっていたんだろう?あの人がああするって、始めからわかっていて、そうしたんだろう?
何故、君は……、罪のない、あの可哀想な担任の先生を陥れた?」
感情らしい感情を見せていなかった妹の顔が、初めて、可笑しそうに笑った。
「僕がわからないのは、……あの東三条を担任にして…、君に何の得があるというんだ?」
今まで言葉を一言も発していなかったさやかが、にっこり笑うと、
「お兄ちゃん、開けて」と言った。
あきらは、さやかの暗い瞳を見つめ返し、手に力を込め、キャップを握り、濡れた手が滑らないよう握り直し、手首を捻ろうとした……が、そのまま腕をだらんと横に垂らし、「もうやめよう……」と言って、力なくペットボトルを床に落とした。「宍戸家の責務なんて、くそ食らえだ。君はそれで蝶になったつもりかい?
……笑わせるな。」
「僕はこれから約束があるんだ。もう行かなきゃ」
ポケットに手を入れて、背中を丸めて去っていく兄を見て、
さやかは、「意気地無し……」と言って急に悲しそうな顔をした。
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次回、『しおんの園』
あきら「…さよなら少女、」
さやか「壊滅戦争。」 次回をお楽しみに!




