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第9章―6

 ――これから、私はどこに行けばいい……?

 答えを求め町をさまよっているうちに、結局、カスミはあのビルへと戻ってきていた。少年との思い出が、これでもかとつまった切ない場所。今にも少女の胸は張り裂けそうになる。

 だが、ビルにつながる路地に足を踏み入れた瞬間、カスミの胸はざわついた。

 ――空気が動いてる……?

 このビルに至る道は時間を止めていたはずではなかったか。大気の壮大な循環システムの外に追いやられ、空気は滞留し幾重にも濃密に積み重なっている。

 それが今、空気の層は綻びを見せ、崩れた大気が撫でるように少女の頬をくすぐっていく――。

 続き、追いかけるように、物音が路地の奥から聞こえてきた。幾人かの人の話し声と機械の動作音。カスミは光のこぼれる路地先へと急いだ。

 数名の作業着を身につけた人間が図面を片手に動き回っている。小型のショベルカーがディーゼルの黒い排煙をふき上げ走り回っている。流れてきた排ガスの臭いは、カスミの頭をくらくらさせた。

 壊されようとしている――。

 まだ、その前段階であろうが、ビルの前には資材が運びこまれ、建物の外壁には早くも足場が組まれつつあった。

 ――あなたも誰かに思い出されたのね……。

 それは仕方がないことのように思われた。少年だって元の世界に戻ったのだ。無機物とはいえ場所にだって、誰かと繋がる縁も、誰かに思い出される権利もあるだろう。永遠に変わらないものなど、この世には存在しないのだ。

 頭では――理性では、そう理解できた。

 だが……。

 理解できるのと、納得することとは違う――。

 その二つの間には、深い海を割る海溝のように、埋めがたい亀裂が、ぱっくりと大きな口を開けている。少女の心を引き裂こうとする。

 ――壊さないでよ……。

 奪わないでよ……。

 ――私と少年が過ごした、あの思い出を……。


 ――どこに行けばいいのかな……。

 胸の内の問い掛けは、巡りめぐって、結局、心がこぼした最初のつぶやきに戻っていった。

 そんなタイミングのことだ。突如、視界が開けて、空の半分と町を抱える山の稜線が遠く、カスミの目に飛び込んできた。少女は町外れの河川敷にやって来ていた。

 ――スタート地点に戻ってきたんだ……。

 とくに感慨もなく、ただ事実として、カスミはそう思った。

 とても示唆に富んだ場所――。

 初めて、アキラと出会った場所――。

 終わらせようと思えば、終わらせることのできる場所……。

 カスミは堤防の法面を下りていき、高水敷に立った。ランニングコースが整備され、ベンチも一定の間隔をあけ設置されている。見上げると、車も渡れる大きな橋が空に掛かり、宇宙を透かした世界の眩しさを――今のカスミには眩しすぎる――幾分かは和らげてくれているようだった。その橋の袂を、カスミは懐かしい目で眺める。

 ――あの橋の下で泊まろうなんて思ったな……。

 それと、もうひとつ……。

 カスミは、豊かな水がたゆとう河川の水面を振り返った。

 少年がいなくなって、はたして生きている意味があるのだろうか……。

 ――この世界で、笑うこともなく、泣くこともなく、ただ息を吸って吐くだけ……。

 未来は永劫に闇に覆われている――。

 それは、ある面において――そして、もしあるならばだが――地獄と呼ぶにふさわしい。

 あの流れる水面に身を沈めれば、こんな苦しい思いからはすぐに解放される……。

 だが、カスミは動けなかった。どちらの方向にも、足を一歩として踏み出すことはできなかったのだ。

 ――ああ、そうだ……。

 あのときも、こうだった……。

 そして……。

 ――あの少年の声が降ってきたんだ……。

『そんなところで寝たら、風邪ひいちゃうよ――』

 はっとして、カスミは土手を見上げる――。少年の姿はない。ただ、風が優しく吹いていた。

 ――あのとき、少年と出会っていなければ……。

 今頃、私はどうなっていただろう……。

 そんな意図があったのかどうかも分からない。でも、結果的に、少年は少女をこの世界に引きとめてくれたのだ。

 だが……。

 ――アキラはもういない……。

 青年は目覚めない。少年と過ごした日々は戻らない。

 そんな世界に意味なんてないような気がした。

『本当にそうなの? お姉ちゃん――』

 ふと、また話しかけられたような気がした。

「意味なんてないよ……この世界も……元の世界も……」

『本当にそうなの?』

 風はまた尋ねてきた。何度も何度も。少女に答えをうながすように――。

 それは本当に少年が尋ねてきているように感じられた。あの達観した大人びた口調で話す少年――。

 ――本当は、お兄さんだったよね……。

 何でも知っているかのように話す少年――。

 ――本当は、答えを知っていたくせに……。

 教えてくれなかった――。

 ――私のために、教えてくれなかった……。

 私のために――。

 その瞬間、カスミは、はっとする。

 ――私のために……?

『本当に、この世界に意味なんてないの?』

「ないよ……」

 ――あなたのいない世界に、意味なんて、もうない……。

 失うものもない――。

『本当に、失うものなんてないのかな?』

「私に何が残っているっていうの……」

 ――それに……。

 ずっと前から、私は空っぽだった……。

 何も持たずに生まれてきて、何も持たずに消えていく……。

「ほら、私の胸には、穴が……」

 ――ぽっかりと穴が、あいている……。

 カスミは、痛む胸に手を押し当てた。そして、気づく――。

 ――!

「ふさがってる……?」

 ずっと空っぽだと思っていた胸の奥が、何か温かいもので埋められていた。膨らみかけた小さな胸の奥で、確かに温かく柔らかなものが息づいていた。

 ――これは何……?

 そして、カスミは知る――。

「ああ……」

 少年が、そこにいる――。

 ――私の胸の中に、アキラがいる……。

 一緒にご飯を食べて、一緒に図書館で本を読んだ――。

 一緒にバイトで街角に立ち、一緒にスーパーで買い物をした――。

 朝の公園で顔を洗って、ときどきは銭湯にもいって、風呂上がりにはコーヒー牛乳を一緒に飲んだ――。

 台風の夜は公園にテントを張って、夜通し、神様の悪口や不憫な彼への同情を話し続けた――。

『海でびしょびしょになって……』

 夜の海岸で、恋人達に混じって、夜空に咲く花火をいつまでも眺めていた――。

 そこに少年はいた――。

 ――消えてなんかいない……。

 私の中に、アキラはいる――。

「アキラは消えてなんかいない。ずっと、私の中にいる……」

 だから――。

「消したらいけないんだ――」

 ――私の中で息づいているアキラの思い出を……。

 少年が確かにそこにいた証を――。

 ――そのために、私は……。

「いなくちゃいけない……」

 ――生きなくちゃいけないんだ……。

 カスミは、少年が最後の夜に言った言葉を思い出した。

「ああ、そうか……」

 ――アキラ……。

 誰かに必要とされるんじゃなかったんだね……。

 だって、それなら私はもうとっくに元の世界に戻っている。

 アキラは――ううん、これは自惚れなんかじゃなくて――本当に私のことを大切に思ってくれていたはずよ。

 私を必要としてくれていた――。

 ――それなのに、私はここにいて……。

 アキラは元の世界に戻っていってしまった――。

「違うんだ……」

 ――誰かに必要とされるんじゃない……。

「誰かを必要とするんだ……」

 ――誰かを大切だと思うんだ……。

 そのためには……。

 自分が、そこにいないといけない……。

 自分が、そこに存在しないといけないのよ――。

 ――アキラは、私を必要とした……。

 だから、自分はいなければならないと――心からそう思ったから、元の世界に戻っていった……。

 カスミの中に、もう迷いはなかった。

 ――そこにいて、いいんだ……。


 わたしは、ここにいていい……。

 誰かに必要とされなくても、誰かを必要とするかぎり……。


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