第7章―7
今日のバイトは、もう本当に散々だった――。
いや、それをカスミ自身が言ってしまってはいけないのだろうが……。集中できず、何度もミスを犯してしまった。
バイト料を受け取っていいものか――お金の入った封筒を目の前にして、責務を果たせず後ろめたい気持ちになったのも事実だ。
それでも、やはり手に取る。カスミはいつも以上にそそくさと、逃げるようにして、その場を離れていった。
惨めな気分だった。言葉では言い表せない、何かもやもやとした哀れな気持ちがまとわりつく。道行く人々の顔も、彼女の存在に気づけないでいるはずなのに、どこかカスミのことを蔑んでいるようにも見えてくる。
――本当に散々だな……。
深く考えたわけではない。胸の内で、カスミはまた自然とその言葉をつぶやいた。だが、不思議と悪い気はしない。逆説的ではあるが、そのとき抱いていた負の感情は、カスミにとって、とても甘美なものであったのだ。知らず、酔いしれてしまいそうになる。
――私は蔑まされて当然だ……。
もっともっと……私は軽蔑されていい人間だ――。
自分は評価に値しない、いや、そもそも評価される対象にも値しない――そんな人間だと思われた方が、どれほど楽なことか。最初から、取るに足らない人間と思われているなら、誰からも期待されない、自身に期待する必要もない。
――そうやって、みんなが無関心でいてくれればいい……。
ああ、そうか――だから、私は世界から消えたんだったな……。
負の感情は、やがて時間が癒してくれるかもしれないし、やはり、永遠に責苦を受け続けることになるのかもしれない。ともあれ、このときのカスミは失意の海に溺れ、水面で揺らめいている、ささやかな光彩を見上げることさえ叶わなかったのである。
――早く、屋上に戻りたい……。
ビルで待つ、アキラの元に帰りたい――。
カスミは、笑顔で迎えてくれる少年の姿を切に願った。
――アキラには悪いことをしちゃったな……。
昨夜は取り乱してしまい、アキラを困惑させてしまったに違いない。いつも子どもらしからぬ振舞いをする少年は、カスミが落ち着くまで、ただ黙って耳を傾けていてくれたのだ。
――せめて、今晩は何か美味しいものを作ってあげないと……。
だが、料理をする気にはなれない。お惣菜やお弁当を買って帰ろうか――カスミがそんなふうに考えかけたときのことだった。
――ん……?
あれは……アキラ……?
街の一角に少年の姿を見つけたような気がした。
――間違いないよね……。
カスミは声をかけようと、おもいっきり息を吸い込んだ。だが、その空気を吐き出す前に、アキラの姿はもう角の向こうに消えてしまっていた。
どこか急いでいるようにも見えた。
――そうだ……。
不意に、カスミは思い至る。
私と一緒じゃないとき、アキラはいったい何をしているんだろうか――。
――私は知らない……。
知ろうともしてこなかった――。
きっと図書館にでも行って、小難しい本でも読んでいるのだろう。その程度にしか考えてこなかった。
――どこに行こうとしているの……?
アキラが向かっている先は、図書館ともカスミ達の暮らすビルとも違う方向だ。カスミは考える間もなく、少年の後を追いかけていた。
アキラの姿が消えた角を曲がる。
――いた……。
ずいぶんと離されてしまっていたが、少年の小さな背中が雑踏にまぎれ見え隠れしていた。
カスミは追いつこうと足を早める。だが、当然のごとく、道行く人々が動く障害物のように、カスミの行く手をさえぎってくる。カスミは焦った。言葉にならない焦燥が、カスミの全身をじりじりと焦がしていく。
アキラに追いつかないと――。
切実に、そう祈らずにはいられなかった。さもなければ、永久にあの少年を見失ってしまうのではないか――訳もなく、そんな怯えに身を震わせる。
行き交う人にぶつかることも、もうお構いなしに、カスミは走り出していた。ただひたすらに、アキラの背中を目指して。
だが、少年は清流を泳ぐ淡水魚のように、すいすいと人波をかき分け進んでいく。幾度となく、街角を曲がる度に、少年の姿を見失いそうになる。
――どうして、追いつけないの……。
カスミには、そこに何かしらの意図が隠されているようにさえ、感じられてきた。世界が彼女をどこかに導こうとしている。あるいは、物語が彼女を終幕へと誘っている――。
そうして、いつしかカスミは、世界と物語が約束する最後の舞台にたどり着いたのだった。
――病院……?
アキラの背中を追い続け、カスミは町で一番の設備と規模をほこる、総合病院前へとやって来ていた。
距離を詰められないまま、病院の敷地へと滑りこんでいくアキラを見送る。その後ろ姿には、およそ一欠片の迷いも見受けられなかった。
――何しにきたの……?
診察や治療を受けられるはずもない。
――誰かのお見舞い?
どうしても確かめなければならないと思った。少年を見逃してしまえば、何か大切なことが永遠に闇の中へと紛れ込んでいってしまう――そんな漠然とした不安に、カスミの全身はからめ取られてしまっていたのだ。
カスミは急いで病棟の中へと駆け込み、吹き抜けのエントランスをぐるりと見渡した。平日の午後の病院は、街角の風景を切り取ったみたいに、人、人、人……患者と家族、医療従事者らであふれ返っていた。
――アキラ……。
カスミはエントランスを左から右へと、祈るような気持ちで目を凝らした。自分がよく知る少年の姿を決して見逃さないようにと。
はたして……アキラは、そこにいた――。
二階へのエスカレーターを上りきり、今まさに通路の向こう側に、人ごみに紛れるように、その姿を消そうとしているところであった。カスミはエスカレーターを駆け上がった。
――アキラ……アキラ……アキラ……。
どうして今、自分はこんなにもアキラを求めようとしているのだろうか。この胸を焦がす思いは、いったい何処からもたらされるものなのだろうか。
カスミは廊下の角を曲がった。長い通路に病室がずらりと並んでいる。そこは入院病棟のほんの一角であった。白く磨かれた通路が、どこまでも伸びているような錯覚を覚える。そのどん詰まりの先に、遠くアキラの姿が霞んで見えた。
少年は病室の前に立ち、じっと中の様子をうかがっているようだった。決して足を踏み入れようとはしない。カスミの位置からは、アキラの表情を読み取ることはできなかった。
――誰がいるんだろう……?
分かるはずもない。想像もつかない。
あらためて、カスミは思い知る。自分は少年について、何一つ知らず、何一つ理解していないことを。
しばらくして、アキラはそっと病室の扉を閉めた。俯いたまま、その表情を誰にも悟らせず、カスミの方へと向かってくる。カスミは思わず隠れてしまった。
後ろめたい気持ちに潰されそうになる。アキラの隠していた秘密を、断りもなしにのぞき見してしまった。土足で踏みにじってしまった。その罪悪感は否めない。
だが、それでも確かめずにはいられない。恥知らずと罵られようが、カスミにはアキラの内側に秘められた、隠された、その何かを覗かずにはいられなかったのである。
この場所に導かれ、そこに何かしらの示唆を、世界の意図を感じとった瞬間から――。
――いや、それは都合のいい、言い訳だ……。
私がこれからすることは、どんなに言い繕ったところで、恥知らずなことに変わりはないんだから――。
二階の吹き抜けから、アキラがエントランスを出ていくのを確認し、カスミは病室の前にやって来た。誰かに叱られないかと、恐る恐る悪いことに手を染めようとしている子どもみたいに、カスミの胸はもうばくばくと破裂しそうに波打っていた。扉にそっと手を伸ばす。手は小刻みに震えていた――。
カスミの指が取っ手にふれる。それほど力は入れていないはずなのに、まるで彼女を待っていたかのように、すっと、音もなく、扉は開かれていった。
カスミの喉がごくっと鳴る。その音がカスミの耳にはやけに響いて、思わず息を深く吸い込んでしまう。胸が一瞬、大きくふくらみ、少女の幼い双丘は、ちくりと痛みを覚えた。
室内を見渡す――。
そして、カスミは思った。
――あなたは……誰……?




