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第4章―9

 結論から言うと、交代はいとも簡単に――拍子抜けするほど、あっさりと――完了することができた。

 時間がきて、パイプ椅子の男性二人が席を立つ。すでにカスミとペアで仕事をしていた、紺パーカーの男性はやってきていた。

「よろしくお願いします」

 並んだ男性の一人がボードを手渡す。隣に立っていた男性は、自分のボードを手にしたまま、その受け渡しの様子を眺めていた。

 今しかない――。

 何かの啓示を受けたみたいに、カスミの体は動いていた。

 その男性の意識が隣に向けられている間に、手にしたボードをやんわりと――しかし、強い意志をもって――カスミは引き抜いた。

 一瞬、男はえっという表情を浮かべた。だが、すぐに何事もなかったかのように、隣の男性に目配せして、すみやかにその場を離れていった。それはもう見事なまでに、初めて交代にきたときの光景を巻き戻しているかのようであった。

 カスミはまた、くたびれた紺のパーカーを着た男性と二人になった。一緒にカウンターをカチカチと鳴らし始めた。

 疲れた男性とセーラー服を着た少女が並んで座っている――カスミはその光景を思い浮かべ、今度は思わずぷっと吹き出してしまった。

「何がおもしろいの?」

 突然、そんな声がかけられた。カスミは冗談抜きに飛び上がってしまいそうになった。

 どきっとしたというよりは、むしろ、ぎくっとしたというのが正解かもしれない。一瞬、隣に座る男性に、非難げに詰め寄られたのかと思ってしまったのだ。

 ――思ったより、幼い声なんだな……。

 そんなトンチンカンなことを考えて、恐る恐る隣をうかがう。

 男性はまっすぐ前を向いていた。止めることなく指を動かし続けている。

「どこ見てるの?」

 その声はカスミの背後から聞こえてきた。

 ――ああ、そういうことか……。

「もう、驚かさないでよ……」

 カスミは振り向いた。アキラがそこに立っていた。

 ――そりゃ、そうだよね……。

 一瞬でも、今の状況に変化が起きたのではないかと、カスミは期待してしまったのだ。

 だが、いい歳をした男性の出す声では確かになかった。

「何の用? アキラ」

「なんだか、ひどい言われようだね。せっかく、お姉ちゃんが心配で、応援しにきたっていうのに」

 アキラは手にしたビニール袋を上げてみせた。

 カスミは自分の中に、自然と微笑ましい感情が生まれてくるのを感じた。

「あ、手は止められないから、前を向いとくね。なあに、袋の中、何を持ってきてくれたの?」

 背後でアキラが、がさごそとビニール袋をあさる音が聞こえてきた。

「喉が渇いてると思ってさ」

 アキラは二リットル入りの麦茶のペットボトルを、カスミの前に差し出した。

 カスミはまた、ぷっと吹き出した。

「そんなの、どうやって飲むのよ」

 ふたたび、アキラが袋の中をまさぐる音が聞こえた。

「ちゃんと持ってきたよ」

 アキラはプラスチック製のコップを二つ、カスミの目の前に突き出した。ピンクと水色のコップ……。

「それは……」

「安心して、ちゃんと家から待ってきたから」

 何を安心させたかったのだろう。盗んではこなかったよと言いたかったのだろうか。

「重かったでしょ。もっと小さなペットボトル、買えばよかったのに」

「こっちの方がお得でしょ。人さまのお金を無駄にはできないよ」

 カスミはアキラに昼食代を渡していた。渡せるといっても、五百円硬貨を一枚――それが精一杯だったのだ。アキラは、そのお金を無駄にはできないと言った。

 ――子どものくせに気をつかって……。

 そんな言葉を口にしていたら、おそらくアキラも「お姉ちゃんだって子どもでしょ」と言い返してきたに違いない。

 カスミは声には出さず、小さく微笑んだ。

「なに、にやにやしてるの……」

 ――おっと、気づかれたか……。

「ううん、別に。何でもないよ」

 アキラは腑に落ちない表情を浮かべていた。

「まあ、いいや。お姉ちゃん、お茶飲む?」

 カスミはどんな顔で、どんなふうに答えたらいいのかなと迷った。どうやったら、自分の今の気持ちを正確に伝えられるだろう。

 誤解なく思いを表現するのは難しい。それはもう、いつまで経っても、この地上から人と人の争いがなくならないことを見れば明らかだろう。

 だから、一言――。

「ありがとう」

 そう、カスミはつぶやいた。


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