第4章―8
セルフレジのある、あのスーパーはちょうど開店したところだった。カスミはそのスーパーのプライベートブランド――つまりは一番安価な――ペットボトルの緑茶とおにぎりを、昼食用にと購入した。
お茶は喉が渇いたときにも、ちびちびと飲むつもりでいたが、はたして仕事が終わるまでもつものか、不安は拭えなかった。
――あの大きな、二リットルの方を買うべきだったかな……。
でも、コップもない状態で、どう飲んだらいいの?
カスミはその巨大なペットボトルを両手で掲げ、直接口をつけて飲もうとしている自分の姿を思想像……できなかった。いや、思い浮かべようとして、途中でそのイメージをかき消したのだ。
――恥ずかしい……。
ここまで、ことごとく誰彼となく気づかれず、無視されてきたのではなかったか。しかも、まだ頭の中にその光景を思い浮かべようとしただけだ。それなのに、どこに恥いる理由があるというのだろう。
だが、理屈ではない。今のカスミには、とにかくその想像するのもためらってしまう行為は――そして、それをしている自分の姿など――思いもよらなかったのである。
――交代まで、まだ時間があるな……。
カスミは持ち場近くの公園で時間をつぶすことにした。
日陰のベンチを選んで腰を下ろす。そんな需要の多そうなベンチに座ってしまえば、きっとそのうち人が集まってくるだろうことは容易に予測できる。いつものように、例外なく、容赦なく、突き落とされてしまうのは目に見えていた。だが、そのときはそのときだ。カスミは昼前の陽光を、極力浴びない方を選択した。
公園には一組の母子がいるだけだった。男の子だろうか、地面にしゃがんで何かをひろうと、ぱたぱたと母親の元にそれを見せにいく。母親がベビーカーを押しているところを見ると、子どもはまだ歩くのも走るのも不慣れなのかもしれない。それでも、懸命に母親のところまで駆けていく。
――こけないで……。
カスミは静かに祈った。
そのとき――ただそれだけのことなのに、それだけの光景なのに――カスミは胸がつまった。上手く息ができなくなった。
――もう、あの頃には戻れない……。
不意に、そんな言葉が浮かんできた。そして、こうも思った。
――あの頃でなくても、私は帰れない……。
こみ上げてくるものがあった。
――でも……。
泣くもんか……。
どうして、そう思ったのだろう。泣いたっていいはずだ。悲しいときは泣いたっていい。
誰かに見られたり、気遣われたりする心配はもうない……。
それでも、カスミはぐっとこらえた。
カスミはそのまぶしい光景を見続けることができなくなり、公園を後にした。
世界は、こんなにもまぶしい光であふれている――。
カスミは交差点に戻ってきた。交代までにはまだ時間がある。カスミは歩道橋に上って、上から自分の持ち場を眺めていた。
ここに来るまでに、心はずいぶんと落ち着きを取り戻していた。
カスミが担当する持ち場では、男性二人がまっすぐ前を向きながら、休むことなく指を動かし続けていた。あと十分もすれば交代しなければならない。
また次の問題が目の前にちらついている。
――これからも、ずっとこんな感じなのかな……。
カスミは自分の未来――それは遠い未来のことではない、そんな先のことは思いもつかない――を想像し、うんざりした。
――今度はどうやって、あの人からボードを受け取ったらいいんだろう……。
そう考えて、カスミは気づいた。自分が思ったほど焦ってはいないことを。無理やり奪い取っても何とかなる――そんな確信がどこかにあった。
――でもな……。
奪い取るって、なんでそんな乱暴な発想しか思いつかないんだろう……。
もっと、ましな方法はないのだろうか――。
世界は、こんなにも一人の少女を悩ませる。
だが、悩むだけ悩んで、カスミは一つとして、いいアイデアを思いつくことはできなかった。
――仕方がないよ……。
なるようにしかならない――。
そんな言葉がカスミの中に生まれた瞬間だった。薄墨の空が晴れ渡るように、不意に気持ちがふっきれたのだ。それは、今まで経験したことのない、不思議な感覚だった。
――そうだよ。
どんなに考えたって、いいアイデアは思いつかなかった。
――だったら……。
なるようにしかならないじゃない――。
自分にできること、人ができること――考えれるだけ考えて、悩むだけ悩んで――やれることをただやっていくだけ。
――上手くいかないときだって、それはあるよ。
仕方がない――。
――でも、必ず成功しなければいけないなんて、誰が決めたの?
それじゃあ、この世の中に、間違いや失敗なんて言葉、必要ないじゃない!
――間違えたなら、失敗したなら、それを乗り越えたらいいんだ。
次は、成功しなければならない、上手くやらないといけない――なんかじゃない。
――少しはマシになってればいいんだ。
カスミの心は――世界は、晴れ渡った。本当に今日の青空みたいだと思った。
――なんだ、今日はこんなに天気が良かったんだね。
カスミは弾むように、歩道橋をかけ下りていった。




