第4章―7
ただの歩行人でないことは、すぐに分かった。彼らはこちらをじっと見つめ、迷うことなくカスミの方へ向かってきていたからだ。
時計を見ても休憩の、つまりは交代のいい頃合いだった。
――どうしよう……?
いい考えが思いつくはずもない。集合時は何も考えられず、スーツ姿の男からカウンターとボードを奪い取ったのではなかったか。今度も自分は追いつめられ、とんでもない行動に出てしまうのではないのか。
考えるのはそんなことばかり。いいアイデアなんか一つも思い浮かばない。代わりにわいて出るのは不安ばかりだ。
いよいよ、その二人組はカスミの座るパイプ椅子の前にやって来た。カスミが考えあぐねているうちに、時は容赦なく過ぎていた。時間はいつも融通がきかない。だが、時間を相手に恨むこともできない――。
――いや、恨んでもいいのか……。
時や世界に何を言っても無駄だ――誰もが知っている。
でも、どうしようもないと、ただあきらめるなんて悔しいじゃないか――。
せめて文句の一つくらい、自分の内からこぼれ出る思いくらい、叫んだっていいじゃないか――。
「交代です」
隣に座っていた男性が立ち上がった。ボードとカウンターを交代に訪れた人間に渡す。地面に置いていたリュックを背負い「よろしくお願いします」と一言残し、あまりにさっぱりとその場を離れていった。
カスミはどうしたか――。
カスミも席を立ち、カウンターとボードを――パイプ椅子の上に黙って置いた。
「お願い……します……」
相手の顔をまともに見れない。そんなか細い声を、かろうじてしぼり出すのが精一杯だった。
自分でとった行動なのに、違和感だらけなのは否めない。交代にきた二人が何か悪態をつくだろうことは、カスミにも覚悟できた。
だが――。
二人は何事もなかったかのように――そして、カスミが交代するはずの男性にいたっては、さも当然のように椅子の上に放置されたボードを手に取り――席に着いたのだった。
――どういうこと……?
みんなには私が見えていない。いや、見ていない。だから、この持ち場の担当者が責任を放棄して、どこかに行ってしまった――そう思われても仕方がない。
仮にカスミの姿が、行動が見えていたとして、手渡すことなく無言でボードを椅子の上に置いた。こんな失礼な奴はいないと、顔を赤められても文句は言えない。
だが、今、目の前で起きたのはそのどちらでもなかった。
――そう言えば……。
さっきまで隣にいた男性も、カスミの席のことを気にする様子はなかった。カスミの姿が見えていなければ、そこは空っぽの席だったということになるはずなのに。
カスミは思った。
――私は透明人間になったわけじゃない……。
誰かにぶつかれば突き飛ばされてしまう。
身体はあるのだ。この世界において、カスミは実体としてそこにある。実在している。
――そんな私を、みんなは無視する……。
気づけないでいる……。
――だとしたら、私がした行為も同じなのだろうか……。
私がとった行動は確かにそこに存在する。
それゆえ、その行動の帰結としての結果を伴わずにはいられない。だが、その行動そのものはカスミの存在と同じく無視されてしまう。
スーツ姿の男からボードを奪っても咎められなかった。だが、その担当場所のボードがなくなったということは、そこに誰かがいて仕事をしている――そう認識されているということだ。
もしかすると、もうすでに見回りにも来ていたかもしれない。だが、その席に誰かがいなかったとしても――あるいは、少なくともカスミが座っている必要はあったかもしれないが――気にもとめられない。
結果として、きっちりと数えられたカウンターがそこにある。交代にきた人間は、ただその結果を受け取るだけだ。受け取り方は問題ではない――。
もちろん、そのカウンターに0ばかりが並んでいれば、誰かが――その誰かは分からないが――仕事をサボったのだと認識されるだろう。
――わからないことばかりだ……。
ともかく、不自然なことであっても、私が関わると、それは不自然でも何でもなくなるらしい。
カスミが考えられるのはそこまでであった。それでも……。
もしかすると、最後までやれるかもしれない――。
小さな希望が見えてきた。
カスミの中に、小さな元気がわいてきた。




