第48話:古市の夜と、狂乱の精進落とし
本作は、現代の経営理論で歴史を動かすビジネス思考実験フィクションです。
夜の帳が下りると、伊勢神宮の参道とは打って変わり、神聖な静寂とは真逆の狂乱が街を包み込んだ。
内宮と外宮の中間に位置する、日本五大遊郭の一つ――「古市」である。
何十軒もの楼閣が建ち並び、無数の赤提灯が水面に映える。三味線と太鼓の賑やかな音が響き渡り、全国から集まった参拝客が「精進落とし」と称して夜の宴へと繰り出していた。
「さあさあ若旦那! これが伊勢一番の精進落としだあッ!」
御師の最高幹部・藤波太夫に連れられ、古市で一二を争う大楼閣の大広間へ足を踏み入れた貞次郎。
通されるや否や、絢爛豪華な着物を纏った美しい伊勢の遊女たちが、一斉に貞次郎を取り囲んだ。
「まあ! なんて男前の若旦那様! 江戸のお方ですの?」
「お酒、お注ぎしますわ! ほら、もっとお近づきになって……」
艶やかな香水の匂いと、柔らかい肌の感触。両脇をぴったりと固められ、貞次郎はデレデレのモテモテ状態に陥った。
「む……! い、いや、これほど至近距離で囲まれては……。私はただ、この古市における遊客の平均消費額と、楼閣の稼働率を……」
貞次郎は真顔で大福帳を開こうとするが、遊女たちに「もう、お堅いこと言わないでぇ〜」と両腕を抱えられ、完全に身動きを封じられてしまった。
そこへ――ッ!
バサァァッ!!
大広間の襖が、怒髪天を突く勢いで激しく叩き開けられた。
「若旦那ーーーッ!! 探しましたよッ!!」
「ふふ……貞さん、良いご身分じゃないかい……?」
鬼の形相のお春と、静かに冷気を撒き散らすお艶の乱入である。
「若旦那! お仕事の出張だって言ってたのに、こんな場所で鼻の下を伸ばして……ッ!」
お春は腕まくりをして貞次郎へ詰め寄ろうとした――が、その足がピタッと止まった。
お春の丸い目が、宴席の中央に並べられた【目眩く伊勢の豪華絢爛なご馳走】に釘付けになったのだ。
大きな甲羅を誇る真っ赤な「伊勢海老の炭火焼き」、そして皿からはみ出さんばかりの「鯛の姿造り」に「焼き蛤」の山……!
「(ゴクッ……!) な、なんですかこの……夢のような美味しそうなお料理の数々は……!?」
生唾を飲み込み、目が完全にくらんでいるお春。
藤波太夫がガハハと大笑いして手を振った。
「おお、連れの娘たちか! 堅いことは言いっこなしだ! お前たちも食え食え、伊勢の味覚だぞ!」
「えっ!? いいんですか!? ……い、いただきますッ!!」
お春は一瞬で貞次郎への怒りを忘れた。
「んん〜〜ッ! 伊勢海老がプリップリで甘いです〜〜っ! お肉も口の中でとろけます〜〜っ!」
と、大ご馳走の山へダイブし、ものすごい勢いで食べ散らかし始めたのだ。
一方、お艶の視線は別の場所に向いていた。
宴席の舞台の上で、華やかな遊女たちが踊り始めた古市名物「伊勢音頭(総踊り)」である。
吉原の元トップ花魁としてのプロの血が、お艶の中で静かに騒ぎ出した。
お艶は煙管をふぅーっと吹き出すと、貞次郎のことなど完全にそっちのけで、舞台の袖にいる伊勢の遊女たちの輪へと歩み寄った。
「ねえ、あんたたち。気風も顔立ちも良いのに、衣装の見せ方が少し勿体ないねぇ」
「え……? どなたですの、お姉様……?」
きょとんとする伊勢の遊女たちに対し、お艶は流れるような優雅な所作で自分の着物の裾をひらりと翻してみせた。
「帯の位置を指二本分下げてごらん。首筋から背中のラインがずっと綺麗に見えて、男の視線を釘付けにできるよ。……それに、うちの越前屋がこれから作る『薄手の軽量色木綿』を羽織って伊勢音頭を舞ってごらん。三味線の音に合わせて裾がふんわりとなびいて、客が一発でノックアウトされるよ」
お艶が伝授する、吉原直伝の「魅せるセルフプロデュース」と衣装の着こなし。
伊勢の遊女たちは一瞬で目を輝かせた。
「まあッ……! 本当だわ! 首筋がすごく綺麗に見える!」
「すごいわお姉様! そのお着物、私にも着せてくださいな!」
「ふふ、良いよ。越前屋の手ぬぐいや色木綿が届いたら、真っ先に送ってあげるからねぇ」
「きゃーっ! お姉様、大好きーっ!」
あっという間に、伊勢の遊女たちは全員がお艶を「理想の大姉様」と崇め奉り、お艶を中心に大盛り上がり(BtoBtoC営業の完璧な成功)となった。
「ガハハハハ! 賑やかで実に楽しいのうッ!」と、大酒を飲んで大満足の藤波太夫。
「ふは〜、伊勢海老三匹目です〜! 幸せすぎます……」と、お腹を膨らませて大満足のお春。
「さあみんな、吉原と古市の粋を合わせて、もう一踊りいこうじゃないかい!」と、宴の主役として大満足のお艶。
そして――宴席の真ん中で、両脇の遊女たちとお艶の商談に挟まれ、美味しいご馳走はお春にすべて食べ尽くされ、一人だけ取り残された貞次郎。
「……む、むう。私の『精進落とし』とは、一体何だったのだ……?」
ポツリと呟く貞次郎の情けない声は、狂乱の伊勢音頭の手拍子と、お春の満腹な溜め息の中に爽快に消えていくのだった。
(第49話へ続く)
三井貞治のビジネス指南と歴史考証
1. ビジネス指南:現場のインフルエンサーを落とす「プロダクト・シード(体験型営業)」
第48話でお艶が見せたのは、現代のマーケティングにおける「インフルエンサーマーケティング」「プロダクト・シード(商品体験の提供)」の極めて優秀な実践です。
商品を最終消費者(客)に直接売り込むのではなく、現場で絶対的な影響力を持つ演者・インフルエンサー(この場合は古市のトップ遊女たち)に直接体験させ、その価値を実感させる。お艶は吉原で培ったプロの技術(着こなし・魅せ方)という「付加価値」を無料で提供することで、遊女たちの信頼を完全に獲得し、これから開発する「越前屋の色木綿や手ぬぐい」の熱烈なファン(自発的なPR担当者)へと仕立て上げました。現場のプロを味方につけることこそが、口コミを爆発させる最大の近道なのです。
2. 歴史考証:日本五大遊郭「古市」と、名物「伊勢音頭」の史実
作中に登場した伊勢参りの夜の真骨頂、古市遊郭について解説します。
日本五大遊郭の一つ「古市」の史実:
伊勢神宮の外宮と内宮を結ぶ間の山上に位置した古市は、江戸の吉原、京都の島原、大坂の新町、長崎の丸山と並び「日本五大遊郭」の一つに数えられた巨大な大歓楽街でした。最盛期には70軒以上の妓楼が立ち並び、千人を超える遊女たちが働いていました。伊勢参りに来た男性客のほとんどがここで「精進落とし」と称して大宴会を繰り広げました。
名物ショー「伊勢音頭」と「亀の子踊り」:
古市の遊郭の最大の特徴は、吉原のように張り店(格子の中に遊女が座る)を見せるのではなく、大広間の舞台の上で遊女たちが総出で踊る「伊勢音頭」という歌舞演劇ショー(舞台公演)を見せた点です。「伊勢に行きたい 伊勢路が見たい せめて一生に一度でも」という歌詞で有名な伊勢音頭は、全国から集まった参拝客を魅了し、旅人たちがこの歌を覚えて全国へ持ち帰ったことで、伊勢参りの大ブームをさらに加速させました。




