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『過労死百貨店マンの江戸商売無双 ~「お客様第一」の精神とドラッカーマネジメントで、天下の市場を買い占める~』  作者: 桐生宇優


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4/10

第4話:砂の城の崩壊

「……嘘、だろ」


売場の大型モニターに映し出されたニュース映像を見つめながら、三井貞治は呆然と呟いた。

世界規模で拡大した未知の感染症。それと同時に、ユーラシア大陸の片隅で勃発した大規模な軍事紛争。


昨日まで免税カウンターに押し寄せていた外国人観光客の姿は、まるで煙のように一瞬で消え去った。国際便はストップし、海外の富裕層も移動を制限された。


一越百貨店のフロアに、かつてない静寂が戻ってきた。しかし、それは貞治が愛した、あの穏やかで品格のある静けさではない。ただただ不気味な、死に絶えた街のような静寂だった。


バブルの崩壊は、売上の急降下という形で即座に現れた。


そして、ドライなグローバル資本の本性が、ここから牙を剥く。


「……え? 撤退、ですか?」


紳士服売場の縮小スペースに入っていた、フランスの超高級レザーブランドの店長が、青い顔で荷物をまとめていた。

「本社の決定です。日本市場全体の売上が落ちる中、限られた『新作商品』や『売れ筋』は、すべて東京の銀座や新宿の本店に集中させることになりました。

この地方店は、ラインナップを大幅に削られ、型落ちの在庫処理(余り物)の売り場に格下げです。それでも採算が合わなければ、来月には完全に撤退します」


外資系ブランドにとって、地方の一百貨店などただの「販売チャネルの一つ」に過ぎない。

売れなくなれば、一瞬で地方を切り捨て、大都市圏へと資本を集中させる。それが彼らの合理主義だった。


ブランドショップの棚から華やかな新作が消え、売れ残りのアウトレット品のような衣服が並ぶ。当然、客足はさらに遠のいた。


そんな中、フロアマネージャーである貞治の元に、役員の藤馬から一枚の書類が突きつけられた。


「三井。高級ブランドが抜けた分の売上、今月中に君の紳士服売場で『補完』してもらう」


渡された書類に書かれていたのは、全盛期の一越でも達成不可能な、異常な額の販売ノルマだった。


「藤馬役員、無茶です! すでにお得意様は離れ、ブランドの型落ち品しか並んでいないこのフロアで、どうやってこの数字を叩き出すんですか!? それに、スタッフの半分はすでにリストラや自主退職でいません。残った数少ないメンバーで、日々の売場を回すだけでも限界なんです!」


貞治が初めて声を荒げて抗議した。しかし、藤馬の眼鏡の奥の瞳は、一切の感情を交えずに貞治を見下ろしていた。


「人員が足りないなら、一人二役でも三役でもやればいい。残業代の予算は出せないがね。いいか、三井。言い訳は聞かない。数字を達成できなければ、来月には君のフロア自体を閉鎖し、残ったスタッフも全員解雇する」


逃げ道は、完全に塞がれた。


少なくなった仲間たちの雇用を守るため、そして一越の暖簾をこれ以上汚さないため、貞治は泥沼の「地獄」へと足を踏み入れるしかなかった。


(第5話へ続く)



【第4話あとがき:三井貞治の経営ミニ講座】

今回のテーマ:地方百貨店を見捨てる「アセット・ライト(資産の軽量化)」の冷酷なからくり

『過労死百貨店マンの江戸商売無双』をお読みいただき、ありがとうございます。

第4話では、世界情勢の急変によってインバウンドバブルが弾け、海外高級ブランドが「地方店」から一瞬で商品と資本を引き揚げ、そのシワ寄せがすべて貞治たち現場のノルマとして重くのしかかる様子を描きました。

今回のビジネス解説では、投資ファンドや大資本が不況期に必ず行う「アセット・ライト(Asset-Light:資産の軽量化・スリム化)」という戦略と、それがもたらす地方格差の理不尽さについて解説します。

1. 「アセット・ライト」とは何か?

アセット・ライトとは、企業が工場、店舗、在庫、さらには従業員(人件費)といった「固定資産(重荷になるもの)」をできるだけ持たないようにする経営手法のことです。

第3話で解説した「定期借地権(床をブランドに貸すだけ)」もその一種です。百貨店側は在庫リスクを持たないため、平時は非常に効率よく儲かります。

2. 不況時に発動する「選択と集中」の罠

しかし、今回のように感染症や紛争で市場全体が冷え込むと、このシステムは地方から順番に崩壊します。

高級ブランド側からすれば、自社の貴重な資産(人気の商品や優秀なスタッフ)を、購買力が落ちた「地方店」に置いておくのは無駄でしかありません。そのため、彼らは「選択と集中」という名のもとに、資源をすべて首都圏の超一等地に引き揚げます。

地方店に残されるのは、首都圏で売れ残った「型落ち品(余り物)」だけになり、地方の売り場は急速に魅力を失っていくのです。

3. リスクをすべて現場に押し付ける構造

最も理不尽なのは、ファンドの経営陣(藤馬)の対応です。

彼らは自分たちの「ブランド依存戦略」が失敗したにもかかわらず、その責任を認めません。なぜなら、彼らにとって重要なのは「今期の予算(数字)を達成して、ファンドの投資家に言い訳をすること」だけだからです。

ブランドが抜けて空いた大きな穴(減収分)を、自社でリスクを背負って残してあった「紳士服売場」などの在来フロアに、無理やりノルマとして押し付けます。

経営陣: 戦略の失敗を認めず、ノルマの数字だけを吊り上げる

現場:人員は減らされ、商品力も落ちているのに、不可能な数字を求められる

これが、現代のブラック企業や、崩壊直前の組織で必ず起きる「現場への過度な搾取」の構造です。貞治は、仲間と売場を守るという人質を取られ、限界を超えた労働へと追い込まれていきます。

次回、現代編最終話。

不条理なシステムの中で、商売の心を失い、ついに精神的・肉体的に限界を迎える貞治。そして彼を待ち受ける「運命の瞬間」と、江戸時代への転生プロローグ。

貞治の命をかけた叫びが、次の世界でどう活きるのか。ぜひ、ハンカチをご用意のうえ、次回もお楽しみください。


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