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『過労死百貨店マンの江戸商売無双 ~「お客様第一」の精神とドラッカーマネジメントで、天下の市場を買い占める~』  作者: 桐生宇優
第二章:激動の多店舗展開編

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第27話:吉原(くるわ)のアライアンス、交わされた約束

本作は、現代の経営理論で歴史を動かすビジネス思考実験フィクションです。

本章より実在の歴史人物が登場しますが、その実績をベースにしつつも、作中の行動や展開はすべて想像の範囲の創作です。チェーンストア理論が江戸の名奉行や実務家たちとどう交錯するのか、エンターテインメントとしてお楽しみください。


初夏の夜風が、吉原の喧騒をどこか遠くへと運んでいく。


三浦屋の最も格式高い奥座敷に、貞次郎は再び座していた。彼らの傍らには、大坂仕入れの成功で得た富の一部である、ずっしりと重い小判の詰まった二つの千両箱が置かれている。


座敷の主、三浦屋の楼主・弥左衛門は、悠然と煙管きせるの煙をくゆらせながら、その千両箱には目もくれず、最初からすべてを見抜いたような笑みを浮かべた。


「越前屋の若旦那。わざわざそんな物騒な大金を抱えてこなくとも、すべて分かっているさ。……お艶を、身請けしにきたんだろう?」


「さすがは弥左衛門さん、話が早くて助かります」


貞次郎は小さく微笑み、居住まいを正した。


すでに吉原総選挙でお艶が初代「江戸一番」の座に就いた時点で、彼女が越前屋の、ひいては江戸の消費社会の象徴として引き抜かれることは、百戦錬磨の弥左衛門にとって織り込み済みのことであった。


「お艶ほどのトップ花魁だ。前借金の残高に楼主への退職金、各株仲間への挨拶料を合わせれば、本来なら目の前の小判がすべて吹き飛ぶほどの大事業になる。……だがな、貞次郎さん。俺はただ金を積まれて女を渡すような、無粋な真似はしたくねえんだ。商売の鬼であるお前さんなら、金以外の『手土産』を用意しているんだろ?」


「もちろんです」


貞次郎は懐から、精密に描かれた数枚の図面と、細かく箇条書きにされた大福帳の控えを取り出し、畳の上に滑らせた。


「弥左衛門さん。この総選挙の仕掛け、つまり『一枚摺(浮世絵)の投票券付き販売』のノウハウ、および吉原大門前で稼働させた『大箱の開票・集計システム』。このお祭りを回すための仕組みの一切合切を、三浦屋、ひいては吉原の株仲間に無償で譲渡いたします。江戸の言葉で言えば、このお祭りの【興行株(仕掛けの利権)】を、そっくり差し上げるということです」


弥左衛門の手がピタリと止まり、その目が鋭く見開かれた。


「何だと……? あの、江戸中を熱狂させた大仕掛けの利権を、丸ごと吉原にくれると言うのか?」


「そうです。これを現代の言葉で言えば、版権や特許の無償ライセンス供与です」


貞次郎は淡々と、しかし確信に満ちた声で続けた。


「越前屋は呉服屋であり、興行イベントの専門家ではありません。ですが、吉原の株仲間がこの興行株を持っていれば、来年も再来年も、今度は吉原が主導して『第二回・第三回総選挙』を開催し、江戸中から爆発的な観光客と登楼客を呼び寄せることができる。この仕組み自体が、一千両の小判などよりも遥かに大きな、永続的な富を生み出す資産なのです」


弥左衛門は煙管を灰吹きにトントンと叩きつけ、大きな感嘆の息を漏らした。


「……恐ろしい男だ。目先の金ではなく、仕組みそのものを取引の道具にするか。だがな若旦那、お前さんがくれた恩恵は、その興行株だけじゃねえんだよ」


弥左衛門は嬉しそうに目を細め、吉原の「内情」を語り始めた。


「実はな、お艶が一位になったあの夜から、吉原中の遊女たちが凄まじい勢いで色めき立っている。大見世のトップから小見世の若い娘まで、『次の総選挙で勝つのは私だ』と、寝る間を惜しんで芸事を習い、文字を学び、言葉遣いや身のこなしを改め、必死に【自分磨き】を始めやがった。客に媚を売るだけじゃなく、一人の『表現者』として輝こうとしていやがる。おかげで、街全体の格が一段も二段も上がった。お前さんたちのおかげで、吉原全体がどれほど活性化して稼がせてもらったか、計り知れねえんだ」


総選挙というプラットフォームが、遊女たちの「人材育成のモチベーション」を爆発させ、吉原全体のクオリティ(付加価値)を劇的に向上させていたのだ。


「吉原中の楼主も男衆も、みんなお前さんたちに感謝している。だからな、貞次郎さん。吉原全体の総意として、お艶の身請け金は【一文もいらねえ】。むしろ、うちからの最大の感謝のお返しとして、お艶を無償で自由の身にして差し出そう」


「本当かい、弥左衛門のオヤジ!?」


これほどの大事業の身請け金をゼロにするというのは、吉原の歴史が始まって以来の「粋なお返し」であった。


「その代わりだ、若旦那」弥左衛門は真剣な眼差しで貞次郎を見据えた。「これからも越前屋は、この吉原という街の活性化や広報に、その類稀なる知恵を貸し続けてくれると、そう約束してくれ。いわば、街と店との永きにわたる提携アライアンスだ」


「喜んで。今後とも、越前屋は吉原全体のイベントや広報活動に全力で協力いたします。共に江戸を盛り上げましょう」


貞次郎は深く頭を下げ、二人の間で、現代でいう「地域活性化の包括業務提携」が完璧に結ばれた。

その時、座敷の襖が、大きな音を立てて勢いよく開いた。


そこに立っていたのは、花魁の豪華な衣装を脱ぎ捨て、すでに旅立ちを予感させるすっきりとした小袖をまとったお艶であった。その美しい顔は、喜びと、そしてなぜか大きな不満で激しく波立っていた。


「ちょっと、貞さん! 」

お艶はドカドカと座敷に踏み込んでくると、貞次郎の真ん前に座り、美しい眉を吊り上げてむっと頬を膨らませた。


「お艶、聞いていたのか? お前は自由の身になれるんだぞ」


善ちゃんが苦笑する。


「それは嬉しいさ! 夢のようだわ。だけどねえ、貞さん! 『我が社の広報トップとして雇用する』ってのは、一体どういうことだい!?」


お艶は貞次郎の胸ぐらに掴みかからんばかりの勢いで詰め寄った。


「私はてっきり、あの総選挙の最中にあんたが私の手を握って『連れ出してやる』って言ってくれたから、てっきり、あんたの、その……おんなとして迎えにきてくれたんだと思って、胸をときめかせて待っていたんだよ! それなのに、蓋を開けてみれば『アンバサダー』だの『宣伝投資』だの、どこまで行っても商売、商売、商売……! あんたという男は、私の身体や心には興味がなくて、ただの越前屋の『看板(広告道具)』としてしか私を見ていないのかい!?」


「お、お艶、落ち着け……」


さしもの貞次郎も、お艶のあまりの剣幕と、そこに含まれる純粋な乙女心(むくれ顔)に、少し気圧されてタジタジとなった。


「お艶、違うんだ。お前をただの妻にして家の中に閉じ込めておくのは、江戸全体の、いや、お前自身の才能に対する最大の損失(機会損失)なんだよ。お前は吉原の籠の鳥から、江戸中の女性たちの先頭を走る『最先端の働く女性』になるんだ。もちろん……俺個人としても、お前が誰よりも近くにいてくれないと困る」


貞次郎が真摯な目でそう告げると、お艶は一瞬ハッとしたように目を見開き、やがて顔を真っ赤にしてフイッと横を向いた。


「……もう、相変わらず口が上手いんだから。分かったよ、その『あんばさだあ』だか何だかになって、あんたの商売をとことん手伝ってやるさ。その代わり、たっぷり稼がせてもらうからね!」


むくれつつも、その瞳には貞次郎への深い愛着と、未来への希望が眩しいほどに輝いていた。


「よし、話はまとまったな。だがな、若旦那。吉原の籍を抜くための奉行所への書類手続きや、お艶自身の後輩への引継ぎ、そして何より越前屋側の受け入れ態勢(多店舗化のインフラ)の準備を考えれば、実際に大門を出るのは【半年後】、秋の初めといったところだな」


弥左衛門がそう言って、交渉を締めくくった。半年間のリードタイム。それがあれば、大坂の増産も、江戸の新店舗の建設も完璧に間に合う。


「分かりました。半年後、最高の舞台を用意して迎えにきます」


お艶との半年後の未来を約束し、清々しい達成感と共に日本橋の店へと戻った貞次郎。しかし、夜更けの越前屋の帳場で二人を待っていたのは、青ざめた顔で差紙さしがみを握りしめる番頭・茂兵衛の姿だった。


「わ、若旦那……ついに、来てしまいました。北町奉行所より、明日お調味(呼び出し)の差紙にございます。既存の呉服屋ギルドの奴ら、町奉行の根岸様へ莫大な賄賂を包み、うちの正札販売を『市場を乱す不届き物』として本格的に潰しにかかってきました……!」


帳場の空気が、一瞬で凍りつく。


大成功の絶頂に訪れた、国家権力を巻き込んだ巨大な敵の包襲。


しかし、貞次郎は恐れるどころか、不敵な笑みを浮かべて自らの算盤を引き寄せた。


「……よし、来たな。在庫の三ヶ月があるうちに、まずは奉行所、そして幕府の懐へ飛び込むぞ。明日からは政治(実務活動)の戦いだ。俺たちのチェーンストア理論が、江戸の官僚たちに通用するかどうか、試してやろうじゃないか」


第一章の商業戦を終えた貞次郎は、今度は江戸の政治のド真ん中へと、その牙を向けようとしていた。


(第28話へ続く)


第27話あとがき:三井貞治のビジネス指南と歴史考証

1. ビジネス指南:現代の「自治体・企業間の包括連携協定(Win-Winのアライアンス)」

今回、貞次郎が吉原の楼主・弥左衛門と結んだ契約は、現代でいう「企業と地方自治体が結ぶ包括連携協定」の極めて高度な先駆けです。

現代のビジネスでも、企業(越前屋)が特定の地域(吉原)に進出、または協力する際、単に「お金を払って場所を借りる(または人を雇う)」だけでは、地域の反発を招いたり、一過性のブームで終わったりします。

貞次郎は、総選挙の仕組みという「知的財産(興行株)」を地域に無償ライセンス供与することで、吉原全体の「継続的な集客」と「遊女たちの人材育成(クオリティ向上)」という巨大なメリットをもたらしました。その結果、吉原側も「身請け金を無料にする」という、最大の譲歩(お返し)を提示してきたのです。

自社の利益だけを追うのではなく、「相手のプラットフォーム(地域社会)全体を活性化させることで、結果的に自社が最大の利益(お艶の獲得と独占アンバサダー契約)を得る」というアライアンスの思想は、現代の地域密着型チェーンストア戦略における最高の教科書と言えます。

2. 歴史考証:江戸の「身請け」に関する詳細解説

前話でも触れましたが、江戸時代の吉原における「身請け(みうけ)」の手続きと構造について、さらに詳しく解説します。

花魁を身請けする際、最も大きな障壁となるのが「前借金ぜんしゃくきん」の返済です。遊女たちは吉原に来る際、実家の借金などを楼主から前借りしており、この借金を完済しない限り、大門を出る(籍を抜く)ことは法律上できませんでした。

さらに、人気花魁ともなれば、それまで楼主が彼女の衣服や食事、教育(芸事や書道)に投資した「育成コスト」の回収分、そして吉原の「株仲間(組合)」や奉行所へ提出する公式な出籍書類の手続き費用が加算されます。

これらすべてを精算する行為は、江戸の社会では「一世一代の身代(全財産)を賭けた大勝負」とみなされていました。作中において、身請けまでに「半年後」という猶予が設定されたのは、これら奉行所への法的な書類提出や、吉原の籍(宗門改帳の移動など)の事務手続き、そして三浦屋側での「名取(跡継ぎ)の育成と引継ぎ」にかかるリアルな歴史的リードタイムを反映しているためです。

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