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『過労死百貨店マンの江戸商売無双 ~「お客様第一」の精神とドラッカーマネジメントで、天下の市場を買い占める~』  作者: 桐生宇優
激動の多店舗展開編

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第26話:貧乏侍と、夜明けの身請け金

本作は、現代の経営理論で歴史を動かすビジネス思考実験フィクションです。

本章より実在の歴史人物が登場しますが、その実績をベースにしつつも、作中の行動や展開はすべて想像の範囲の創作です。チェーンストア理論が江戸の有能な幕臣たちとどう交錯するのか、エンターテインメントとしてお楽しみください。

日本橋の越前屋は、本日も黒山の人だかりであった。


お艶の市松模様に憧れる町娘たちで店内はごった返し、セルフサービスの会計所には即金の小判や銭が絶え間なく叩き込まれている。


そんな熱狂の売場の片隅に、周囲の華やかさから完全に浮いている親子がいた。


父親は、他人の目を忍ぶように深編笠を小脇に抱え、あちこちが擦り切れた極端に安い麻の着物を着た、身なりの貧しい浪人風の男。


その大きな手につながれているのは、七歳ほどの小さな娘であった。


男は、棚に並ぶ美しい色とりどりの縞木綿をじっと見つめ、何度も懐の財布を確かめては、重い溜息をついていた。


すると、娘が不思議そうに父親の袖を引いた。


「ねえ、お父う。お家にはもっと綺麗なお着物がたくさんあるのに、お外へ行くときは、どうしていつもそんなに汚くてチクチクするお着物を着るの?」


「これ、静かにしなさい」


男は慌てて娘の口を優しく手で覆い、周囲を鋭い目で一瞥した。


「お父うには、色々とお役目……いや、大人の事情というものがあるのだ。それより、お前が欲しがっていたお艶様の市松模様は、これかい?」


「うん、とっても綺麗……」


男は再び財布の中の、わざわざ両替して忍ばせてきたわずかな小銭の束を見つめ、眉をひそめた。本当は小判などいくらでも持っているのだが、貧乏浪人の変装をしている手前、大金を出すわけにはいかないのだ。


「だが、お前には……すまねえ、この格好じゃ、呉服屋の敷居は高すぎたようだ。やはり大店おおだなを回るのは無理があったか」


男が娘の肩を抱き、諦めたように店を出ようとしたその時、目の前に一人の青年がすっと立ちはだかった。現代の百貨店マンの記憶を持つ若旦那、貞次郎であった。


貞次郎は二人の前に進み出ると、身なりの貧しさなど微塵も気に留めない、絵に描いたような見事な所作で頭を下げた。


「いらっしゃいませ。越前屋へようこそお越しくださいました」


男はびくりと肩を揺らし、無意識に腰の刀(変装用の錆びた偽物)へ手をかけそうになりながら、警戒するように目を細めた。


「……何だ。俺のような貧乏浪人に売るような、安い布はないだろう。冷やかしと思うなら、今すぐ出て行く」


「滅相もございません。お客様、うちの店に冷やかしなどという言葉はございませんよ」


貞次郎は極上の笑みを浮かべ、棚から先ほど娘が見つめていた「市松縁取りの藍染木綿」を優しく手に取ると、娘の目の前でふわりと広げてみせた。


「今の江戸の呉服屋は、絹をまとう一握りの金持ちのためにある。ですが、うちの越前屋は違います。この木綿は、お大名から長屋の小僧さんまで、江戸に生きるすべての人が等しくお洒落を楽しめるようにと、大坂の百人の職人が命を削って織り上げた布です。お嬢ちゃんのその真っ直ぐで綺麗な瞳に、この藍色がどれほど似合うか、商売の鬼である私の目には一瞬で見抜くことができました」


貞次郎は娘の目線に合わせて膝をつき、優しく語りかける。


「お嬢ちゃん、ちょっと羽織ってみるかい?」


娘が父親の顔を見上げると、男は貞次郎の、身分や格好で人を一切差別しないあまりにも誠実な態度と、商売への誇りに満ちた瞳に完全に圧倒されていた。


この男、ただの呉服屋ではない。男は黙って頷いた。


貞次郎が手際よく布を娘の肩にかけると、売場の空気がぱっと華やいだ。


「うん、完璧だ。お嬢ちゃん、世界で一番可愛いよ。お客様、こちらの正札をご覧ください。生産者から直接仕入れたものなので、普通の呉服屋の三分の一の値段でございます。これなら、お財布を痛めずに、大切なお嬢ちゃんに江戸で一番の笑顔をプレゼントできますよ」


男は提示された正札の、驚くほどの安さを見て、深く感銘を受けた。これなら、懐に隠した小判を出すまでもなく、変装用の貧乏財布に入っているわずかな銭だけで、一文の残らずにぴったり買い求めることができる。


「……買った。これを、この娘にくれ」


男の目が、鋭い役人のそれから、一人の父親の優しい光へと変わっていた。


「呉服屋に入って、これほど人として真っ直ぐに扱われ、娘の笑顔を見られたのは、生まれて初めてだ。越前屋の若旦那……あんたは本物の商人だ。この大恩、決して忘れん」


貞次郎は最高の笑顔で見送った。この貧乏侍が、実は奉行所の最高権力者の一人であり、お給金も極めて高い敏腕与力、笹原半太夫の隠密の姿であるとは、この時の貞次郎はまだ知る由もなかった。


親子が店を出た後、貞次郎はすぐに、奥の帳場へと向かった。


そこには、大坂へ戻る準備を終えた善ちゃん、そして番頭の茂兵衛が待っていた。


「よし、善ちゃん。ロジスティクスの打ち合わせ通り、大坂の増産体制は頼んだぞ。俺はこれから……三浦屋へ向かう。お艶を【身請け】しにいく」


貞次郎がさらりと言い放ったその瞬間、帳場にいた茂兵衛、そして奥から顔を出した貞次郎の実父と実母が、まるで雷に打たれたように飛び上がった。


「な、ななな……何をおっしゃいますか、若旦那ーーーっ!!」


茂兵衛が算盤を取り落とし、大声を上げる。両親は貞次郎の袖にすがりつき、涙をボロボロと流してその場に泣き崩れた。


「貞次郎、正気かい!? 吉原のトップ花魁を身請けするなんて、一体いくらかかると思っているんだ! 何百両、下手をすれば一千両という金が、一瞬で消えてしまうんだよ!」


お父様が声を震わせる。


「そうだ、若旦那! せっかく正札販売と大坂仕入れで、うちの金蔵に本物の小判が山ほど貯まったっていうのに、それを女ひとりに貢ぎちまうなんて、越前屋は破産でございます! 頼みますから、目を覚ましてくださいっ!」


茂兵衛が畳に頭をこすりつけ、泣きながら止める。


彼らにとって、吉原の花魁を身請けするというのは、放蕩息子の身を持ち崩す「最大の愚行」にしか見えなかったのだ。


お母様も手ぬぐいを握りしめ、ただただ涙を流して息子の行く末を心配している。


しかし、貞次郎は困ったように苦笑しながらも、その目は恐ろしいほど冷徹な「経営者の数字」を弾いていた。


「お父様、お母様、それに茂兵衛。勘違いしないでくれ。俺はお艶を、自分の嫁にするために身請けするんじゃないんだ」


「え……? 嫁にしないなら、何のために……」


「【越前屋の専属広報トップ(初代グランド・アンバサダー)】として、我が社で雇用するんだよ」


貞次郎は不敵に笑い、驚く一同を置いてけぼりにしたまま説明を続ける。


「お艶は、江戸中のすべての女性が憧れる、最強のインフルエンサーだ。彼女を吉原という閉鎖空間から解放し、うちの専属モデルとして江戸の街中で自由に活動させる。神田、浅草とこれから店を増やすたびに、オープニングイベントにお艶が登場すれば、それだけで新しい店は初日から大行列、数千両の売上を叩き出す無敵の看板になる。身請け金の数百両なんて、多店舗展開チェーンストアの宣伝投資として考えれば、一瞬で回収できる安い経費コストさ」


「せ、せんでん……とうし……?」


茂兵衛は、若旦那の口から飛び出す、江戸の人間には理解不能な「未来の経営戦略」に、ただ口をパクパクさせるしかなかった。


両親と茂兵衛が呆然と見送る中、貞次郎は、江戸のファッションを次の次元へと引き上げるため、夜明かりの日本橋から吉原へと向かって、力強く歩み出すのだった。


(第27話へ続く)


第26話あとがき:三井貞治のビジネス指南と歴史考証

1. ビジネス指南:顧客の本質を見抜く「誠実な接客」

今回、貞次郎は変装した貧乏侍(与力・笹原)に対し、身なりで判断せず極上の接客を行いました。

ビジネスにおいて、顧客を外見や現在の可処分所得だけでスクリーニング(選別)するのは悪手です。なぜなら、「商品の価値を最も深く理解し、生涯のファン(ロイヤルカスタマー)になってくれる人物」は、往々にして目立たない姿で現れるからです。

相手の「本当に求めているもの(娘を喜ばせたいという想い)」を瞬時に見抜き、等身大の誠実さで価値を提案する。この顧客エンゲージメントの獲得こそが、のちに企業が最大の危機を迎えた時に、金銭では買えない強力な「防壁」となって帰ってきます。

2. 歴史考証①:吉原の「身請け」という一大事業

江戸時代において、お艶のような吉原のトップ花魁おいらんを身請けするというのは、単なる恋愛の成就ではなく、現代のプロスポーツ選手の移籍金や、企業のM&A(買収)に匹敵する巨額の資金が動く経済行為でした。

身請けには、花魁が抱える借金(前借金)の完済に加え、楼主への退職金、吉原の各種組合への挨拶料などが上乗せされ、数百両から一千両(現代の価値で数千万円から一億円以上)が必要とされました。これを貞次郎は個人の贅沢(消費)ではなく、これから日本中に展開するチェーンストアの「広告宣伝費(投資)」として処理するという、当時としてはあり得ない視点転換を行っています。

3. 歴史考証②:江戸を支えた実務家「町奉行所与力」の歴史上の評価

今回登場した笹原半太夫のベースとなった「町奉行所与力まちぶぎょうしょよりき」は、現代で言えば「警察本部長」と「裁判官」と「行政官」を兼ねた、江戸の治安と経済を実質的に支配していた超エリート実務家です。

南北合わせてわずか50人ほどしかおらず、お給金(知行)の他にも諸手当や特権、大店からの付け届けなどがあり、実際には旗本をも凌ぐ非常に豊かな暮らしをしていました。彼らは世襲制が多く、江戸の街の隅々まで知り尽くしたプロの行政官として、歴史上でも非常に高く評価されています。彼らが他人の目を忍んで変装し、街の情報を集める「隠密行動」を行っていたのも史実通りです。

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