第17話:日本橋の奇妙な店と、満員御礼の地鳴り
朝四ツ(午前10時)、
初夏の爽やかな青空の下、
新装なった越前屋の「大戸」が、長吉たちの手によって勢いよく引き開けられた。
「新装開店、越前屋でございます! どなた様も、どうぞお気軽にお入りください!」
若手の丁稚たちが店口で声を張り上げる。
しかし、日本橋を行き交う江戸の庶民たちは、足を止めはするものの、怪訝そうな顔で間口の小さな店を遠巻きに見つめるばかりだった。
それも無理はない。壁も座敷もなく、色とりどりの木綿が最初からむき出しで棚に並んでいる店など、江戸の歴史上どこにも存在しなかったからだ。
あまりの異質さに、誰も最初の一歩を踏み出せない。
最初に入ってきたのは、冷やかし半分のお婆さんや、近所の物好きな丁稚など、パラパラとした数人だけだった。
「なんだいこの店は、座敷もないのかい」
「反物にいちいち値札がついているよ、奇妙だねぇ」
不穏なほどに静かな立ち上がり。
帳場で算盤を握る茂兵衛は、早くも額に脂汗を浮かべ、「やはり奥座敷を壊したのは間違いだったのでは……」と胃を痛めていた。
だが、貞次郎は平然と、腕を組んで売場の動線を見つめていた。
(新しいビジネスモデルが、最初に客から『警戒』されるのは織り込み済みだ。ここからが、うちの奉公人たちの本当の腕の見せ所だぞ)
不安な静寂を破ったのは、おどおどしながら入ってきた、小汚い木綿の着物を着た長屋の女房だった。
「あの……娘の婚礼に、せめて一着だけでも、まともな着物を着せてやりたくて……。でも、家にはこれっぽっちの小銭しかなくてねぇ……」
彼女は、一般木綿が並ぶ低い棚の前で、財布を握りしめたまま俯いていた。
かつての越前屋であれば、格式ばかりを気にして「場違いだ」と追い出すか、安物をボッタクリ価格で売りつけていたところだ。
だが、その背側に、貞次郎の教育を受けた丁稚がスッと、最高の笑顔で寄り添った。
「お嬢様のご婚礼ですか! それは誠におめでとうございます!」
丁稚は焦らせることもなく、女房の目線に合わせて優しく声をかけた。
「でしたら、こちらの桃色の縞木綿はいかがでしょう。この正札の通り、お出しできる限界の安値ですが、上方の良い糸を使っておりますので、お召しになったら本当に優しくお似合いになりますよ。どうぞ、お手にとって触ってみてください」
「え……触ってもいいのかい? 値切らなくても、本当にこの値段でいいのかい?」
「はい! うちの店はどなた様にも、この正札通りの一番安いお値段で、真心を込めてお売りしております」
値段交渉や反物を奥の蔵から出し入れする無駄な時間が一切ない分、丁稚は100%、彼女の「娘を祝いたい」という温かい心に寄り添うことができた。
女房は涙を流して喜び、提示された格安の正札の値段で即決。
出入り口の「お会計所」でサラリと現金を支払い、宝物のように反物を抱えて店を出ていった。
この瞬間に、目に見えない巨大な歯車が回り出した。
「おい、越前屋は座敷に上がらなくていいぞ!」
「小汚い格好で行っても、ものすごく親切に相談に乗ってくれた!」「何より、値切る必要がないくらい、どこよりも安いんだ!」
買い物をした数人が裏長屋や井戸端で放った言葉が、迅速な口コミ(バイラル・マーケティング)となって江戸中に拡散していったのだ。
昼八ツ(午後2時)を回る頃には、日本橋の通りに異変が起きていた。
越前屋を目指す庶民の波が押し寄せ、元々間口の小さかった店の前には、呉服屋の歴史上見たこともない【数百人の大行列】が出現したのだ。
「安いぞ!」「気兼ねなく自分で選べる!」
店内は、反物を自分の手で選んで次々とお会計所へと運ぶ客たちで熱気ムンムンに包まれた。店員が付きっきりにならなくても、セルフサービスの仕組みによって、狭い店内でも驚異的なスピードで回転していく。
しかし、元が小さなお店である。あまりの混雑に売場がすし詰め状態になりかけたその時、貞次郎が鋭く決断した。
「長吉、大戸を半分閉めろ! 『入場制限』だ。これ以上客を入れると、中のお客様への寄り添う接客がおろそかになる。茂兵衛、列の後ろに丁稚を立たせて、『本日の札止めはここまで』と書いた看板を持たせろ。並んでいるお客様同士のトラブルを絶対に起こすな!」
「は、はいっ!」
小さな店が入場制限をかけ、列をきっちり区切る。外の行列は整然と統制され、その「並ばなければ入れない店」という光景が、さらなる評判を呼んで江戸中の大ニュースとなっていった。
暮れ六ツ・午後6時頃、ようやくすべてのお客様を送り出し、大戸が静かに閉められた。
バタン、と音が響いた瞬間、長吉や丁稚たちは「あ、足が、もう一歩も動きません……」とその場に崩れ落ち、へたり込んだ。奉公人たちの着物は汗でびっしょりと濡れていた。
しかし、その顔には、これまでに味わったことのない猛烈な充実感がみなぎっていた。
パチパチ、と静まり返った店内に、茂兵衛が叩く算盤の音が響く。
「若旦那……わずか1日で、うちの店の【過去最高の月商(一番売れた月の1ヶ月分の売上)】を叩き出しております……。すべて即金、ツケは一文もございません……!」
茂兵衛の手が、嬉しさと震えでガタガタと揺れていた。
貞次郎は全員を見渡し、平然と笑った。
「みんな、最高の接客だった。これだけ売れても、大坂から仕込んだ反物はまだまだ山ほど残ってる。明日からもこの調子で、江戸中に真心を届けよう。今夜はしっかり休め」
「はいっ!!」
地響きのような奉公人たちの力強い返声が、新生・越前屋の夜空に響いた。
皆が片付けを始める中、貞次郎は昨夜、自分の手で丁寧に別けておいた反物をしっかりと荷車に乗せたた。お艶たち遊女一人ひとりの顔を思い浮かべて選んだ、極上の高級染め木綿の反物だけだ。
「さて、茂兵衛、留守は頼んだぞ。俺はこれから、約束通り吉原へ納品に行ってくる」
「若旦那、お釣りなどは持たなくてよろしいのですか?」
「いらないさ。金はもう、あの楼主からすでに全額もらっているからな。今夜はただ、あいつらとの『約束の現物』を届けて、驚く顔を見に行くだけだ」
財布は身軽に、しかし荷車には最高の真心(反物)を載せて、貞次郎は夜の江戸の街へと粋に歩き出した。
かつて溺れた吉原の灯りへ、今度は江戸を震撼させた「本物の商人」として乗り込む。
その大逆転の夜道へと、力強く一歩を踏み出すのだった。
(第18話へ続く)
次回予告:吉原の夜が粋に染まる「約束のデリバリー」
無事に初日を大成功で終え、貞次郎は身軽に、特選の反物だけを背負って吉原・三浦屋へと向かいます。
「本当に大坂から極上の反物を、しかも自分たちのために選んで持ってきた」という貞次郎の誠実さに、楼主の弥左衛門や、お艶、お千代、お小夜たちの反応は……!?




