80話 これも、お仕事 ~アードの責務~
土の月、後節。
あれから数日が経ったある日。
執務室の扉がコン、コンと叩かれ、マテオが分厚い紙の束を抱えて入ってきた。
いつもの几帳面な足取りだけど……なんだか表情が硬い。
「報告書が届きました」
差し出された束を、アゼレアがすっと受け取る。
ぱらぱらと目を通す彼女の横顔はいつも通りなのに、マテオの眉間は少しも緩まない。
……気になる。
「ねぇ、マテオ。どうしたの? そんなに難しい顔して」
マテオは一瞬言葉を飲み込んで、それから小さく咳払いをした。
「……いえ」
濁された返答に、余計に胸がざわざわする。
そんなわたしを横目に、アゼレアが報告書を閉じた。
そして、ふっと息を吐いてから、こちらに視線を向ける。
「――そろそろ、いいだろう」
「ん?」
「これもアードの仕事だ。お前も読め」
そう言って、分厚い報告書が目の前に置かれる。
いままではアゼレアが処理してくれていたもの。
けれど、代理である以上、避けられない責務。
わたしはごくりと唾を飲み込んで、書類を開いた。
記録の一行目に目を走らせた瞬間、眉間にしわが寄るのを自覚する。
「魔獣の目撃情報……んん? 方角だけ?」
そこに並んでいたのは、魔獣の目撃地点の記録だった。
北西の集落、南の畑地、東の森沿い。
紙には、そんなふうに淡々と書かれていた。
――家畜が一頭襲われた。
――影を見た者あり。
――足跡と思しき痕跡を確認。
ひとつひとつは小さな被害だけど、点が増えれば線になる。
トバルのすぐ近くに、確実に魔獣が来ているという印だった。
わたしはいつの間にか、唇を噛んでいた。
「これが……アードの仕事」
ぽつりとこぼれた声が、執務室の静けさに溶けていった。
「こういう報告は、毎月届く」
アゼレアの声は落ち着いていた。
けれど報告書に並ぶ文字は、わたしの胸をきつく締めつける。
「表には出さない。無用に不安を広げれば、町の生活そのものが揺らぐからな。これまでは私が処理してきた」
淡々と告げるその横顔を見て、わたしはごくりと喉を鳴らした。
「でも、アードの代理ってことは、これからは……」
わたしの言葉に、アゼレアが目を合わせ頷く。
「お前の責務だ」
きっぱりと言い切られて、ずしりと肩に重圧がのしかかった。
軽い気持ちで「守りたい」なんて言ってきたけれど、実際にはこういう厳しい現実と向き合わなきゃならない。
報告書をもう一度見つめる。
北西、南、東――方角だけで書かれた地名のない記録が、じわじわと迫ってくる。
「……わたしも、知らなきゃいけないんだね」
小さく呟いた言葉に、マテオも深く頷いた。
◇ ◆ ◇
アゼレアが椅子に深く腰を下ろし、腕を組んだ。
「今までは私と部下たちで処理してきた。だがもう一年だ――やってみろ」
その言葉に、再び胸がどくんと跳ねる。
……でも逃げたくない。
どこかそんな気持ちに駆られて、わたしはこくりと頷いた。
「……うん」
報告書をもう一度開いて、震える指で行を追う。
北西の村、南の農地……そこに書かれている魔獣は『討伐済み』と印がついていた。
「じゃあ、この北西と南は、もう片付いたっと……」
小さく息をついて、視線を次の行へ移す。
気になる点はひとつ。
東だけ、討伐済みの記載がない。
「東は? 東の森沿いはどうなってるの?」
わたしの問いかけに、マテオが頷く。
「魔獣三頭を処理しました――ウルフイーターです」
ごくりと息を呑む。
森の狼たちを喰らう、凶暴な魔獣だ。
聞いただけで、背中が強張る。
マテオはさらに報告書の一文を指で押さえた。
「ただし、足跡の数から見て、まだ複数体が潜んでいる可能性があり、現在、調査中です」
「ねぇ……それってわたしが、見に行くことは可能?」
思わず口からこぼれた言葉に、アゼレアはすぐさま首を横に振った。
「無理だ」
きっぱりした声音に、胸がちくりと痛む。
でも、そのときマテオが控えめに口を開いた。
「本来はアードが部下を率いて向かうものです。ですが代理殿は平民、そのうえ、まだ幼い……現地視察は危険が大きすぎます」
正論。
頭ではわかってる。
けれど、胸の奥のざわざわが収まらなくて、わたしはつい言い返していた。
「でも、それって代理のお仕事なんでしょ? ここで行かなかったら、所詮平民の代理って言われるだけじゃない?」
マテオの眉がぎゅっと寄り、苦い顔になった。
叱られる覚悟で見上げたけれど、彼は何も言えずに口をつぐんだ。
でも、その眼差しは、わたしの身を案じているのがよくわかる。
「……何も現地に行けと言ってるのではない」
それを見かねたのか、アゼレアが口を挟む。
「部下を使って解決すればいい。それが代理の務めだ」
「それは、そうだけど……」
わたしは俯いて唇を噛む。
「結果として魔獣の被害を抑えているのならば、問題ないだろう?」
「……それも、そうだけど……」
納得できなくて、つい小さな声で返してしまう。
アゼレアはそんなわたしを見て、困ったように眉尻を下げた。
そして、少しだけ優しい目をして――。
「……頑固者め」
その一言に、胸がきゅっと熱くなる。
アゼレアは視線をマテオへ向けた。
「マテオ、エルネストを護衛につけろ」
「承知しました」
短く答えるマテオの声が、執務室に静かに響いた。
アゼレアは改めてわたしの方へ向き直り、手を伸ばして頭を優しく撫でる。
「気をつけろよ」
「うん」
不安もあるし、緊張もする。
それでもわたしは、大きく息を吸い込んで勢いよく宣言した。
「――行ってくる!」
◇ ◆ ◇
支度を整えたわたしは、ロエナを連れて屋敷を出た。
朝の空気はひんやりしていて、緊張で強張った心を少しだけ和らげてくれる。
門を抜けると、すでに用意された馬車が待っていた。
その横に立っていたマテオが、こちらに歩み寄る。
「代理殿」
軽く会釈をしてから、マテオは後ろに控えていた黒衣の男に目をやった。
「こちらはエルネスト。アゼレア様直属の部下で、今回の護衛を務めます」
……あっ、この人。
その姿には見覚えがあった。
アゼレアに誘拐された時、馬車の中にいた男性だ。
がっしりとした体格で背の高い男が、一歩前に出る。
黒髪、黒目。三十代半ばくらいだろうか。
全身を黒で固めた姿は重々しく、顔つきも険しい。
でも、その仕草はきわめて丁寧で、膝を折って深く頭を下げた。
「……」
無言のまま、ただ静かに礼をするその姿に、思わずまばたきをする。
「よ、よろしくお願いします……?」
恐る恐る声をかけると、エルネストはほんの一瞬だけこちらを見て――。
「……御意」
低く、短い声で頷いた。
馬車はぎしぎしと揺れながら、トバルの東へと進んでいった。
窓の外に広がるのは、収穫を終えた畑。
刈り取られた藁の束が点々と並び、風にかすかに揺れている。
「もう、すっかり収穫も終わりなんだね」
つい呟くと、隣に座るロエナが笑顔で頷いた。
向かいに座るエルネストは、背筋をぴんと伸ばしたまま、視線を外へ向けている。
やがて街道に入り、両脇を畑が遠ざかっていく。
その途中、小さな家が数軒寄り集まっただけの、名もない村を通り過ぎた。
軒先に干された藁や、庭先で遊ぶ子どもたちが目に入る。
「ねぇ、あの村って……名前あるの?」
何気なく尋ねてみたけれど、返ってきたのは低い声ひとつ。
「……存じません」
「へ、へぇ~」
……話題を間違えたか。
馬車はそのまま林道へ入り、木々の間を抜けていく。
差し込む木漏れ日が、車内をちらちらと明るくした。
林道に入っても、しばらく車輪の音だけが響いていた。
なんだか気まずくて、わたしはもう一度口を開いた。
「ねぇ、エルネストって普段は何してるの?」
「警護です」
それっきり。
短く、切り捨てるような答え。
「そ、それだけ?」
「はい」
……手強い。
やっぱり会話が続かない。
その様子に、ロエナが肩を震わせて笑っている。
ロエナが、目で頑張れと言っているのがわかる。
負けじと、わたしはもう一つ質問をぶつけた。
「じゃあ、好きな食べ物は?」
ほんの一瞬だけ沈黙。
そして、低い声が返ってきた。
「……存じません」
「知らないの!?」
思わずツッコんだ声を上げると、ロエナがとうとう吹き出してしまった。
その横でエルネストは、やっぱり表情を変えないまま、窓の外の森を見続けていた。
……アゼレア、彼は本当に大丈夫なの?




