70話 思う想い ~その手が求めるなら~
帳簿に目を落としながら、筆を小さく走らせる。
文字を並べる手元は淡々としているのに、意識のどこかでは別の景色がちらついていた。
……今頃、あいつは家族と再会しているだろうな。
胸の奥に冷たい痛みが広がる。
引き裂かれた家族の痛み。
それを埋めるには、どれほどの時間と覚悟が必要なのか。自分には、到底想像もつかない。
けれど――あの幼子は、決して挫けなかった。
自分を失いそうな状況でもなお、ルルーナは立ち上がり続けた。
私の心を救い、部下を守り、そして孤児にすら手を差し伸べた。
疑問は尽きない。
どうして、あの歳で……。
たった五歳。
それなのに、感情の切り替え、相手を見抜く眼差し、理解力。どこをどう切り取っても、子供らしさだけでは説明できない。
幼さを残しつつも、思考は鋭く、言葉はよく練られ、状況を正確に把握する力を持っていた。
分析すればするほど答えは遠ざかり、結論など出やしない。
だが、一つだけははっきりしている。
彼女が私を救った――それは紛れもない事実だ。
小さな手に握られていたのは、ただの気まぐれではない。
自分に差し伸べられた善意。
誰にも縛られない純粋な意思。
この借りを返せるだろうか。
いや、返せなかったとしても――。
……必要とされる限り、私はこの力を振るおう。
心の奥でそっと誓いを新たにしたそのとき、扉を叩く音が静寂を破った。
「アゼレア様。ルルーナ様と……エステラ様がお見えです」
執務机の上で筆を止める。
小さく息を整え、瞼を閉じてから答えた。
「……通しなさい」
◇ ◆ ◇
扉が静かに開き、先に小柄な影が顔を出す。
……なんでお前が様子を伺っているんだ。
淡い黒髪が光を受け、瞳は相変わらず真っ直ぐだった。その後ろに、緊張に肩をすくめた少女――エステラが控えていた。
「ご苦労。下がっていい」
案内のロエナを下がらせる。
静かに扉が閉じられ、執務室に残ったのは三人だけ。
途端に空気が張りつめる。
ルルーナはためらいなく歩み寄り、机の前で足を止めた。
……お前のそういうところだ。
誰も恐れない眼差しで、当然のように私と視線を合わせてくる。
対して、隣のエステラは小さく息を飲み、視線を落としたまま。
これが――妹を思って突き動かされる、まだ未熟な姉の姿か。
……さて……どう切り出すか。
沈黙を破ったのは、エステラだった。
顔を上げることなく、机の前で深く頭を垂れる。
「……ごめんなさい。それと、ありがとうございました」
小さく、けれど震える声。
この場で最初に発した言葉がそれか――悪くない。
「何に対して?」
わざと冷たく問い返す。
エステラの肩がぴくりと揺れ、唇が震えた。
「ルルーナも、アイナも……助けられなかった。あの時、私は……何もできなかった」
エステラは自分の無力を悔いている。
必死に絞り出す声は、見ていて胸が詰まるほどの不器用さが滲んでいた。
「確かに無力だったわね」
「……っ」
短い言葉に、エステラは強く目を閉じる。
わざと突き刺すように言った。
だが本当に伝えたいのは――。
「けれど、無力さを知ってなおも歩き出す者は、何より強い」
そう告げるとエステラは、はっと顔を上げた。
エステラの瞳が揺れ、必死に言葉を探している。
その横でルルーナが笑みを浮かべて口を挟む。
「だから大丈夫だよ、お姉ちゃん。アゼレアは怖そうに見えるけど、ちゃんと見てくれてる人だから」
「おい……」
思わず眉をひそめる。
……本当にお前は、どうしてそうあっけらかんと真実を口にするんだ。
けれど――エステラの強張った表情が少し緩んだのを見て、追及する気は失せた。
だが、エステラは再び視線を落とし、唇を強く噛んでいた。
言葉を探しているというより、己の胸の奥を必死に押さえ込んでいるように見える。
「……私、あの時……何も分かってなかった」
ぽつりと零れた声は、思いのほか生々しい。
拳を握りしめ、爪が食い込んでいるのも構わずに続ける。
「ルルーナを守るなんて口で言って……結局は軽率に動いただけ。状況も相手の力も、何一つ見えていなかった。だから……」
「……お姉ちゃん」
悔しさに喉が詰まるのか、声がかすれ、肩が震えている。
視線を上げようとしないその姿に、嘘偽りの気配はなかった。
しばし沈黙が落ちた。
私は机に指を軽く置き、ゆっくりと口を開いた。
「……それでも、立ち向かおうとした。守ろうとした心は、本物だった」
エステラが顔を上げる。
驚きと戸惑いが混ざった瞳。
そこに私はあえて言葉を重ねる。
「だけど――守りたい気持ちだけでは足りない」
エステラの瞳が揺れるのを見届け、声の調子を低くする。
「状況を読む力。退く勇気。時に誰かに助けを求める冷静さ。どれも欠ければ、守りたいものを守るどころか、自分ごと潰される」
その言葉にエステラは唇を軽く噛んだ。
だが、逃げずに視線をこちらへ向けている。
……そうだ。その目は嫌いじゃない。
未熟で、拙くて、だが確かに前へ進もうとする者の目だ。
「いい、エステラ」
名を呼ぶと、エステラはびくりと身を震わせた。
けれど、目は逸らさない。
「私は、あなたをまだ子供だと思っている。でも――その心を笑う気はない」
エステラの瞳がわずかに揺れる。
安堵と驚きが入り混じった色。
「未熟なら磨けばいい。無力なら積み重ねればいい……それができる者だけが、本当に強くなれる」
エステラは唇を結び、深く頷いた。
声にはならなくても、その仕草だけで十分だった。
「ふん……まあ、次は私に余計な手間をかけさせないでよ」
わざとぶっきらぼうに言い放つと、ルルーナがくすりと笑った。
「それって、期待してるってことだよね? アゼレア」
「……お前な」
たまらず小さな息が漏れる。
だが、二人の姉妹が並んで立つ姿を前にして、口元の硬さが少しだけ緩んだのを自覚した。
エステラはしばらく黙ったまま、握りしめた拳を震わせていた。
やがて深く息を吸い込み、はっきりと頷く。
「……はい。次は……必ず」
短い言葉だが、そこに迷いはなかった。
その声音を聞きながら、私は胸の奥でわずかに肩の力を抜く。
ルルーナが満足げに姉の手を取った。
「ほらね。お姉ちゃんはもう前に進める」
エステラは驚いたようにルルーナを見下ろし、そして小さく笑った。
その笑みはまだぎこちないが、さっきまでの影を少しずつ押しのけている。
……まったく。お前は本当に、どうしてこうやって人を救う。
私は視線をそらし、机の上の筆に触れた。
仕事の手を止めたまま、長く話しすぎた。
「――用件は済んだはずよ」
そう告げると、二人は同時にこちらへ向き直り、深く頭を下げた。
二人が笑顔で退出していくのを見送る。
扉が閉まったあとも、室内には微かに笑い声の余韻が残っている気がした。
……不思議ね。あれほど重く張り詰めていた空気が、こうも容易く和らぐなんて。
と、間を置かずに再び扉が叩かれる。
「入れ」
声をかけると、姿を現したのはライアットだった。
私の前に進み出るや否や、片膝をついて頭を垂れる。
「……娘を救ってくださったこと、深く感謝申し上げます」
私はわずかに眉を寄せる。
「やめろ。私はもうアードではない。そんな礼は受ける立場にない」
しかし彼は顔を上げず、静かに言葉を返した。
「では――」
立ち上がると、今度は一歩下がり、優雅な一礼を見せる。
動作は流れるようで淀みがなく、紛れもなく高位貴族に仕える者の所作だった。
……平民にしては随分と綺麗な礼ね。
やはり、ルルーナの周りには面白い人物が多い。
「まずは、父としての礼を……あの子らを救っていただいた」
「違うな。自分で道を切り開いただけだ。私は、たまたまその場にいただけにすぎない」
私の言葉に、ライアットは首を横に振った。
「いいえ。アゼレア殿がいなければ、娘たちの安全はなかった。どんな理由をつけようとも、父として礼を言わねばならない」
父として。
その言葉に胸の奥が微かに疼く。
羨望にも似た感情が、喉の奥に引っかかった。
「……そうか。ならば、感謝は受け取っておこう」
小さく息を吐いて言葉を続ける。
「だが、救われたのは私のほうでもある……あの子に」
口にしてから、自分でも驚いた。
けれどライアットの方が、もっと強く目を見開いていた。
私は視線を逸らし、机に置かれた帳簿へ目を落とす。
「ルルーナの強さは、本物だ……」
ライアットはしばし黙したまま私を見つめ、やがて静かに頷いた。
その眼差しには確信の色が宿っていた。
ライアットは私から視線を外すと、遠いものを見ているような眼差しになった。
やがて口を開いた声は、戦場帰りの武人らしからぬ柔らかさを帯びていた。
「……ルルーナは、昔から妙に賢い子でした。まだ言葉を覚えたばかりの頃から、周りをよく観察して……時に、年寄り顔負けのことを口にする」
ライアットはかすかに笑みを浮かべ、そして顔を曇らせた。
「本当は不気味に思ったこともありました……悪魔憑きかと疑った時期すらあった」
その告白には、親としての苦悩がありありと滲んでいた。
「五歳で家の外へ出すのも、ためらった。守れるうちに閉じ込めておくべきではないか、と……だが、結果は逆でした。あの子は、知らず知らずのうちに関わった者たちを笑顔にしていた」
その言葉に、私は胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
……似ている。
私もまた、同じことを思ったからだ。
「……私もだ」
気づけば、口から零れていた。
「死を覚悟していた私を、まず救ったのはルルーナだった……それから部下に孤児、そしてメネズ派の連中まで。ルルーナは……気づけば周りを笑顔にしていた」
ぽつり、ぽつりと。
思い出すままに言葉を重ねながら、私の胸には確かな実感が広がっていた。
「そうですか……ルルーナが」
ライアットはわずかに頷くと、私を見た。
「そんな娘の手紙に嬉しそうな字で、初めて親友ができたと綴ってありました。アゼレア殿、本当に感謝します」
……あいつは何をやってるんだ。
変な腹の探り合いをしているのが馬鹿馬鹿しくなってきた。
私はため息をつき、椅子の背にもたれた。
「……まったく。あいつは余計な事を」
私の呟きに、ライアットがわずかに笑みを見せる。
それは戦士としての顔ではなく、ただ娘を信じる父の顔だった。
「けれど――だからこそ、あの子を託せると思うのです」
その言葉に、私は何を勝手な事をと目を細めた。
「託す……だと?」
「ええ。ルルーナは私の手を離れ、広い世界へ歩いていく。その時、私には守りきれない場が必ずある。だから……あなたのような人に傍にいてほしい」
その声音に迷いはなかった。
父としての覚悟があった。
父親としての本音を吐露することが、どれほどの勇気を要するか。
私でも分かる。
「……随分と勝手な願いを言うものだな」
口元を歪めてみせる。
ライアットは苦笑したが、続く言葉に私も納得せざるを得なかった。
「現実は私の願いとは関係なく進みます……アゼレア殿、オルディナート様からの伝言です」
その名を聞いた瞬間、私は無意識に姿勢を正す。
「聞こう」
「本来の用途は人体実験にあらず。東の動向に注意せよ。ルルーナは任せると」
……なるほど。
つまり、叔父上の暴走した結果だったと。
私を出し抜こうと、成人を迎える前に実権を握りたい一心で、禁制品にまで手を伸ばした。奴らの薬を利用してやるなどと考えたのだろうが、結局、全て失敗に終わった。
私は理解した。
上級貴族からの指示。
そして、首を横に振れない父親。
せめて、託す相手を自分の目で確かめようとしたのかと。
「そうか。ライアット……父親の目にはどう映った?」
ライアットが深く頭を下げる。
「アゼレア殿、娘をどうかよろしくお願いします」
本来であれば、託すなど笑い飛ばすところだが、その願いを否定することが私にはできなかった。
「安心しろ。あの小さな友に必要とされている限り、力は貸す」
ライアットの瞳が大きく揺れた。
私が胸の内を口にしたことに、本気で驚いているのだろう。
口にしてみれば、妙に柔らかい響きだと自分でも思った。
……だがそれでいい。
互いにほんの一端でも心を見せたことで、ライアットは確信したはずだ。
ルルーナを思う私の気持ちが本物だということを。
ライアットは深く息を吐き、父として安堵の色を瞳に宿した。
ライアットが深く頭を下げて去っていく。
扉が閉じると、執務室には静けさが戻った。
しばらくして、控えめなノックが響く。
「入れ」
ひょこりと顔を出し、入ってきたのはルルーナだった。
私の小さな友。
私が、ただの少女でいられる存在。
小さな足取りでこちらに歩み寄る。
「……もういいの?」
「うん。お姉ちゃんはすぐサンドレアムに戻るって。仕事だからしょうがないよね」
あっけらかんと言ってのけるその様子に、私は目を細めた。
……そういうところが、五歳児じゃないのよ。
「……なに? じっと見つめて」
「いや、変なやつだなと思って」
「ちょっと、それは聞き捨てならないわ」
口を尖らせて何を言っているのか。
「間違ってはいないでしょう? 五歳児がそんな納得の仕方はしないわ」
ルルーナは一瞬きょとんとして、それからクスっと笑った。
「それもそっか」
ルルーナの言葉に、私も思わず口元を緩める。
気づけば、互いに笑い合っていた。
「ほら、夕食の準備出来たんだから、行くよ」
そう言って返事も聞かず、ルルーナは私の手を取った。
……まったく、もぅ。
身勝手な行いなのに、嫌な気が全くしない。
無邪気に笑うルルーナ。
その小さく温かい手に引かれるまま、執務室を出る。
その時――ふわりとツツジの花の香りが、鼻の奥をくすぐった。
懐かしい香りに、邸の中庭で父と過ごした記憶が蘇る。
記憶の中の父が笑うと、誰かが私の頭を優しく撫でた気がした。
――第一部完――
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