67話 自分にできること ~守るために~
あれから日が過ぎても、胸の奥の後悔は消えなかった。
ルルーナがトバルに連れ去られたあの日からずっと、心の奥で疼き続けている。
黒曜石をめぐる一件――私とアイナで所長に相談に行った日のことを思い返す。
そのとき所長は、淡々と真実を告げただけだった。
けれど最後にこちらへ向けられた鋭い視線と一言が、胸に深く突き刺さったままだ。
――「軽率だな」
短い一言だった。
反論できなかった。わかっていたから。
わかっていても、悔しかった。
情けなくて、ただ唇を噛むしかなかった。
ルルーナは今、遠くトバルで必死に頑張っている。
あの小さな妹が、誰よりも背筋を伸ばして、町を背負おうとしている。
だったら――姉の私が立ち止まっていていいはずがない。
「……私も、もっと強くならなきゃ」
でもその言葉が、空回りにしか聞こえない――そんな自分が悔しかった。
小さく呟いた声は、森に吸い込まれていった。
冷たい風に髪を揺らしながら、私は剣を握り直す。
今日もまた、ライアットとの訓練が始まる。
◇ ◆ ◇
朝の森はまだ冷たい空気に包まれていた。
けれど、その冷たさの奥に、ほんのりと柔らかい匂いが混じっている。
雪解け水が土を潤し、ぬかるんだ地面からは湿気が立ちのぼっていた。
白く覆っていた雪はところどころで割れ、苔の緑や若草の芽吹きが顔を覗かせている。
春が近い――そう思わせる風景だった。
「……構えが甘いぞ、エステラ」
ライアットの低い声が背筋を叩く。
私は慌てて足の位置を直し、剣を握り直した。
冷たい風に頬を刺されるたび、心臓がドクンッと跳ねる。
何度やってもライアットの間合いには届かない。
振り下ろす剣は軽く受け止められ、返される一撃はずしりと腕に響いた。
「まだ雑だ。力に任せているうちは通用せん」
「わかってる……っ!」
悔しさで歯を食いしばる。
それでも、退く気はなかった。
剣を振り抜きながら、土に踏み込んだ足に水がはねた。
冷たさに一瞬息を呑む。
けれど、次の瞬間にはさらに踏み込んでいた。
森の奥では、雪解けの小川がせせらぎを立てている。
その音をかき消すように、鍔鳴りとライアットの声が響いた。
何度も打ち込んでは弾かれ、息が荒くなっていく。
とうとうライアットが手を挙げて合図した。
「……休憩だ」
その一言で剣を下ろし、切り株に腰を下ろす。
胸が上下し、冷たい空気を吸うたびに肺が焼けるようだった。
手のひらに滲む汗を拭いながら、ふと頭に浮かんだのは、あの日、所長に突きつけられた冷たい指摘。
――「君は状況を見ていない」
胸の奥がちくりと痛む。
あのときはただ悔しさと情けなさで、言葉を飲み込むしかなかった。
だが今は違う。
落ち着いて振り返れば、確かにその通りだと分かる。
敵の目的も、数も、戦力も。
何ひとつ見えていなかった。
ただ、守りたいと衝動だけで動く――そんなのは子供の戦い方だ。
「……はぁ」
深いため息をつき、剣の切っ先で土をつつく。
雪解けの泥がじわりと染み出してきて、靴の先を汚した。
所長の言葉は厳しかった。
けれど、自分に足りないものをしっかりと示してくれていた。
だったら――。
……このままじゃ、いけない。
拳を握り、喉の渇きを癒やそうとライアットと並んで小川へ向かう。
雪解け水を集めた流れは澄んでいて、春の兆しを運ぶようにきらきらと光っていた。
けれど、しゃがみこんだライアットが手を止めた。
流れの端に、黒ずんだ塊が絡みついている。
「……こりゃ、なんだ」
指先で拾い上げたそれは、動物の毛だった。
だが色艶を失い、焦げたように黒ずんでいる。
ただの野生獣の毛ではない。
異様な気配が漂っていた。
「エステラ、水はやめておけ。念のためだ」
低く抑えた声に、背筋が強張る。
私は頷き、汲みかけた水筒を腰に戻した。
ライアットは毛を川辺の石に置き、ゆっくりと立ち上がった。
そして周囲を静かに見回す。
土に膝をつき、指でぬかるみをなぞる。
雪解けの泥に、蹄とも爪ともつかぬ痕が乱れていた。
鼻を近づけて、深く息を吸う。
「……血と薬草のような匂いだな」
短く呟いたその声に、自然と私の思考が切り替わる。
耳を澄まし、周囲を探る。
ただの野生獣の痕跡じゃない。
もっと不穏な、なにか。
ライアットの目が川上へと鋭く向けられた。
「エステラ、川上を見ろ」
問われた瞬間、身体が先に動いていた。
「わかったっ!」
すぐそばの大木に駆け寄り、身体強化を発動させる。
ぎゅっと靴底に力を込めて幹を蹴り、一気に枝へ飛び上がった。
次の枝、さらにその上――。息を切らしながらも、一気に梢近くまで登る。
冷たい風が髪をかき乱した。
梢から見下ろす川上は、まだ薄靄に包まれている。
流れの奥へと視線を伸ばすが――よく見えない。
「……っ」
深く息を吸い、身体強化をさらに巡らせる。
全身を緊張させ、目に力を込めると、遠くの景色が少しずつ鮮明になっていった。
雪解けの川沿いに、わずかに開けた場所がある。
そこに――黒い塊が横たわっていた。
「……死骸?」
倒れた獣のように見える。けど、動かない。
その周囲を見渡しても、他に獣の姿はなかった。
血の匂いを感じるような錯覚に、思わず喉が鳴る。
さらに奥へと目を凝らすと、岩肌に口を開いた洞穴が見えた。
中は暗くてわからない。
けれど、ただの穴ではない気配がする。
ごくりと唾を飲み込み、私は木から降り始めた。
幹を蹴り、枝を伝い、やがて土に着地する。
「父さん!」
駆け寄って報告する。
「少し開けた場所に、獣の死骸らしきものが倒れてた! 動いてなかったし、周りには他に獣もいなかった。でも……奥に洞穴が見えた。中はわからない」
ライアットは目を細め、顎に手を当てた。
拾った毛先をもう一度見やり、静かに頷く。
「……そうか。やはり、ただの獣じゃなさそうだな」
ライアットは黙り込んだまま、小川の流れと、私とを交互に見やった。
その目には、父親としての迷いと、戦士としての冷徹さが入り混じっているように見える。
「……エステラ」
低い声で名を呼ばれ、背筋が伸びる。
「今から向かう先は、ただの狩りじゃない。場合によっては命を落とす危険がある」
空気がピンと張り詰めた。
声に戦士の圧がある。
無表情に見えるライアットは、普段の様子ではない。
気圧されそうになるのを必死に堪え、唇をかみしめて言葉を返す。
「……行く」
ライアットの瞳が鋭く光る。
試すように、もう一度問いかけられる。
「恐れずに言うか。いいか、これは遊びでも鍛錬でもない。本物の死地に足を踏み入れることになるぞ」
喉が乾く。
けれど、視線を逸らさずに答えた。
「……それでも、行きます」
一瞬だけ、ライアットの目が細められた。
次に口を開いたとき、その声音は父親ではなく、隊を率いる者だった。
「……ここからは上司と部下だ。余計な口を挟むな。俺の指示に従え」
鋼のような言葉が胸に突き刺さる。
私は大きく息を吸い込み、しっかりと頷いた。
「はい!」
返事をした途端、ライアットの顔から迷いが消え、戦士の気配が満ちる。
私は剣の柄を握り直し、その背中を追う覚悟を固めた。
◇ ◆ ◇
森の中は、雪解け水の滴る音だけが響いていた。
鳥のさえずりもなく、枝葉を揺らす風すら感じない。
その静けさは、かえって不気味だった。
ライアットは一歩ごとに地面を確かめるように進む。
目を凝らし、耳を澄まし、鼻で空気を嗅ぎながら痕跡を拾っていく。
時折屈みこんでは、泥に刻まれた爪痕や、枝に付着した黒ずんだ毛を指先でなぞった。
……こんな細かいものまで。
ライアットの背中に食らいつきながら、改めてその技量に息を呑む。
ドクン、ドクンと心臓が耳元でうるさい。
私は、落ち葉を踏む音すら憚られるほどの緊張に包まれていた。
それでも、必死にライアットの足取りを追う。
「……ここだな」
ライアットが立ち止まった。
彼の視線の先、雪解けで開けた地面に黒い塊が横たわっている。
近付くと、やはり獣の死骸だった。
皮膚はところどころ裂け、口元には泡のような血が固まっている。
体毛はまだらに黒く変色し、鼻をつく異臭を放っていた。
吐き気をぐっと堪える。
けれど視線を逸らさず、目に焼きつけた。
死骸の先――木立の間に口を開いた暗い影がある。
岩肌に穿たれた洞穴。奥は暗くて見えない。
私は思わず、ごくりと唾を飲んだ。
「エステラ、周囲を警戒しろ」
ライアットの短い指示に「はい」と返事をして、剣を抜く。
私は息を潜め、洞穴の周辺に目を配る。
森はしんと静まり返っていて、風に枝が軋む音さえ不吉に聞こえた。
その間に、ライアットは獣の死骸へと近付いていく。
膝をつき、腹部を裂かれた傷口に手をかざした。
「……食いちぎられた痕だな。だが、噛み跡の幅が大きすぎる」
血に濡れた毛皮をめくり、顎の大きさを確かめる。
そして低く断言した。
「狼じゃない。ウルフイーターでも、この大きさにはならん」
ぞくりと背筋が冷える。
なら、この獣を死に至らしめたのは……。
ライアットはさらに血の跡を辿るように指を走らせ、洞穴の方へと視線を向けた。
入り口から奥へ――赤黒いしみが続いている。
「……やはり、中だな」
そう言って立ち上がると、ライアットは振り返り、真っ直ぐに私を見た。
「エステラ。覚悟はいいか」
鼓動が速くなる。
喉がからからに乾いていく。
それでも、唇をきゅっと結び、強く頷く。
「……はい」
ライアットもわずかに口元を引き締め、頷いた。
「行くぞ」
その声に続き、私たちは洞穴へと足を踏み入れた。




