64話 誇りの行方 ~枷にはならない~
どれほど泣き続けただろうか。
ようやく呼吸が整った頃、アゼレアがわたしの肩を軽く叩いた。
「……もう。服がぐちゃぐちゃじゃない」
冗談めかすような声音。
それを聞いた途端、胸の奥にまだくすぶっていた涙が、少しだけ和らいだ。
「だって……だって、どうして……! どうやって戻ってこれたの? 処刑されたはずじゃ……! 誰が助けて、どうやって、なんで、どうして――」
堰を切ったように矢継ぎ早に問いをぶつける。
けれどアゼレアは「まぁ、待て」と低く制し、周りを見渡した。
いつの間にか、庭の周囲に人だかりができていた。
わたしの泣き声に気づいて駆けつけた者たち。
そこに立ち尽くす顔は様々だった。
呆然と目を見開き、言葉を失っている者。
嗚咽を堪えきれず、顔を覆って泣き崩れる者。
唇を強く噛みしめ、必死に涙をこらえている者。
アゼレアの帰還を待ち望んだ部下たちが、目の前に立つ姿をただ見つめていた。
「……まずは、挨拶してやらんとな」
アゼレアが小さく息をつき、口元に笑みを浮かべる。
その言葉に、わたしはっとした。
……そうだ。辛かったのはわたしだけじゃない。
アゼレアを失って苦しんでいたのは、こんなにも大勢いたのだ。
涙で霞む視界の向こうで、皆が彼女を見つめている。
わたしは初めて、自分の背負っているものの大きさを実感していた。
◇ ◆ ◇
アゼレアの表情がすぅっと変わった。
先ほどまでの柔らかさを消し、そこに宿ったのは――トバルの統治者としての、あの威厳ある顔つき。
「皆……心配をかけたな」
低く響く声に、集まった者たちの喉が一斉に鳴った。
アゼレアはゆっくりと歩み出て、まずは深く頭を下げた。
「今、私の命がここにあるのは、バニア・サンドレアムの恩情によるものだ。本来であれば、極刑は免れなかった」
その言葉に、少なからず驚きが広がるのがわかる。
「バニアが……?」
「領主様が……?」
アゼレアがゆっくり見渡すと、次第に皆のざわめきは小さくなる。
俯いていた者たちも顔を上げ、続く言葉を待っていた。
「バニアはメネズの悪行を全てご存じであった。そのため、これに協力した私の助命をお考えくださった……しかし、ただ助命しただけでは、貴族たちが納得するはずもない」
一拍置いて、アゼレアは視線を鋭くし、わたしの肩へ手を置いた。
「そこで――私を、このルルーナの下につけることで、貴族たちを抑え込んだ。その慧眼は、まこと素晴らしい」
部下たちが驚愕の表情で見合わせた。
「代理殿の下……?」
「平民の……子供の下に、アゼレア様が……」
不安の声が漏れる。
皆、動揺が隠せなかった。
しかし、アゼレアの眼差しは一切揺れず、真っ直ぐに見つめる。
「勘違いをするな。元より私は命を失うはずだった。その命を繋いでくださったバニアに、感謝こそすれ、批判など決して許さぬ」
凛とした声音に、ざわつきがぴたりと止んだ。
「私はこれより、このルルーナと共に歩む。これは血の契約に従い、絶対である」
先程とは比べようのない、どよめきが起きた。
「血の契約!」
「そんな……」
だが、そんな中、アゼレアは高らかに言い放つ。
「静まれ! これは私が決めたことだ。これより先、それでも付いてくるならば止めはせぬ。しかし……去るのもまた自由だ」
沈黙が落ちた。
誰もが互いの顔を見合い、息を呑む。
やがて――マテオが一歩前に進み出ると、片膝をつき、深々と頭を垂れた。
「これより、ルルーナ様を主と仰ぎ、支えていく所存です。そこにアゼレア様がおられるのであれば……我らは迷う理由がございません」
その声を合図にしたかのように、庭にいた者たちが一斉にひざまずいた。
嗚咽とともに、忠誠を誓う声が次々に重なる。
アゼレアはしばし黙して皆を見渡すと、静かに目を伏せた。
「……そうか。すまぬな」
短く、けれど心からの一言だった。
◇ ◆ ◇
歓声と嗚咽に包まれる庭をあとにし、わたしたちは責任者室へと戻っていた。
歩きながらも胸の鼓動は収まらず、頭の中は先ほどの血の契約という言葉でいっぱいだった。
わたしの知るそれは、親子の印だったはず。
しかし、先程の周りの様子を見れば、只事じゃないのだけはわかった。
「あの……アゼレア。血の契約って……」
問いかける声は、自分でも驚くほどかすれていた。
アゼレアは一瞬だけ視線を伏せ、すぐに前を見据えて歩みを続けた。
「……それを語ることはできないわ。内容を口にした時点で、私の命は砕け散る仕組みだから」
思わず「えっ……!」と、立ち止まる。
胸の奥が冷たくなり、先ほどまでの喜びが一瞬で揺らぐ。
「じゃ、じゃあ……もし間違えて話してしまったら……!」
不安に駆られて畳みかけるように言うと、アゼレアは振り返り、苦笑を浮かべた。
「心配はいらないわ。これは、私にとって何の制約にもならない。形だけの契約よ」
「……ほんとうに?」
アゼレアが優しく微笑んだ。
「もちろん。お前を不安にさせるためのものではない。むしろ、お前を守るための仕組みだと思えばいい」
あなたではなく、お前。
裏も飾りもない言葉だと、わたしには分かった。
柔らかな声音に、胸の奥の不安が少しだけ和らいだ。
けれど完全には拭えず、わたしはぎゅっと衣の裾を握りしめる。
……形だけだって言ってくれた。信じよう。信じていいんだ。
そう自分に言い聞かせながら、わたしはアゼレアの背を追いかけて歩き出した
責任者室に戻ると、机の上には積み上げられた書類が待ち構えていた。
わたしは椅子に腰を下ろす。
インク壺の蓋を外しながら、隣に座るアゼレアへと問いかけた。
「……結局、わたしの下ってどういうこと?」
筆を手にしたまま見上げると、アゼレアは肩をすくめて笑った。
「私はもう、アゼレア・トバルではなく、ただのアゼレアになった、ということね」
「……?」
わたしが首を傾げると、アゼレアは机に手を置き、静かに言葉を続けた。
「確かに私は上級貴族よ。だけど、そこにアードとしての統治権を行使する力も継承権もない。今の私は……ただの上級貴族アゼレアに過ぎないわ」
「つまり……わたしの方が偉いってこと?」
思わず聞き返すと、アゼレアは口元を緩め、愉快そうに笑った。
「そう。限定的に私とお前の立場だけ見れば、そういうことになるわ」
「……ほかの貴族から見たら?」
「平民の……それも子供の奴隷になった上級貴族、というふうに映るわね」
くすりと笑うアゼレア。
けれどその答えに、わたしの胸は再び重くなる。
「そ、それじゃあ……やっぱり、わたしのせいで……」
不安が滲む声に、アゼレアは首を振った。
「心配はいらないわ。むしろ都合がいいくらい」
「……そうなの?」
「そう思う者ほど、態度に本性が出やすい。敵か味方か、一目でわかるようになる」
にやりと笑うその横顔に、不思議と不安が溶けていく。
……やっぱりアゼレアは強い。だからわたしも、信じて進まなきゃ。
そう思いながら、わたしは再び筆を取り、机の上の書類に向き合った。
「ほら、やることは多いぞ」
「……けど、これってどう説明しようか?」
わたしが書類の山を指さすと、アゼレアはすっと目を細めた。
「説明の前に、やることがあるだろう?」
「うん?」
首を傾げるわたしに、アゼレアは鋭い光を宿した瞳を向ける。
「まずは――貴族の誇りを忘れたメネズ派の目を、覚まさせねばな」
その言葉に、部屋の空気がわずかに張りつめた。
わたしは思わず背筋を伸ばし、深く息を吸った。
時間をかけていられないので、同時進行するとアゼレアは言った。
まずはマテオに言って、資料を机の上に移動させてもらうと、わたしは「よいしょ」と、分厚い資料を開く。
資料の内容を確認だ。
千歯扱き――この資料には、その詳細が書かれている。
「まずは、これを……」
わたしはページを繰りながら声に出して読み上げた。
「棒打ち脱穀だと、一人で一日に処理できるのはせいぜい稲の一、二束……」
アゼレアが黙って頷き、続きを促す。
「でも千歯扱きだと、一人で一日に百束、単純計算で少なく見ても、稲の場合は約五倍から十倍。小麦の場合は約四倍から六倍以上。しかも腕力に頼らず、誰でも一定の効率で作業できる。これは……すごいね」
読み上げながら、自分の声が熱を帯びているのを感じた。
……稲ってことは、お米もあるんだ。
横目で見ると、アゼレアは静かに聞き入っている。
「これなら、農家の人たちにとっても大助かりだと思う。きっと、メネズ派の人たちだって反対できないはず」
「そうね。これに反対する馬鹿はいないわね――私もそう思うわ」
アゼレアが頷く。
けれど、疑念が拭えずわたしは尋ねた。
「……もし、それでも反対したら?」
アゼレアの口の端がわずかに上がる。
「大丈夫よ。そのときは私が言ってやるわ。ここまで説明されて反対するのは、もはや貴族ではないわ」
吐き捨てるような声音に、思わず身震いした。
メネズ派を徹底的に叩き潰すつもりだろうか。
……お手柔らかにね。一応、犯罪には加担してないんだから。
心の中でそっと付け加える。
会議へ向かう直前、アゼレアがふいに足を止めた。
アゼレアが何か呟き、指先で髪を払うと、オレンジゴールドの輝きがすっと消え、漆黒に染まっていく。
「……っ!? な、なにそれ……!」
驚き、声を上げるわたしに、アゼレアは小さく笑った。
「幻惑魔法――公の場では禁じられているけれど、今回は身内の会議。問題はないわ」
「……公じゃないから大丈夫ってことね」
ひとまず頷いたけれど、心の中で小さく呟く。
……逆に、公の場じゃ絶対使えないんだね。
「ルルーナ、行くぞ……」
アゼレアの雰囲気がガラリと変わる。
彼女の「任せろ」という眼差しに、またしても心強さを感じていた。




