63話 報せ ~涙が枯れる日~
昼食を終え、責任者室に戻ったとき、ようやく深く息をつくことができた。
黒衣の部下たちの説得は、ひとまず成功だ。
彼らはすぐには戻らなかったが、孤児を守るという目的を通じて、政務に加わる余地を示してくれた。
……でも、まだ足りない……。
黒衣の部下たちでは、政務を動かすには人が少なすぎる。
どうしても――アゼレアの元部下たちを呼び戻さなければならない。
しかし、それを聞いて急遽会議室に集まったのは、処罰を免れたメネズ派の政務官たちだった。
彼らの顔には一様に不満が浮かんでいる。
「アゼレアの元部下を政務に戻すなど、とんでもない!」
「裏切り者と机を並べろと? 納得できるわけがない!」
反発の声が一斉に上がり、会議室は蜂の巣を突いたような騒ぎとなった。
けれど、わたしは一歩も引かずに声を張り上げる。
「――今の政務は、人が圧倒的に足りていません!」
場がざわりと揺れる。
わたしは机に両手を置き、言葉を続けた。
「メネズの犯罪に関与した者は処罰され、残った皆さんだけでは仕事は回らない。これは事実です」
「ならば、我らの息子や娘を政務に加えればいい!」
一人が声を荒げる。すぐに数人が同調した。
わたしはすかさず問い返す。
「その方々に、政務の経験がありますか?」
沈黙。
一瞬前まで騒がしかった空気が、ぴたりと止まる。
「今、学ばせている余裕はありません。町は疲弊しています。必要なのは、即戦力です」
鋭く言い切ると、誰も言い返せなかった。
渋々と視線を逸らす者、唇を噛む者。
わたしは小さく息を整え、はっきりと告げた。
「なので、アゼレアの元部下を戻します。町を動かすために――それが唯一の方法です」
会議室を出ると、ロエナが小さく微笑んだ。
「……お見事でした。お嬢様」
……時間稼ぎは、できた……かな。
言葉を発するたびに、責任の重さに潰されそうになる。
だが、アゼレアが遺したものを繋ぐために、わたしは確かに前へ進めている。
責任者室に戻ると、机の上には新しい書類の束が待ち構えていた。
人事整理の指示書、職員の名簿、承認印の並んだ用紙。
筆を握りしめ、黙々と書き進めていると、控えの者が扉を叩いた。
「お嬢様。サンドレアムから書状が届いております」
「……え?」
差し出された封書を見た瞬間、トクンと心臓が跳ねた。
封蝋には見覚えのある印。
震える手で封を切り、中の手紙を広げる。
――そこには、端正な筆跡で短い文章が並んでいた。
『現在、メネズとダズマの証言をもとに、領内の禁制品の流通を潰して回っている。
君の家族は元気だ。皆、お前の帰りを待っている。
それと、あの状況でよくやった。
アードの代理は短期間。そのまま励め』
「………………」
読み終えた瞬間、胸の奥がじわりと熱くなる。
けれど次の瞬間、両手をぶんぶん振り回して机を叩いた。
……もっと書いてよっ!
「もうちょっと! なんかさぁ! 書いてよぉ~!」
肩に止まった精霊たちが、ぽかんとした顔でこちらを見上げていた。
「がんばったね、とか! 寂しいだろうが、とか! せめて絵文字のひとつでも!!」
机に突っ伏したまま文句を並べる。
でも、口元は笑みをこらえきれなかった。
「……ありがとう」
そっと手紙を胸に抱きしめてから、大事に机の引き出しへしまい込む。
文中にはアードの代理は短期間とあった。
次の候補が選ばれるまでの間、トバルは領主直轄領となる。
――つまり、ずっと背負い続けるわけではない。
「……よかった。ちょっと安心した」
気持ちが軽くなるのを感じながら、わたしは再び筆を取り上げた。
人事作業の山は、まだ目の前にそびえている。
けれど、心の奥には確かな支えを感じる。
「よし、やろう」
小さな声でそう呟き、わたしは机に向かった。
◇ ◆ ◇
あれから三日。
任命の書類は、とにかく多かった。
アゼレアの元部下を一気に戻したせいで、必要な承認は山ほど。しかも、メネズ派の政務官たちが、事あるごとに難癖をつけてくる。
「この署名は不備だ」
「証人が足りない」
「手続きが違う」
一つひとつ片づけるたびに、時間ばかりが過ぎていった。
昼間は人事作業に追われ、夜は机にしがみついてアゼレア救出の算段を考える。
結局まともに眠れないまま三日が経ち――鏡に映る自分の顔は、少しやつれて見えた。
……でも、やらなきゃ。アゼレアを取り戻すって決めたんだから。
翌日、気持ちは固めたものの、いざ現実を目の前にすると決意が揺らぎそうになる。
責任者室の机の上には、終わる気配のない書類の山。
署名欄、判子欄、封蝋欄。
視界が白と黒に埋め尽くされる。
「……これ、本当に終わるの?」
小さく嘆息したそのとき、控えめな声がした。
「代理殿」
顔を向けると、政務官マテオが立っていた。
かつてアゼレアに仕え、探索の折には黒衣の部下を引き入れるよう進言してくれた、下級貴族の元事務官だ。
今は正式に政務へ戻り、黒衣たちとわたしの間を取り持ってくれている。
……代理殿かぁ。慣れないなぁ。
筆頭政務官の代理ではなく、アード・トバルの後を継ぐ統治者代理――つまり、この町を一時的に預かる者としての呼び名だ。
「人数はある程度戻りましたが……事務方が足りませんね」
わたしが書類に埋もれているのを見て、マテオは苦笑した。
「本来、統治者代理の仕事は、これではありませんよ」
「分かってる……でも、やらないと進まないでしょ」
筆を走らせながら答えると、マテオは真顔に戻った。
「ですが――今の財政状況では、これ以上、人を戻すのは難しいかと」
「財政……?」
……そんなにマズイの?
「メネズが禁制品に注ぎ込んだ金額は莫大でした。その穴埋めで、トバルの財はほとんど尽きています。人材を戻す給金も、もう捻出できないでしょう」
言葉に詰まる。
頭の中で、孤児たちの顔が浮かんだ。
……孤児を保護するって決めたのよ……その分だってお金がかかるのに……。
次から次へ起こる問題に、頭がパンクしそうだ。
人を戻さなきゃ町は動かない。
でも、お金がなければ戻せない。
孤児を守ると誓ったのに、その費用すら危ういなんて――。
「……新しい収入源、か」
机に肘をつき、わたしは唸った。
人材はある程度戻った。
けれど、給金を払う財がない。
孤児を守る誓いを立てた以上、その費用も必要だ。
「マテオ。もうすぐ収穫よね?」
問いかけると、マテオは少し考え込んでから答えた。
「はい。トバルは農業都市。もう間もなく収穫の時期です。ただし、その収入はすでに穴埋めに回されることが決まっております。新しい財源としては……期待はできませんね」
マテオの表情は厳しい。
「……そう、だよね」
溜息が漏れる。
……収穫しても、駄目かぁ……ん?
けれど収穫という言葉に、ふと胸の奥で何かが弾けた。
……そういえば……アゼレアが言ってた。農業の改革の話。
記憶の中で、真剣な表情のアゼレアが浮かぶ。
――「あれを導入する話を、メネズにちらつかせたの。収入を上げる無視できない話題を投げれば、私はただの残酷な令嬢ではなく、交渉の駒になる」
「……そうかっ!」
椅子から立ち上がり、思わず声が大きくなる。
その様子に、マテオが目を丸くした。
「代理殿?」
「千歯扱き! これを導入できれば、農産物、特に小麦の回転が変わるはず!」
マテオが首を傾げ、聞き返した。
「せん……何ですか?」
マテオは眉をひそめる。
「……詳細がわからないと難しいですね。それに、導入にはメネズ派の反発も予想されます」
わたしは確かにそうだと、唇を噛んだ。
けれど、手をこまねいている余裕はない。
「なら、まずはサンドレアムに資料を急ぎ要請して。図面や導入例が必要だわ」
「承知しました」
マテオは深く頭を下げ、すぐに控えへ指示を飛ばした。
机の上に残された筆を握りしめながら、わたしは目を閉じる。
アゼレアの残した言葉が、今も道を照らしてくれる。
所長が千歯扱きの導入を決断してくれたからこそ、わたしはこうして希望を見つけられる。
どこかで誰かが支えてくれている。
胸の奥に、静かな温かさが広がっていった。
不安も迷いも尽きないけれど――それでも、支えがある。
わたしはそっと机の中の手紙に目をやり、小さく微笑んだ。
多忙を極めること、さらに二日。
ほとんど眠らずに過ごしたせいで、目の下の隈は濃く、指先はインクで黒く染まっていた。
まだサンドレアムから資料が届くには早い――そう思っていた矢先、控えの者が一通の書簡を差し出した。
「代理殿。至急のお届けです」
「もう……資料きたの?」
かすかな希望を胸に封を切った。だが、目に飛び込んできた文字は無情だった。
――メネズおよび関係者の刑が執行された旨、正式に通達する。
「……うそ」
頭が真っ白になった。
……そん……な、間に合わなかった……。
視界がぐらりと揺れる。
指先から筆が滑り落ちる音が、やけに遠くに聞こえた。
全身の力が抜け、そのまま意識が暗闇に沈んだ。
◇ ◆ ◇
「……お嬢様!」
目を覚ますと、泣きそうな顔を必死に抑えているロエナが、枕元でわたしの手を握っていた。
「ご無理をなさっては……どうか、休まれてください」
わたしが言葉を返す前に、ロエナはぐっと唇を噛み、静かに部屋を退出した。
一人きりになった寝台で、わたしは声を殺して呟いた。
「……賭けは、わたしの負け」
そう口にした瞬間、熱いものが堰を切ったように……流れ落ちた。
枕を濡らす。
嗚咽が喉を震わせ、止めようとしても止まらなかった。
守れなかった。
救えなかった。
わたしには何もできなかった。
胸の奥が軋み、呼吸すら苦しくなる。
無力という言葉が刃となって心を抉り、夜は深く沈んでいった。
夢の中。
それはいつか見た光景。
銀髪の女の子が縁側に座っていた。
何も言わず、ただこちらを見守るように微笑んでいる。
その姿に縋りつきながら、わたしは泣いた。
何もできなかった無力感に打ちひしがれ、泣きじゃくるわたしを、よく頑張ったねとでも言うように優しく彼女は抱きしめてくれていた。
翌日。
会議室で、メネズ派の政務官が詰め寄ってきた。
「農業改革とやらについて、代理殿。説明を求めます」
口を開いたものの、何を話したのか憶えていない。
頭も心も動かなかった。
今は何も考えられない。
「……資料が届いたら、改めてご説明します」
それだけを告げ、逃げるように会議室を後にした。
心配そうに見つめていたマテオの顔すら、まともに見返すことができなかった。
「代理殿……」
「ごめんなさい……今日は無理」
そのまま客室へ戻り、寝台に倒れ込むようにして、眠り込んだ。
さらに翌朝。
控えが再び扉を叩いた。
「代理殿。サンドレアムから資料と試作品が到着しました。庭までお越しください」
――本来なら、嬉しい知らせのはずだった。
けれど、今のわたしには、何の実感もなかった。
胸は重く沈み、顔を上げるのもやっと。
「……わかった」
ロエナを伴い、足を引きずるように庭へ向かう。
そこには、木製の枠組みに無数の歯を並べた奇妙な道具――千歯扱きの試作品が置かれていた。
その前で、ひとりの女性がじっとそれを見つめている。
……なん、で……。
オレンジゴールドの髪が朝日に輝き、背中越しにゆるやかに揺れていた。
目にした瞬間、胸がぶわぁっと熱くなる。
思わず地面を強く蹴り、駆け出していた。
「……アゼレアっ!!」
喉の奥から絞り出すような叫び。
彼女が振り向くより早く、わたしはその背に飛びついた。
指先が彼女の衣を掴んだ瞬間、とめどなく涙があふれ出た。
頬を伝い、視界をにじませ、言葉にならない声が喉から洩れる。
アゼレアは驚いたように目を見開いたが、すぐに、すべてを受け入れるように柔らかく微笑んだ。
「……ああ、もう。その顔を見れば、わかるわ」
その声は温かく、優しく、揺るぎなかった。
そして勝ち誇ったように、静かに告げる。
「賭けは、私の勝ちのようね」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で張りつめていたものが、全て音を立てて崩れた。
立っていられず、彼女の腕の中で子供のように声をあげて泣きじゃくる。
涙は止まらず、嗚咽も抑えられない。
ただ必死に、その温もりに縋った。
その抱擁は、失ったと思っていたすべてを取り戻すように、優しく包み込んでいた。




