62話 残されたもの ~欠片を拾い集めて~
――大人たちの声が、まだ耳に残っていた。
「子供に政務など務まるものか」
「前例がない、前例が」
「所詮は形だけの任命だろう」
会議室で飛び交った言葉は、鋭い刃のように胸を刺していた。
重々しい視線に押し潰されそうになりながら、わたしは必死に声を絞り出した。
「……とにかく、当面は今まで通り、業務を続けてください」
それ以上、何も言えなかった。
結局、その場をしのいだだけ。
納得させることも、信じさせることもできなかった。
責任者室に戻ると、机の上には相変わらず帳簿や文書が山のように積み上がっている。
小さな手で帳簿をめくってみても、数字が目に入ってこない。
……このままじゃ……町が止まっちゃう……。
椅子に深く腰掛け、うずくまるように頭を抱える。
精霊が一匹、ちょこんと肩に乗り、ひんやりとした光で頬を撫でてくれた。
「……ありがと」
呟いたそのとき、背後から控えめな声がした。
「……お嬢様」
振り返ると、扉の前にロエナが立っていた。
彼女は静かに近づいてきて、机の横に控える。
「さきほどの会議……やはり皆さん、納得はしていない様子でしたね」
「……うん」
情けなくて、思わず俯いた。
ロエナはそんなわたしを見つめ、少し間を置いてから言った。
「ですが――方法がないわけではありません」
「……方法?」
顔を上げると、彼女は真剣な眼差しで言葉を続けた。
「アゼレア様のお側に仕えていた方々を、政務に呼び戻すのはどうでしょう?」
「……でも、どこにいるかも分からないよ」
思わず弱音が口をつく。
「すべてが追放されたわけではありません。町に身を潜めている方もいるはずです。まだトバルに在住している者から当たってみませんか?」
胸の奥で、何かが小さく灯った気がした。
アゼレアを支えた人々。
もし彼らが戻ってきてくれるなら――この状況を変えられるかもしれない。
「……うん、探してみる」
小さく頷きながら、わたしは精霊を見やった。
光の粒がきらりと跳ねて、背中を押してくれる。
「アゼレアを支えた人たちを、今度はわたしが集める番だね」
そう言ってロエナと顔を見合わせ、わたしは机の下で小さな拳を握りしめた。
◇ ◆ ◇
責任者室の机いっぱいに、分厚い名簿が広げられていた。
ロエナが指でなぞりながら、一行ごとに確認していく。
「……この方は、北区の職人街に。こちらは南区に移り住んでいるようです」
「ふ~ん……この人はもう七十を超えてるんだね」
「はい、政務からは退いておりますが、経験は豊富でした。もしかしたら、お話を伺えるかもしれません」
紙の上に並ぶ名前の中には、アゼレアに近しく仕えていた者も少なくない。
追放とまではいかずとも、心ならずも離れざるを得なかった人々だ。
彼らがまだ町に住んでいるなら、力を借りられるかもしれない。
「……よし、とにかく当たってみよう。会って話すのが一番ね」
顔を上げて言うと、ロエナが静かに頷いた。
馬車の準備が進められる。
御者を務めるのは、地下倉を取り仕切ってきた年長の使用人だった。
手綱を確かめながら、彼はちらりとこちらを見やり、口元を緩める。
「いやぁ……十日も経たないうちに、統治者か。すげぇもんだな、お嬢ちゃん……いや、もうお嬢様、か」
「お嬢ちゃんでいいよ。今まで通りで」
苦笑いで返すと、男は一瞬黙り込み、次に真剣な顔を向けてきた。
「……いや。なんだ、その……上手く言えねぇが、アゼレア様が認めたんだ。なら、俺たちにとっても、もうあなた様は主だ」
重く、けれど温かい言葉だった。
胸の奥がじんわりと熱くなる。
その視線に押されるように、わたしは小さく息を吸い込み、頷いた。
「……ありがとう。じゃあ――行こう」
馬車の扉を閉めると、御者台に男が腰を下ろす。
鞭が鳴り、車輪が石畳を踏みしめて動き出した。
わたしとロエナを乗せた馬車は、名簿に記された人々を探すため、町の区画へと走り出した。
馬車は石畳を抜け、北区へと向かった。
窓の外には、広がる畑と風に揺れる麦の穂が見える。
まだ冷たい風が残るけれど、陽射しには春の気配が差し込んでいた。
「冬小麦が……もうすぐ収穫できそうだね」
そう呟くと、ロエナが柔らかく笑った。
「この実りがある限り、町は生きていけます」
胸の奥でアゼレアの姿がよぎる。
彼女も、こうして町の景色を見ていたんだろうか。
最初に訪ねた家は留守だった。
隣人に尋ねると「息子の家に世話になっている」とのことで、その足で次の家へ。
二軒目で出会ったのは、白髪の老人だった。
背筋は曲がっているけれど、瞳にはまだ知の光が残っている。
かつて財務を司っていた官僚だと聞き、思わず身を乗り出す。
「どうか、政務に戻ってきてください!」
けれど老人は首を横に振った。
「……この歳では務まらんよ。手も目も衰えた。だが――若い者をまとめる心得くらいなら教えてやれるぞい」
そう言って、帳簿の整理や予算立ての勘所をいくつか助言してくれた。
紙に急ぎ書き留めると、ロエナが深々と頭を下げた。
三軒目でようやく、下級貴族の元事務官に出会った。
追放された過去を引きずり、最初は警戒した顔を見せたが、こちらの必死さに少しずつ表情が和らいでいく。
「どうか、お願いします。政務に戻ってきてください!」
しばらく沈黙したあと、男はふっと小さく笑った。
「はぁ……まったく、小さいときの姫様そっくりだな」
「……姫様?」
わたしが首を傾げると、男は苦笑いを浮かべた。
「アゼレア様のことだ。アードの娘をそう呼ぶ。王家の姫とは違うが、トバルの民にとっては、あの方は間違いなく姫様だったんだよ」
……なるほど。
サンドレアムでいえば、領主の娘が姫様と呼ばれるようなものか。
町の外に出れば通じない呼び方でも、この町の人々には自然に根付いているようだ。
「……そう、なんだ」
「まぁ、なんだ……話はわかった。もう一度、やってみよう」
「それじゃぁ……あ、ありがとうございます!」
わたしは頭を下げる。
「それと……黒衣の部下といえば分かるか? あの者たちが孤児を匿っている。どこにいるかは知らんが、帳簿の流れを読めば見当はつくかもしれん。姫様のことだ、隠れて物資の支援をやっていてもおかしくない」
アゼレアを最後まで支えていた黒衣の兵たち――彼らがまだ街にいて、しかも孤児を守っている。
その手を借りられるなら、きっと大きな力になる。
「……必ず探してみます」
力強く答えると、男は深く頷いた。
こうして、最初の協力者と――新たな手がかりを得ることができた。
邸に戻ると、真っ先に帳簿を開いた。
分厚い紙束を机いっぱいに広げ、筆を片手に、わたしは文字をなぞるように追いながら小声で読み上げた。
「日付、数量、倉庫番号……ここは正常。こっちも……異常なし」
精霊たちが肩や帳簿の上に並び、首を傾げたり数字を覗き込んだりする。けれど、どれだけ目を凝らしても妙な流れは見当たらなかった。
数字は綺麗に整っていて、どの品目も余りも不足もない。
「……おかしいなぁ」
わたしは、額を押さえて椅子に沈み込んだ。
黒衣の部下たちに物資を流していたなら、どこかに痕跡があるはずなのに。
なぜ、何も出てこないのだろう。
焦って見落としているのだろうか。
息を小さく吐いて天井を見上げれば、会議室で「子供に務まるわけがない」と言われた否定の言葉が耳の奥に響く。
……はぁ、まずいなぁ……どこよ、もう。
諦めにも似た溜息をひとつ。
このままじゃ、アゼレアの救出どころか町も立ち行かないと、机に突っ伏した。
……アゼレア、どうすんのよ……これ。
机に頬をつけ、インク壺をじっと見ていると、ふいに記憶の底からアゼレアの声が蘇った。
――「私は帳消しにしてきたのですよ」
はっと顔を上げた。
……そっか!
アゼレアは、ただ数字を消して誤魔化したわけじゃない。支援した分を、まるごと別の流れに紛れ込ませていたんだ。
つまり――メネズの怪しい物流に上乗せして、全部あの男のせいに見せかけていた……。
「だから見つからなかったんだね」
口に出した瞬間、霧が晴れるように視界が広がった気がした。
すぐにメネズ関連の帳簿を引き寄せ、ページを繰り返す。
輸送経路、倉庫の入出、仕入れと残量。
数値だけなら整っているが――確かに、いくつかの行に違和感が残っている。
「ロエナ、これ。ここを見て」
傍らに立つロエナに帳簿を指さすと、ロエナは眉をひそめてページをじっと見つめた。
「……数量は表上、辻褄が合っています。ですが……取引場所が変ですね」
「変?」
「はい。通常なら南区倉庫を使うはずですが、このときだけ西の外れと記録されています」
「西の外れ……?」
ロエナは顎に手を当て、ゆっくりと言葉を継いだ。
「市壁のそばに、古い屋敷跡があります。今は使われていないはずですが……記録にあるのは、そこしか思い当たりません」
息を呑む。
メネズの不正に紛れ込ませて、アゼレアは孤児や黒衣の部下たちへ物資を流していた。
だから、誰も気づかなかったんだ。
「……そこにいるかもしれない」
胸の奥に熱が広がっていく。
黒衣の部下。アゼレアの忠実な兵。
彼らがまだ街にいて、孤児を守っているのなら――必ず会わなきゃ。
「行こう、ロエナ」
勢い込んで椅子を立ち上がったとき、ロエナがすっと腕を伸ばしてわたしを制した。
「お待ちください、お嬢様。外をご覧ください」
窓の向こうに目をやると、夕日がすでに西の地平に沈みかけていた。
建物の影は長く伸び、町はもう夕闇に包まれはじめている。
「……もう、こんな時間?」
「はい。これから市壁の外れに向かうのは危険です。明日の朝、改めて出発いたしましょう」
悔しさに唇を噛んだ。
けれど、ロエナの理屈は正しい。
「……わかった」
夜。寝台に横たわっても、胸のざわめきは収まらなかった。
……アゼレア部下たち……本当にあの場所にいるのかな。
閉じた瞼の裏に、アゼレアの凛とした姿が浮かんで消えた。
「必ず見つけるから」
小さく呟いて眠りに落ちた。
◇ ◆ ◇
翌朝。
馬車に揺られて城壁を抜け、西の外れへと向かう。
畑を越えると、やがて古びた屋敷跡が姿を現した。
瓦は落ち、壁は崩れかけている。だが人の気配は濃い。
馬車を降りて足を踏み出した瞬間、低い声が響いた。
「止まれ」
影から現れた数人の男たち。
黒い衣を纏い、鋭い視線でこちらを睨む。
精霊たちが警戒するように、わたしの肩に集まった。
「わたしはアゼレア様の後任、筆頭政務官ルルーナです!」
小さな胸を張って声を放つ。
「あなたたちの力が必要です。どうか――」
「帰れ」
短い一言が、鋭く空気を断ち切った。
食い下がろうとしたとき、ロエナが袖を引いた。
「お嬢様。一度戻りましょう。昨日の事務官殿に、口添えをいただいた方が」
ロエナの言葉に戸惑っていると、別の影が揺れた。
黒衣の男たちの背後から、もう一人が歩み出る。
「……あの時の娘か」
びくりと肩が震える。
わたしを知っているということは、あの誘拐の夜、廃屋にいた一人だろう。
「アゼレア様の命で、孤児たちを保護している。この場所を守ることが我らの務めだ。政務に戻るつもりはない」
毅然としたその言葉に、胸が熱くなる。
アゼレアは最後まで孤児を守るよう命じていた――その証だ。
……でも……このままじゃ町は動かない。どうすれば、彼らの力を借りられる?
わたしは彼らをじっと見据え、考えを巡らせた。
「でも、メネズはもういないよ」
わたしは一歩踏み出し、強く言い返した。
「メネズの物流に紛れて物資を回していたのは、アゼレア様だった。もう偽装して物資をここへ流すことはできないのよ」
「……関係ない。メネズや物資がどうなろうと、ここを守れと命じられた。それが務めだ」
「アゼレア様の命令だから?」
「そうだ」
……この頑固さ、主人譲りね。
ならば――と、わたしは真正面から問いを投げた。
「もし、わたしが孤児を保護すると言ったら?」
「……なに?」
男の視線が揺れる。
「ここにいても、もう物資は来ない。どうするつもりなの?」
「それは……」
返す言葉を探すように、男の口が止まる。
「わたしが正式に孤児を保護すれば、少なくとも食べることに困らない。町の制度も使える。アゼレア様が残してくれた組合の仕組みがあるんだから」
「……しかし、おぬしを信用できる判断材料がない」
「わたしはアゼレア様に任されたのに?」
「それは我らも同じ。アゼレア様が託したのはここを守れという命令だ」
わたしは深く息を吸い、まっすぐに見返した。
「……聞くよ。アゼレア様の命令はここを守れなの? それとも――孤児を守れなの?」
「――!」
黒衣の男の目が見開かれる。
「孤児を守れ、なら邸でもいいよね? 政務に戻って、邸ごと守ってくれればいいじゃない」
言葉が途切れ、沈黙が流れる。
そのとき、後ろに控えていた別の黒衣の男が口を開いた。
「もういいだろう……なっ? 姫様にそっくりだろ?」
「ちっ!」
「――あ、あなた……昨日の……」
その声の主は、昨日出会った元事務官だった。
その声に、場の空気が少し変わった。
固く閉ざされていた扉が、わずかに軋む音を立てた気がした。
彼は黒衣の男たちの前に進み出ると、にやりと口元を歪めた。
「どうだ、見ただろう? この子の言葉はまやかしじゃない。アゼレア様が後を託した理由も……ようやく分かったか?」
黒衣の男が歯噛みする。
「だが我らは、アゼレア様の命令に従ってここを守ってきた。それを違えることなど――」
「命令を守ったつもりで、本当に護りたかったものを見失ってどうする」
事務官の声は低く、しかし揺るぎなかった。
「アゼレア様が大切にしたのは、この町と、子らの未来だ。場所や形に縛られることじゃない」
黒衣の数人が顔を見合わせる。
固かった視線に、わずかな揺らぎが走った。
わたしは息を整えて、もう一度まっすぐに言った。
「孤児を守るためなら、政務に戻って邸ごと守ってください。町を動かすのも、子供たちを支えるのも、同じ守ることです」
「…………」
重い沈黙。
やがて、また別の一人が深く息を吐いた。
「……ご老の言葉通りだ。後を託した理由も、今なら分かる」
すると建物の影から、背筋が曲がった老人の姿が見えた。
「どうじゃ? 言った通りじゃったろ?」
昨日の元官僚のご老人だった。
「まさか……あなたもですか?」
……やられた。試されてたのね。
どうも、わたしは試されていたようだ。
主従揃って、試すのが好きらしい。
その瞬間、張り詰めていた空気がほどけていった。
黒衣の男たちの目から敵意が薄れ、代わりに静かな敬意が宿っていく。
元事務官がわたしに振り返り、にやりと笑った。
胸の奥が熱くなる。
アゼレアが残したものを、確かに繋ぐことができた――そう感じた。




