53話 再構築 ~一人じゃない夜~
夜の帳が落ち、静まり返ったアゼレア邸の一室。
わたしは寝台に横たわってはいたものの、眠気は一向に訪れなかった。
天蓋の布越しに見える闇を見つめ、浅く呼吸を繰り返す。
……地下倉の整理はなんとかなったけど……明日の課題は……。
市場の知識も、目利きもない自分に、本当にできるのだろうか。
考えれば考えるほど不安が広がり、体はこわばって眠れない。
「……まいったなぁ」
小さな声が、暗い客室に滲む。
思わず布団を抱きしめた、そのとき――。
(……ルルーナ、聞こえるか)
耳ではなく、心の奥に直接響く声があった。
はっと目を見開く。
聞き間違えるはずもない。
所長の、低く落ち着いた声だった。
(……所長っ!)
涙が滲むほどの安堵が一気に込み上げ、布団の端をぎゅぅっと握りしめる。
(トバル近くに痕跡があったので追ってきた。無事か?)
(はい……今は無事です……でも……)
胸の奥に溜め込んでいた恐怖と不安が、堰を切ったようにあふれ出す。
わたしは声を震わせながら、ここ二日の出来事を報告した。
侍女が処刑された恐怖、倉庫整理を命じられたこと。
そして、邸の使用人たちが語る優しい主人と、自分が見た冷酷な令嬢の矛盾。
(……彼女は何者で……本当は優しい人なんでしょうか。それとも……)
そう呟く声は、自分でもわかるほど弱々しく震えていた。
短い沈黙ののち、所長の声が返ってくる。
(アゼレアは前アードの娘。十五歳とまだ若いが、為政者として育てられた者だ。アードとは君の世界でいう、市長に近い)
……まだ十五歳……一体、どんな人生を送ったら……。
(前アードの娘……)
(そうだ。現在トバルは、反領主派が仕切っている。彼女は優秀過ぎるが故に、領主派からすれば警戒対象だ)
……反領主派。
(聞こえてくる噂は、鮮血と呼ばれるほどだ。どれも冷酷で恐ろしい娘といったところだな)
(はい。わたしも邸で耳にしました)
(だが、所詮は噂だ。統治者として二面性を持つ者は珍しくない。冷酷さも優しさも、ともに彼女の顔だ……君にとって大事なのは、その両方を見極めることだろう)
(見極める……)
わたしは息を呑んだ。
確かに、どちらか片方が嘘で、どちらかが本当というわけではないのかもしれない。
冷酷さも優しさも、彼女自身の一部。
だからこそ、簡単に答えが出せず、混乱しているのだ。
(それと、明日の課題だ。今はそちらに集中しなさい)
所長の声が一層引き締まる。
(まず、基準を定めよ。君に市場の相場を見抜けとは言わぬ。必要なのは見方だ。例えば、壊れた机ならば、木材として使えるのか、ただの薪になるのか。壺なら、欠けても修繕できるのか、それとも危険だから処分すべきか。そうした基準を定め、分類すること。それならばできるだろう?)
わたしはっとして、目を瞬かせた。
……そうだ。わたしにできるのは整理だ。
全てを完璧に見抜く必要はなく、基準をつくり、それに沿って仕分けすればいい。
(……できます……たぶん……いいえ、きっと)
胸の奥に小さな灯がともったようだった。
(うむ。そろそろ時間だ。明日は冷静に、基準を意識して取り組みなさい。普段通りでかまわん)
所長の声は、短く、けれど確かな信頼を込めていた。
その響きが心に深く染み、わたしは涙を拭いながら、静かに頷いた。
(……はい、がんばります)
そう答えたとき、張り詰めていた心が少しずつほどけ、眠気がようやく訪れ始めた。
布団に身を沈めると、所長の声はもう聞こえなかったが、その余韻だけが胸に温かく残っていた。
不安は、まだある。
けれど、明日へ向かう勇気もまた、芽吹いている。
まだ頑張れる。
わたしは小さく息を吐き、ゆっくりと瞼を閉じた。
◇ ◆ ◇
わたしの眠りが浅かったせいか、瞼は少し重たかった。
でも昨日とは違う。
今日はできそうな気がする。
所長の声も、まだ心に残っている。
――「基準を定めよ」
いつも通り実践するだけだ。
握り込んだ拳に、小さく力が入った。
ロエナに伴われて、再び地下倉庫へ向かう。
扉を押し開けると、冷えた空気が一気に流れ込み、古い木材や埃の匂いが鼻をついた。
そこには既に、アゼレアの姿があった。
白い手袋をはめ、薄く微笑むこともなく、ただ冷ややかな視線でこちらを待っていた。
「……昨日はよくやったわ」
アゼレアの声音は感情を感じさせない。
心はこもっておらず、どこか突き放すように感じる。
「さあ、壊れた品々を選り分け、残す価値の有無を判断しなさい」
淡々とした宣告が、刃物のように胸へ突き刺さる。
わたしは小さく深呼吸をして、頷いた。
「……承知しました」
アゼレアが軽く顎を動かすと、使用人が荷車を押してきた。
荷車の上には、壊れた椅子や欠けた壺。
穴の空いた布袋に刃の欠けた道具など、今にも捨てられそうな品々が積まれている。
「基準を示せ。使えるか、使えぬか。ただそれだけだ」
アゼレアの琥珀色の瞳が、試すようにわたしを射抜いた。
わたしは膝を折り、最初の品である脚の折れた椅子に手を伸ばした。
一見、無惨に見えるが木材はまだ丈夫そうだ。
「……これは、座ることはできません。ですが……切り分ければ薪になります」
震えを抑えて言葉を紡ぐ。
横にいた使用人が、驚いたように小さく頷いた。
次は、口縁の大きく欠けた壺。
これは水を入れれば漏れる。
修繕しても、強度は戻らないだろう。
……水を溜めることもできないね。
「……これは処分するべきです。欠けた部分が鋭利で、危険ですから」
言葉にした瞬間、アゼレアの視線が一瞬だけ細められた。
何を考えているのかは分からない。
ただ、その沈黙が重い。
続いて、穴のあいた布袋。
一見使えなさそうだが、小物を入れるなら問題ないはず。
「……これは。大きな荷を運ぶのは無理ですが、小分け袋としてなら使えます」
少しずつ、昨日の整理で培った感覚が蘇ってくる。
使えない物は捨てる。
だけど、形を変えれば価値があるなら残す。
その繰り返しの中で、わたしの動きは次第に迷いが減り、判断の声もはっきりしていった。
やがて、荷車の中身をすべて仕分け終えた。
残す山と処分する山が、はっきりと二つに分かれている。
……ふぅ、やりきった。
わたしは両手を膝の上に重ね、小さく息を整えた。
緊張で手のひらは汗ばみ、終わったとはいえ、まだ落ち着かない。
アゼレアがゆっくりと歩み寄り、仕分けられた山を眺めた。
指先でひとつの布袋をつまみ、無言で確認する。
欠けた壺を軽く叩き、砕けそうな音を確かめる。
そして、アゼレアは視線をわたしに戻した。
「……おおむね妥当」
その一言は、冷たく響いた。
だけど、わたしにとって、それは何よりも重い評価だった。
胸の奥に熱いものがこみ上げ、思わず瞳が潤む。
「ありがとうございます……!」
しかしアゼレアは感情を見せず、すぐに背を向けた。
「これは最低限の判断よ。だけど……凡百の者にできぬことをやったのも事実ね。次は、より大きな責務を与えることにするわ」
背中越しに告げられたその言葉は、挑戦と圧力を同時に含んでいた。
わたしは、震える手を胸の前でぎゅっと握りしめた。
昨日の整理、そして今朝の仕分け。
どちらも必死だった。
だが、その努力が最低限といえど認められたのは、確かな一歩だった。
アゼレアは振り返りもせず、倉庫の奥へと歩き出す。
その背を追うように、わたしとロエナ、そして数名の使用人がついていく。
やがて、分厚い帳簿が置かれた机の前でアゼレアは立ち止まった。
革張りの表紙は擦り切れ、重みによって沈んだ机の上には、幾重にも紙片がはみ出している。
アゼレアは手袋を外し、指先で帳簿を軽く叩いた。
「ルルーナ。次に課すのは、この在庫記録の再構築だ」
「……ざ、在庫記録の……再構築?」
……はぁっ? 再構築って……そんな。
思わずわたしは聞き返してしまった。
琥珀色の瞳が、わたしを見つめる。
その表情からは、わたしは何も読み取れない。
アゼレアは低く冷たい声音で続けた。
「昨日と今朝の作業で、物を見極める眼はある程度わかったわ。だけど、倉庫とはただ物を並べる場所ではないのよ。管理し、流れを掌握する場。それが出来ぬ者は、いずれ倉庫ごと潰す」
それは背筋を凍らせる言葉だった。
まるで一つの判断ミスが、全ての首を飛ばす。
そんな重さすら帯びている。
アゼレアは帳簿を開き、乱雑な文字で記されたページを指先でなぞった。
そこには『壺・十七』『布袋・二十』といった、数のみが書かれているが、すでに実物と合わない数字も多く、修正の跡が重なり合って読みにくい。
「これは前任の管理人がつけていた記録よ。数は合わず、品名も曖昧……無能の証ね」
アゼレアの声には、わずかに侮蔑が混じっていた。
「これを整理し直し、倉庫の実情を反映させなさい。壊れて捨てる品は削除し、代用可能な品は分類し、再利用の余地があるものは注記を添えるのよ。そして、すべてをわかる形で、まとめ直しなさい」
わたしの喉が、ごくりと鳴った。
それは、単に数を数えるだけじゃない。
昨日、絵と品を結び付けた工夫をさらに広げ、誰が見ても理解できる仕組みに昇華しろ、ということだ。
「……わ、わたしに……できるでしょうか……」
思わず漏れた弱気な声に、アゼレアがわたしを見下ろし告げた。
「できないのなら、ここに居る価値はないわ」
冷たく言い放たれた一言は、容赦のない刃のようだった。
だが同時に、それは突き放すだけでなく期待でもあるように、わたしには聞こえた。
アゼレアは机の上に筆を置き、わずかに身を引く。
「猶予は三日……三日で形を見せなさい。できたならば、この倉庫の一部を任せるわ。できなければ、その時点で見切る」
わたしの胸がドクンと強く跳ねたのがわかる。
見切る……その言葉の冷酷さは、昨日耳にした侍女たちのひそひそ話と重なる。
処刑された侍女たちも、こうして試され、見切られたのだろうか。
だが、それでも。
ここで退くわけにはいかない。
わたしはお腹に力を入れ、アゼレアを正面から見上げた。
「……はい。必ず、やってみせます」
その言葉にアゼレアの口元がほんの一瞬、僅かにだが、確かに動いた。
冷ややかな微笑とも、興味深げな皮肉ともとれるその変化。
「……そう。ならば見せてちょうだい。おまえのやり方を」
そう言い残し、アゼレアは踵を返して去っていった。
……なんとか、生き延びた……かな。
残されたわたしは、震える体を必死に押さえながら、帳簿と山積みの紙束を見つめる。
その重みが、これまでとは比べものにならない責務であることを、嫌というほど理解していた。
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