51話 整理してみよう ~命懸けの新生活~
客室の窓に吊るされた薄布のカーテンが、夜風に揺れた。
町の喧騒も遠ざかり、トバルはすでに静寂に包まれている。
わたしはふかふかの寝台の端に腰掛け、落ち着かない心をどうにか鎮めようと、手を膝の上で組んでいた。
扉が軽く叩かれた。
……二回、侍女かな?
「どうぞ」
「失礼いたします。アゼレア様がお食事の席へとお呼びです」
声の主は先程とは違う侍女だった。
控えめで丁寧な口ぶりだが、その裏に緊張が滲んでいるように聞こえた。
……こんな時間に?
「……はい、すぐに」
わたしは頷き、与えられたドレスの裾を整える。
豪奢すぎて歩きづらいけれど、逆らえるはずもない。
小さく深呼吸をして、夜の廊下へと足を踏み出した。
フレデリカとのお茶会が役に立つ日がくるとは、こんな状況でなければ喜べたのだが。
……マナー講義受けてて助かったよ。
通されたのは、広くも狭くもない応接間。
壁に吊るされた燭台が金の光を揺らめかせ、長卓の中央には果物と軽食、そして赤いワインが並んでいた。
アゼレアはすでに席に座っていた。
白磁のような横顔には笑みが浮かんでいたが、その笑みは人を安心させるものではない。
わたしの背筋が、自然と強張る。
「お座りなさい、ルルーナ。長旅で疲れたでしょう。せめて、今夜は少しでも楽しんで」
「……はい。ありがとうございます」
勧められるままに椅子に座ると、隣に控えていた侍女たちが器用に皿を並べていく。
わたしは口元に作り笑いを貼り付けたまま、心の中で祈るように言葉を繰り返す。
……平常心。ここで怯えを見せてはだめ。
だが、その祈りはすぐに打ち砕かれた。
侍女の一人が、ワインの瓶を持ち上げた瞬間だった。
わずかな手の震えが、赤い液体を卓布の端に落とす。
ほんの一滴。
誰もが見逃すような些細な失敗だった。
「……あら」
アゼレアが小さく声を上げた。
その声音は柔らかいのに、不思議なほど冷たく、部屋の空気を一瞬で張り詰めさせた。
「宴席を汚すとは、不快ね」
ワインを零した侍女が、わなわなと震えながら膝を折る。
「も、申し訳ございません……!」
けれど、許しを乞う声は冷ややかな微笑で遮られた。
「何度目かしら? それに、子供にワインを飲ませる気? その程度の気配りもできぬのなら、この屋敷には不要ね」
その一言で、護衛の兵が左右から侍女の腕を掴んだ。
血の気が引いた顔のまま、声もなく引きずられていく。
残されたのは、赤いシミのついたクロスと底知れぬ静寂。
喉がひりつき、飲み込んだ唾がやけに重たく響いた。
……いまの……不要って……。
頭の中で言葉が回る。
怒鳴りもしない。手を上げもしない。
ただ一言で、人の生死が決まる。
わたしは冷え切った指先を握りしめ、どうにか笑顔を保つ。
……わかってる。ここでは、何も……顔に出しちゃいけない。
「ルルーナ様。申し訳ございません。こちらはブドウの果実水になります」
別の侍女がわたしの杯に果実水を注ぐ。
わたしは杯を持ち上げた。
けれど、赤い液体の香りは血の匂いにしか思えず、結局、口をつけることはできなかった。
その後、形式ばった宴は短く終わり、わたしは再び客室へと戻された。
扉を閉めた途端、胸の奥に押し込んでいた恐怖がどっと溢れ出す。
……あれはヤバい、貴族ってみんなこうなの……?
貴族社会の講義はまだ初歩の段階だ。
注意事項程度しか、受けていない。
わたしが知っている貴族といえば、所長とフレデリカぐらい。
厳しいといえど、所長でもあのような罰は与えないだろうし、フレデリカも同様に思う。
わたしが見ているアゼレアは、最悪の部類の貴族ということだろうか。
一般的な貴族はこうではない。
できれば、そうであって欲しいと願う。
暗がりの中、寝台の縁に腰を下ろしたとき、窓辺でふわりと光が揺れた。
小さな妖精たちがちらちらと現れては、心配そうにこちらを見ている。
「……ありがと。大丈夫だよ。わたし、平気だから」
そう囁くと、まだ不安げに揺れながらも、少しだけ落ち着きを取り戻した。
こうして、アゼレア邸での最初の夜は、不気味な静けさの中で過ぎていった。
◇ ◆ ◇
眩しい朝日が、薄布のカーテン越しに差し込んでいた。
けれど、その温かな光は、昨夜から胸に巣くった不安を拭い去ってはくれない。
わたしは寝台の上で身じろぎし、小さく息を吐いた。
眠ったはずなのに、気持ちはずしりと重く、夢うつつで見た精霊たちの影がまだ瞼の裏に残っている。
いつの間にか椅子に上に陣取っていた古狸が、心配そうに寝台に寄ってきた。
一晩中、そこで見守っていてくれたようだ。
「……大丈夫よ。行かなきゃ」
古狸の頭を撫で、自分に言い聞かせるように呟き、身支度を整える。
用意されていた清楚なドレスに袖を通すと、鏡に映る自分の顔は少し青ざめていた。
なんとか笑顔を作りながら、頬を叩いて気持ちを立て直す。
……よし!
扉を叩く音がする。
……昨日と違う。
「お嬢様、アゼレア様がお食事の席にてお待ちです」
昨夜の侍女とは違う人物だった。
呼び声が妙に硬い気がして、わたしは胸を押さえながら小さく頷く。
「はい。すぐに参ります」
案内されたのは、昨夜とは違う食堂だった。
長い卓の上に並べられた朝食は、香ばしい焼き立てのパン、彩り鮮やかな果実、温かいスープ。
豪華ではあるけれど、どこか形式的な整え方をしている。
卓の上座にアゼレアはすでに座っていた。
朝日を背に受けたその姿は、光に包まれて美しく、けれど冷たい。
「おはよう、ルルーナ。よく眠れたかしら?」
「……はい。お心遣い、感謝いたします」
わたしは椅子に腰を下ろす。
手を合わせて祈るように目を伏せ、食事に手をつけるふりをした。
昨夜の光景が頭を離れず、喉が食べ物を受け付けない。
アゼレアはそんな様子を面白げに眺めながら、赤いブドウを一粒摘み、ゆっくりと口に運んだ。
「昨夜のこと……気にしているのかしら?」
その言葉に心臓が跳ねる。
けれど、わたしは笑顔を崩さず、かすれた声で答えた。
「いえ……アゼレア様の御心を理解いたしました。」
「そう。ならよいのだけれど」
アゼレアはブドウの房を卓に置き、視線を鋭く細めた。
「この屋敷で生きるには、それなりの覚悟が要るわ。あなたがただの幼子で終わるのなら、ここに居場所はない」
その声音は柔らかく微笑んでいるのに、背筋を凍らせるほどの冷たさを帯びていた。
そして、ゆっくりとナイフを持ち上げる。
卓上のリンゴを薄く切り分けながら、淡々とアゼレアは続けた。
「だから、あなたに一つ……試練を与えることにしましょう」
切り分けられたリンゴの赤が、血のように見える。
「この屋敷の地下倉で働く使用人たちに、今日中に倉庫の整理をさせなさい。彼らは読み書きもままならない者ばかり。あなたが仕切らなければ、到底終わらないでしょうね」
「……え?」
思わず声が漏れる。
……倉庫の整理? 使用人に指示?
「わたしには、到底無理だと――」
「できなければ……無能と判断するしかないわ」
アゼレアは切り分けたリンゴを口に運び、紅の唇を冷たくほころばせた。
「無能な者は……この屋敷には不要よ」
嫌な汗が背中を伝う。
昨夜の侍女の姿が脳裏に浮かんだ。
……これ……難題だ!
机の下でぎゅっと手を握りしめる。
その瞬間、窓辺にかすかな揺らめきが現れた。
妖精たちが、小さな手で応援するかのように拳を振っている。
……うん。やるしかないね。
わたしは深く息を吸い込み、恐怖を押し殺して答えた。
「承知しました……やり遂げてみせます」
アゼレアの琥珀色の瞳が、愉快そうに細められる。
「ふふ……いい返事ね。楽しみにしているわ、ルルーナ」
こうして、屋敷に来て最初の朝。
わたしは命を懸けた試練を課せられることとなった。
◇ ◆ ◇
重たい鉄の扉が、きぃ……と低い音を立てて開かれた。
鼻をつくのは、湿気と古い木の匂い。
ほんのりとカビの気配も混じっている。
わたしは、思わず一歩下がりそうになるのを堪えて、胸を張った。
階段を降りると、そこは広い地下倉だった。
天井は低く、石造りの壁に並んだ松明がぱちぱちと火を吐いている。
奥には積み上げられた木箱や樽、布にくるまれた包みが乱雑に並んでいて、通路すら半ば塞がれていた。
足を踏み入れるたびに粉塵がふわりと舞い上がり、灯りに白く反射する。
……う、うわぁ。これは、思った以上に。
心の中で声にならぬ悲鳴を上げた。
机の上に積まれている帳簿の山は、まるで崩れた小山のよう。紙はしけって角が丸まり、文字も滲んで読めるのかどうかも怪しい。
これを片づけろ、とアゼレアは言ったのだ。
無茶もいいところだ。
「嬢ちゃん、ここだよ」
がらがらとした声で案内したのは、倉庫係の年配の使用人だった。腰を曲げ、手はススと粉に染まりきっている。
後ろに立つのは二人の男衆、同じく逞しい腕をした者ばかりだ。
その視線は小さなお嬢さんに何ができるのか、と言いたげで、正直に言えば冷ややかですらあった。
それもそうだろう。
五歳児に何か期待するほうが、おかしい。
わたしの後ろに控える若い侍女も、少し心配そうに眉をひそめている。彼女は初日に食事を運んできた侍女だ。
アゼレアが監督と称してわたしに付けた存在。
明るい茶髪で、柔らかい雰囲気を持った侍女。
だけど、気は抜けない。
きっとわたしが怠けたり、ズルをしないか監視の役目も兼ねているのだろう。
そんなのわかってる。
だから、ここで怯んでなどいられない。
「……ええと、まずは状況を把握しましょう」
わたしは、机に積まれた帳簿の束をぱらぱらとめくった。案の定、文字がかすれて判読しづらいものも多い。
数字ばかりが並び、しかも誰も整理した形跡がない。
「この帳簿、読める方は……?」
恐る恐る問いかけると、年配の使用人は頭をがりがり掻いた。
「嬢ちゃん、俺たちは字なんざ読めねぇ。箱の中身は分かる。重さ、匂い、刻印。そういうのは身体で覚えてる。でも、紙にゃ用がねぇ」
「……そうですか」
わたしは、侍女の方へ視線を移した。
彼女は少し困ったように目を伏せたが、すぐに小さく頷いた。
「読み書きはできます。ただ……お嬢様の課題に、私が手を貸しては――」
「手は貸さなくてかまいません。ただ、読んだり、書いたりしてくだされば。それ以上は、わたしが考えます」
侍女は驚いたように目を見開いたが、やがて観念したように「……承知いたしました」と囁いた。
わたしは帳簿を手で押さえながら、ちらりと乱雑に積まれた樽を見渡す。
丸い刻印。
三角の焼き印。
側面には見慣れぬ印字。
……字が読めないなら……わたしが絵を描けば、この人たちの経験と結びつけられるかも。
これなら、なんとかなりそうだと思った。
きっと、突破口はここにある。
ここまで拙い文を読んでいただきありがとうございます!
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