48話 幽霊商人 ~赤き魔性~
五の鐘が鳴り、報告書を書き終えると役所をあとにした。
ずっと張り詰めていた空気から解放され、わたしは馬車に乗って家へ帰る。
馬車の中で一人の時間を過ごしていると、自然と昼間の記憶が蘇ってきた。
やはり強く思い出すのは、行商風の人物もそうだが、あの場にエステラとアイナがなぜいたのかということ。
……どう聞けば自然かなぁ。わたしがあの場にいたのは、もちろん秘密だし。だとしたら……。
馬車から降り、ジークに挨拶を済ませると、商会の前でお父さんと合流して家へと向かう。
「今日はどうだった?」
まるで、娘の初仕事を知っていたかのような口ぶりだ。
「お父さん、知ってたの?」
……どこまで、話していいんだろう。
「そりゃなぁ。昨日の夕方には打診があったぞ。トランの補佐をしたんだろ? いやぁ、その歳で役所の事務官筆頭の補佐だぞ? 鼻が高くなりすぎちまう」
……こりゃあ、ただ計算だったり、報告書をまとめるだけだと思ってるね。
「ま、まぁね……講義よりも、順調にできたかなぁ」
「所長の講義を受けてたんだ。平民の仕事ぐらいだったら楽勝だろ?」
……ん? 厳しさ知ってるの?
「お父さん、所長の厳しさって有名だったりする?」
「おう。よく役所仲間がたまに愚痴ってるというか、戦々恐々してるよ。最近は、優秀な貴族のお嬢様に付きっきりで、みんな助かってるらしいぞ」
お父さんのニヤニヤが止まらない。
「お嬢様だってよ。がははははっ」
……あっちこっちで勘違いしてるのね。頼むから娘自慢はやめてね。
他愛もない話をしながら帰宅する。
緊張まみれで、締め付けられていた気持ちが楽になる。
……やっぱりこういう時間って大事だよね。
帰宅すると、夕食のいい香りが玄関まで漂っていた。
「ただいま~」
「「おかえり」」
夕食の準備をしていたお母さんとエステラの声だ。
部屋を見渡すと、春が近いためか、大きさの違う編み途中の籠が散見される。
「お姉ちゃん、これどうするの?」
準備中のエステラが振り返る。
「ああそれね。孤児院の子たちの分も作ってるんだよ。アイナに聞いたら一緒に行くって言ってね」
お玉をくるくると器用に回しながらエステラが答える。
「それでこの量なんだね」
「そっ」
「今日も孤児院で作ってたの?」
「アイナが休みだからね。作り方も含めて、みんなに教えてたの。まだ作りかけだし、明日もその続きかなぁ」
……一応、筋は通ってる。今日、姿を見てなかったら信じちゃったな。
「ルルも来る?」
「明日はお仕事あるから……」
エステラはポンっと手を打つ。
「あっ、そっか。トランさんの補佐? だっけ」
「そっ。補佐」
それを聞いていたお母さんが口を開く。
「ほら、エステラ。焦げ付くわよ」
「おわぁっ」
お母さんも肩越しに振り返り「ルルーナ、この前は酷い顔だったわよ。あまり無理しちゃだめよ」と、心配顔だ。
「うん」
明日も行くので、なんだか罪悪感がすごい。
そういえば、トランは五歳児と仕事をすることをどう思っているんだろう。
あの様子を見る限り、問題はなさそうだが……。
……いや、やめよう。
これ以上、余計なことを考えると、胃が痛くなりそうだ。
五歳児がストレスで胃痛持ちになりそうとは……よくよく考えると酷い状況だ。
◇ ◆ ◇
今日は、行商風の男を探るため、トランと二人で倉庫街に潜んでいる。
ここは昼間でも薄暗く、湿った空気が肌にまとわりつく。
あまり足を運びたくなるような場所ではないが、これも仕事だ。
遊びでも講義でもない。
わたしは、ふぅっと息を吐いて、気持ちを整える。
……遠くからでも、見極める……。焦らない、焦らない……。
荷車を押しながら通りを行き来する男の姿と行商風の男。
昨日見た、かすれた文字の幌だ。やはりトバの二文字が、辛うじて確認できる。
今日は馬を連れている。どこかへ搬送でもするのだろうか。
「……怪しい動きだ。嬢ちゃん」
トランの声音に真剣みが増すのを感じる。視線は男に釘付けだ。
……昨日、わたしが見た動きかもしれない。
わたしには何も見えない。けれど、トランの観察力は確かだ。
小さな手の動き、荷車の押し方、通りすがりの者に気づかれぬよう行動している様子。
すべてが計算されているように見えるとトランは言う。
わたしも紙を取り出し、メモを取る。
昨日の現場の描写、幌の文字、男の行動パターン。
まだ、名前は断定できない行商風の男として記録する。
「このまま監視を続けます」
トランが視線はそのままで、わたしの言葉に頷いた。
その時、倉庫の影からふと二人の少女が現れる。エステラとアイナだ。
……っ、よりによって二人も……!
でも、飛び出すわけにも、声をかけるわけにもいかない。
……泳がせる方が重要……!
今日の二人は荷車の男を追っているらしく、影に身を潜めながらも鋭い視線を向ける。
どうして二人もと、わたしの胸は不安で締めつけられるが、冷静に記録に集中する。
……ふぅ、今は遠目から全てを記録……何か証拠になるはず。
荷車を押す影と馬を引き歩く行商風の男、倉庫街の雑踏。
視界の端で揺れる二人の髪。わたしは息を殺してこれを見守る。
ここで手を出せば、全ての監視が台無しになる。
泳がせること。それが今、わたしにできる最善の行動だ。
細い路地を抜けると、荷車を馬に引かせる準備が整ったようで、ついに男二人はゆっくりと移動を開始した。
街外れの倉庫街を、遠目に荷馬車の姿を捉えながら、わたしはトランとともに慎重に尾行する。
……ふぅ……やっと止まりそう。やっぱりここが、何かの現場なのね。
それは、かつて地図上で精霊たちが示していた場所の近くだった。
荷馬車を慎重に操る男の姿に、わたしの緊張が高まる。
馬が引くことによる揺れで、荷台の小さな影が見え隠れしているのだ。
……子供?
エステラとアイナは別の角度から現場を監視しているようだ。
遠目でも、二人の背筋はピンと伸びていて、あちらの緊張も伝わってくる。
西日が倉庫の壁に長い影を落とす。
まだ夜ではないのに、倉庫街はひと気がなく、伸びた影のせいで余計に不安や緊張感が増した。
男が荷馬車を完全に止め、幌を開ける。
その瞬間、そこに詰め込まれた子供たちの影が見えた。
目を凝らすと、恐怖で震えているのがわかる。
……人身売買……間違いない……。
トランに次の指示を確認しようとした時、倉庫の奥から別の存在が現れた。
豪奢な服に身を包み、角度によって瞳の色が微妙に変わる少女――息を呑むほどの存在感。
二人の男はぴたりと動きを止め、子供たちは硬直した。
「ダズマか……」
低く、しかし確固たる声で少女が名を呼ぶ。
その瞬間、男は慌てて跪き、顔を伏せた。
「アゼレア様……よ、ようこそお越しくださいました。まずはご報告申し上げます」
……え、あの人、今名前を呼ばれた……ダズマ……って。
わたしは驚きのあまり息を呑む。
行商風の男――その存在が、今や一人の少女の命令に従っている。
遠目に見えるエステラとアイナも、男の動きを鋭く見守っている。
二人はまだ影から動かず、現場の全貌を把握しているようだ。
アゼレアと呼ばれた少女の冷ややかな瞳は、まるで全てを見透かしているかのようだ。
わたしは息をひそめ、ノートにかすかな手書きの文字を走らせながら、この一部始終を記録していく。
「あれが? ……ダズマ……だと……」
トランが目を見開き、驚愕の表情を見せたが、すぐに冷静さを取り戻しメモを取っていく。
どういうことか確認したかったが、今は目の前に集中する。
……ここから何が始まるのか……でも、わたしも全部書き留めないと。
現れた一人の少女。
十五歳前後だろうか……けれどその振る舞いは歳相応のものではなかった。
落ち着き払った足取りと、他人を値踏みするような冷たい眼差し。
その雰囲気だけで、ただ者ではないと分かる。
アゼレアと呼ばれた少女は、夕日の光を受けて立ち止まる。
少女でありながら、その立ち姿は威圧的ですらあった。
「また随分と集めたのね、ダズマ……その荷馬車、重たそうじゃないの?」
「い、いえ……こちらは試しのために選別したものでして。間もなく運び出す手筈でございます」
……運ぶ……!? 子供たちをどこへ……?
「言い訳?」
ダズマは見ていてわかるほどに焦る。
「そ、そのようなことは……も、申し訳ありません。冬の到来が思ったよりも早く、雪解けまで潜伏しておりました」
「……そう」
呼吸することを忘れて、気付けば手も止まっていた。
わたしは慌ててノートに書き留める。
だが、手が震えて、筆の先がカリカリと紙を掻いた。
あの少女を見ているだけで、震えが止まらない。
アゼレアは小さな顎に手を添えて、荷馬車を覗き込む。
その表情は、年相応の少女らしさとはまるで無縁で、淡々とした冷ややかさだけがあった。
「……泣いてばかり。見ていて退屈ね。どうせなら、もう少しマシな素材を揃えられないの?」
ダズマは、さらに低く頭を下げる。
「は、はい! ですが、アゼレア様……商家の子女などは、どうしても警戒が……」
「言い訳は聞き飽きたわ。次こそ私を楽しませなさい。でなければ……」
にっこりと微笑む。その顔は十五歳の少女そのものなのに、背筋が凍りつくほど冷酷だ。
「……わかっているわよね?」
「は、はい。必ず……!」
地面に額を擦りつけるダズマを見下ろす姿は、どう見ても少女とは思えなかった。
……楽しませる? 素材? ……この子、人のことを物扱い……。
わたしは息を殺し、震える手で記録を続けた。
夕日が赤く紙面を染めるたびに、その少女の影が大きく伸びて――まるで、わたしの上に覆いかぶさってくるようだった。
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