42話 小さな調査官 ~踏み込んだ先に~
脳裏に、あの光景が蘇る。
忘れもしない誘拐事件の日。
洗濯場からの帰り、足を滑らせ危うく転びかけたわたしを、抱えて助けてくれた人。
そして、持っていたトマトを「お嬢ちゃんの服も少し汚しちまったな」と、わたしにくれた人だ。
あの出来事で石鹸の秘密を隠そうとして、逆に色々と所長に追及されたんだ。
それも重なって、今は余計に憶えている。
唇がかすかに震える。
「……たぶん、知ってる人です……洗濯場で……トマトをくれた……」
自分でもわかるぐらい気落ちした声だった。
わたしの声を聞いたトランは、少し驚いたようにこちらを見たが、何も言わず目を伏せた。
この寒さのせいで、腐敗がほとんど進行していない状態だったのだろう。
痩せこけた顔は血の気を失い、唇は紫色に変色している。
その顔には、苦しみの跡がはっきりとわかるほど残っていた。
「近所の聞き込みによると、体調を崩してから数日で亡くなったらしい。高熱、咳、全身のだるさ……記録にはそうある。通報があったのが最近で、死亡した正確な日付はわからない。」
トランが感情のない声で、手元の書き付けを読み上げる。
この区画では、人が亡くなるのが日常茶飯事なのだろうか。
亡くなったのは知っていても、最近まで通報がなかったなんて……。
わたしは毛布をそっと元に戻し、深く息を吐いた。
……大丈夫……怖さはあるけど平常心だ。
「さてと……」
改めて周囲を見渡すと、部屋は質素だった。
干からびたパン切れ、洗い桶、そして棚の上に空き瓶が数本、並んでいた。
トランを横目で見れば、机の上の散らばった雑紙を一枚一枚丁寧に確認している。
ふと、部屋の隅に置かれた大きな布袋が目に留まった。
なぜなら、集まってきた様々な精霊たちが、揃って指を差していたからだ。
「トランさん、これ見ても大丈夫ですか?」
「ん? ああ、大丈夫だろう。何か気になったかい?」
袋の口が半分開いていて、中には傷んだトマト。
……色がおかしい。
皮はまだらに黒ずみ、柔らかく溶けかけている。
腐敗特有の匂いの奥に、金属のような刺す臭気が混じっていた。
袋の底には赤黒いどろどろした液体が溜まり、袋をトランに言って横にずらしてもらうと、床板にまで染み出しているのがわかった。
「……こんな腐り方、見たことない」
わたしは膝をつき、そっとトマトを手に取った。
手袋越しでもわかる。
指先にぬるりとした感触がまとわりつき、なんとも気持ちが悪い。
「まぁ、待て嬢ちゃん。念のため、その手袋は外して交換したほうがいい」
「あっ、ごめんなさい」
確認する前に触ってしまった。これは失敗だ。
替えの手袋をわたしに渡したトランが袋を覗き込むと、眉をひそめた。
「処分するために集めてたんだろうな。だが……変だな」
トランがずれた眼鏡を元に戻し、袋の底を確認する。
乾いた部分が粉のように崩れ、まるで何かに侵されたみたいだった。
普通の腐敗とは明らかに違う。
「……トランさん、このトマト、持ち帰って調べた方がいいかもしれません」
「同感だけど……」
わたしの言葉にトランは少し考え込んで、結論を出した。
「いや、ここは魔法である程度保護された空間だ。持ち出すのは逆に危険かもしれない」
言われてみればそうだった。
「じゃぁ、もう少し辺りを調べて……」
そう言いながらも、胸の奥には得体の知れない不安が広がっていく。
ただの食べ物が、こんな風になるなんて……。
それから二人で部屋にあった他の大袋の中身を見ていく。
だが、かなり傷んでいるだけで、先程のような異常なトマトは発見できなかった。
異常があったのは、部屋の一角にあったあの袋のトマトだけだ。
「トランさん、仮定の話ですが……亡くなった原因が病気じゃなくて、このトマトだった場合どうなりますか?」
「どう? ……ん? どういうこと?」
「例えば、ここは貧民街です。この処分用のトマトをお裾分けされたとか、非常に安い値段で買い取った人が病気になっているとか……」
トランはそれを聞いた途端、すぐに地図を確認し始め感染者の多い地域を丸く囲った。
丸く囲った地域が中心から広がるのではなく、少し離れた場所に新たに丸い円が出来上がる。
病気が原因なら、円と円の間の地域が無事なのはなぜだろうか?
偶然もあるだろうが、感染者が多い場所が三か所あり、互いに離れている。
「確認出来ている範囲で約二十三名。その内、四名は既に死亡……重症は死亡した者の近くとは限らない……」
「普通なら、近くにいた人たちから感染していく可能性の方が高いですよね?」
トランが地図を見ながら、目を細めた。
「病気じゃないってことか?」
「そこまでは断定できません。これは所長に現場を見てもらった方が良いと思います。それと念のため聞きますが、この家の近所の方々は感染しているんでしょうか?」
トランが地図と書類を交互に確認していると、不意に動きが止まった。
「してないな……どういうことだ」
「そこまではわかりません」
これ以上ここにいても、わからないだろう。
まずはあの異常なトマトだ。
精霊たちが教えてくれた物だ。
きっと何かあるはず。
◇ ◆ ◇
わたしたちは一度役所へと戻り、トランと調査の報告を済ませた。
所長から特に指摘がなかったのは気になるが、上々の出来だったのではないかと思う。
きっと今頃、執務室で所長も色々と考えていることだろう。
三の鐘が鳴り昼食を済ませると、トランは書類を領主の城へ届けるため早々に講義室から出て行った。
ただ別れ際に「ルルーナ様、今回は非常に良い経験になりました。役所のどの役人よりも仕事を一緒にしていて楽しかったですよ」と、賞賛を送られたのにはちょっとびっくりした。
……敬語になったり、軽口叩いたり、なかなか難しい人だったなぁ。
トランとの仕事は特に詰まる所もなく、終始順調だった。
五歳児のわたしを見えないところでサポートをしてくれていたはずだけど、それも感じさせなかった。
やはり所長が選ぶだけあって、出来る人間を選んだのだろう。
そんな人物から賞賛を世辞とはいえ送られたのだ。
鼻が高くなるのは許してほしいところである。
「うへへぇぇ~……そうですかぁ。わたし、できちゃいますかぁ」
「調査に行った後とは思えないほど、緩んだ顔だな」
聞き慣れた声がして、ピーンっと背筋を伸ばす。
……いつ入ってきたんだろ。
「ノックぐらいして下さい」
「自分の部屋に入るのに許可が必要か?」
……たしかに。
わたしがムスッと言い返すと、ぐうの音が出ない程の正論で返された。
これは無理だ。
「さて、報告書は読んだ。君の感想を聞こう」
「はい」
軽口はここまでだ。
所長が席に着くと雰囲気が変わるのがわかる。
「……う~ん、怖かったです」
「だろうな」
……それだけ?
「それだけか?」
……それを言いたいのはこっちなんですが!
所長は埒が明かないと思ったのか、質問形式に切り替えたようだ。
「東地区を見てどう思った?」
一瞬言葉に詰まったが、あくまでわたしの感想だ。
嘘偽りなく話した方がいいだろう。
「商業区や西地区に比べると、出歩くのが嫌になると思える場所でした」
表情を変えず所長は続ける。
おそらく、予想の範疇だったのだろう。
「君のいた世界に比べると、どの程度だ?」
……現代と? 殺し合いが行われていないだけマシって考えると……。
「全部を知ってるわけじゃないので……わたしの知る限り、最悪より多少マシといったところでしょうか」
「君の知る最悪はどんな場所だ?」
わたしは顎に手を当て考える。
「法の秩序が機能しておらず、殺し合い、奪い合いが日常的に行われている場所といえばわかりやすいかと」
「そこよりはマシということか……これはまた厳しい評価だな」
東地区の道端での子供たちの様子、人々の不安げな視線。
そして、亡くなった人に対する無関心に近い近隣住民の態度に、抱いた感想だ。
食料や安心して寝る場所も確保できない人々が、たぶんいるだろう。
服を着ているだけまだ文明的だけど、本当にギリギリラインだと思う。
「君の考える生活の最低水準はどの辺りだ?」
これは今までの常識を考えるテストだろうか……所長は何かを試しているような気がする。
今まで習ったことから考えると……。
「子供たちが物乞いをしなくてもよい環境を整えるのが、今出来る最善かと……付け加えるならば、犯罪に加担しなければ生きられないような状況もなくすべきかと考えます」
一瞬だが、所長の目元が緩んだ気がした。
「どうかしましたか?」
「君にしては、現実的な良い回答だったと思ってな」
……いいや、そうじゃない。なぁ~んか違う。
「なんだ、その目は」
じーっと、所長をジト目で見ていると、根負けしたのか「やれやれ、なぜ変なところは鋭いんだ」と、理由を話してくれた。
数年前に、わたしと似たようなことを貴族に意見した無鉄砲な平民がいたそうだ。
もちろん、貴族は平民の生活など気にしておらず全く取り合わなかった。
しかし、それでもしつこく訴えたため、不敬罪になる寸前だったという。
「その人は大丈夫だったんですか?」
「結果から言えば、大丈夫だ」
……善良な人が死ななくてよかったよ。
不敬罪を告知された時、あまりにも不当だと商業区の平民たちが声を挙げて役所に押し寄せ、役所は大混乱だったらしい。
その時になって初めて、所長にその揉め事の知らせが入ったんだとか。
「両者の言い分を聞いたうえで、領主に判断を仰いだのだ。下手を打てば暴動になりかねん事態だったからな。その後は、君も知っての通りだ。奴隷制度の廃止に繋がる」
一人の平民の訴えが、制度を変えたところを考えれば、凄いことだ。
でも、良いことばかりじゃない。
その余波で、新たに奴隷から解放された孤児が街に溢れた……。
……なるほどぉ、無鉄砲な平民さんとわたしは同じってことか。
「つまり、わたしはかなりの無茶を言っているということですか?」
「そうではない」
所長は、はっきりと否定した。
「当時と今の状況はまるで違う。今ならば、あの時できなかったことも場合によっては可能な範囲内だ」
そう言って所長は窓の外に目を向けた。
今なら制度があるから、ということだろう。
孤児でも努力次第で生活費を確保することも可能なはず。
それがなかったから、可能な限り孤児院で保護してきたのだろう。
そこまで考えて、あることが頭をよぎる。
……もしかして無鉄砲な平民って、レンさん?
孤児が溢れていた時期に、孤児院は再開したはず。
その時も反対を押し切ってと言っていた。
もしレンならば、商業区の住民からあれだけ慕われているのだ。
レンを助けるために、商業区の住民が立ち上がったとしても不思議はない。
わたしが口を開くよりも早く、所長が告げた。
「今からでは日が沈むな。調査は後日だ」
……あっ! ……あれ? 現場の感想は?
「現場の方はいいんですか?」
「現場は明日、直接行くのだからよかろう。そちらに関しては、事実から判断すればよい」
……レンさんのことも聞きそびれちゃったけど、まぁいっか。
「そうですね……」
今度は所長が探るような視線だ。
目線を逸らしてにらめっこに負けたのは、わたしだった。
「何かあったな? 報告書に記載できない何かが……」
所長が紫色の瞳を細める。
……鋭いなぁ、もぉ。
すでに今日は解散ムードだったのに、これは喋るまで帰れないパターンになってしまった。
隠すことでもないので、さっさと喋ってしまおう。
できれば思い出したくない内容だけれど……。
「妖精……精霊さんが助けてくれました」
「具体的には?」
現場へ入る時の様子や、袋を発見した経緯を話すと所長は顎に手をあて考え始めた。
「主である君を手助けしたと考えるか、気紛れだったのかの判断はつかんな」
「そうなんですか?」
「主になった者の前例がないのでな」
最後はやや呆れ気味の口調だ。
「う~ん、じゃぁトマトは?」
「なんとも言えん。君の調査を手伝ったのか、それとも何か伝えたかったのか……可能性としては後者だな」
あの時の黒猫もそうだったから、伝えようとした可能性が高いと考えるのが妥当だろう。
「明日、調査に行けば何かわかるだろう」
「……はい」
席を立った所長は、わたしの頭にそっと手を置いた。
「酷い顔だぞ。ゆっくり休みなさい……今日は良くやった」
そう言うと、所長は講義室から退出していった。
規則正しい靴の音が少しずつ遠ざかって行くのがわかる。
……酷い顔? ……ん? 今……わたし褒められた?
「いぃぃぃやっほぉぉぉぉ~!」
……所長に褒められちゃったぁ。
家族以外の人に、こんなふうに認めてもらえたのは、初めて。
わたしみたいな異世界の人間が、ここに居てもいいんだって思えた。
それは、なんだかとっても嬉しかった。
ここまで拙い文を読んでいただきありがとうございます!
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