88話 嘲笑されるもの ~貴族の世界1~
馬車は石畳を小刻みに揺らしながら、ゆっくりと街道を進んでいた。
窓の外には、まだ朝靄の残るサンドレアムの街並みが流れていく。
通りを行き交う人々の視線が、ちらちらとこちらに向けられているのがわかる。
護衛を伴う一行は、嫌でも目立つのだ。
座席に腰掛けたまま、わたしは手を強く握りしめていた。
掌がじっとりと汗ばんでいる。
心臓の音がやけに大きく響いて、馬車の軋む音すら遠のいていくように感じられた。
ふと、アゼレアの低い声が響いた。
「いいか、ここからは公の場だ」
「……うん」
……ここからは完全に貴族の世界。
「私が先を歩く。頭を下げ、脇に道を開けたら――相手は上位者だと思え」
「わかった」
「それと、こちらから先に話しかけることは駄目だ。上位者との会話は、向こうから振られるまで待て」
わたしは深く頷いた。
そんなわたしの様子に、アゼレアはふっと口元を緩めた。
「よし。それと肩の力を抜け……睨まれたら、睨み返すぐらいで丁度いい」
「ありがとう。アゼレア」
言葉にすると、心の奥の硬さが少しだけやわらいだ。
わたしの足元で小さな光がふわりと舞い、精霊たちがそっと寄り添ってくる。
……うん。頑張るよ。
馬車がゆっくりと止まり、外の護衛の声が響いた。
「到着しました」
扉が開かれると、目の前にそびえるのは石造りの堂々たる建物。
城ではない。
領都の貴族たちが会合や式典に用いる重厚な館――今日の審問会は、ここで行われるのだ。
玄関から中へ入ると、広い大理石の床に靴音が響き、壁には各アードの紋章旗が整然と掛けられていた。
豪華でありながら、どこか冷たい。
足を踏み入れただけで、ここは貴族の領分だと突きつけられるようだった。
廊下を進む途中、すでに傍聴に来ているらしい数人の貴族たちとすれ違う。
彼らは会釈をするでもなく道を開け、値踏みするような視線を向けてきた。
おそらく中級、もしくは下級貴族だろう。
その瞳に潜む好奇心と薄笑いを浮かべる表情に、思わず俯きそうになる。
だが、アゼレアは動じることなく前を歩き続ける。
わたしはアゼレア背中を追いながら、視線の刃を浴び続けた。
そんな中、周りからの視線を遮るようにマテオが通路側を、そしてロエナとエルネストが後ろに続く。
やがて通されたのは控えの客室だった。
ふぅと息を吐き、席に腰を下ろす。
わたしがエルネストに顔を向けると、彼は小さく頷いた。
……予定通り、部屋の外はお願いします。
わたしも頷き返すと、扉が閉じられる。
廊下の声が遠ざかり、わずかな静けさが戻った。
マテオは書類の確認、ロエナは茶の準備を始めた。
「お嬢様、冷めないうちにどうぞ」
「ありがとう、ロエナ」
ロエナが茶器を整え、湯気の立つカップを差し出してくれた。
顔には出さないが、緊張で少し震える手元が見えた。
……わたしだけじゃない。ロエナだって、怖いよね。
温かさが掌に広がると、少しだけ呼吸が落ち着く。
「さて……予想通りの反応だな。平民の代理を物珍しさで観に来たのか、私を嘲笑いに来たのか」
アゼレアが、腕を組みながら低く呟いた。
「やはり、公開審問にされましたね。アード・ロッタは証拠がなくとも周りの貴族を巻き込み、言葉で押し潰そうとするはずです」
マテオが冷静に答える。
アゼレアは小さく頷くと、わたしに顔を向けた。
「ああ、公開であれば罵声で揺さぶるつもりだろう。狙いは明らかだ」
「なら、対策は昨日の通り……?」
わたしが口を開くと、アゼレアはこちらをまっすぐに見据えた。
「そうだな。証拠は無いのだ。奴らが求めているのは、お前の隙だ」
……隙かぁ。
「言葉の取りこぼしも、怯えた素振りも、全てが武器になる。質問には短く答えるんだ。余計な言葉は相手に口実を与えるだけだ」
「……短く」
言葉の重みが胸に沈む。
わかっていても、実際に口を開く場面を思うと喉が乾く。
「代理殿、質問の中の言葉をそのまま認めてはいけません。例えば、お前が不正を黙認したのかと問われたら、不正など存在しませんと切り返すのです。黙認か否かではなく、前提を崩すのです」
「前提を……崩す……」
小さく復唱すると、マテオは満足そうに頷いた。
アゼレアも小さく頷いて続ける。
「そうすれば、相手の仕掛けが逆に露わになる。落ち着いて、言葉の裏を見抜けばいい」
その言葉に、心臓の鼓動がまた強く脈打つ。
平静を装っているけど、まるで落ち着かない。
呼び出されるまで、もう少しだけ時間がある。
そのわずかな静けさの中で、わたしは深く息を吐いた。
……平常心、落ち着けわたし。
カツッ、カツッと静まり返った部屋に、扉の向こうから足音が響く。
わたしの膝の上に乗っていた精霊たちが、ぴょこんと降り始める。
……そろそろ、かな。
足音が近づくたび、扉の向こうでざわめきが広がっていく気配がした。




