86話 晴れのち嵐 ~警告する刃2~
わかっている。
ロッタの誇る松脂産業を、セイレナの樹液が丸ごと飲み込もうとしている。
接着剤に防水加工。
あれは、彼らにとって命綱みたいな産業だ。
それを奪われるかもしれないのだから、恨まれないはずがない。
けれど、それをわざわざ口にする気にはなれなかった。
「……さあ、なんでしょうね」
曖昧に笑って答えると、レックナートは満足げに「はは」と笑った。
「ああ、そうだな。何もやっちゃいないよな」
まさか、そんな言葉が返ってくるとは思わなかった。
てっきり、追及されるものだと身構えていたのに。
「貴殿はバニアから任命され、職務を全うした。それだけだ」
レックナートの声には妙な温かさがあった。
けれど、何が言いたいのかまでは掴めない。
「俺は見たものしか信じない。アード・ロッタがどれだけ悪評を流そうと、俺は全く気にせん」
……それって、どういう意味?
考えを巡らせる間もなく、レックナートは真顔で言った。
「一ついいことを教えてやる。なぜ、平民の貴殿が代理を任されたのか、わかるか?」
「それは……アゼレアの後任を認める署名があったからでは?」
レックナートは眉を少しだけ上げ、低い声で言う。
「それだけで平民が代理になれるとでも思っていたのか? あまり貴族をなめるなよ」
その眼光に背筋が冷たくなった。
はじめて、この男を恐ろしいと思った。
「当時は労働力不足、メネズのせいで財政難、貴族も不足。そして、メネズ派とアゼレア派の内輪揉め」
……改めて聞くと、本当に酷い状況だったんだ……。
「ハイメンダル領との内通を疑われ、さらにはハイメンダル側の面子を潰し、睨まれている土地だ。そんな土地のアードに誰が立候補する?」
「……そうですね。誰もいません」
レックナートが頷く。
「そうだろう。だから都合のいい貴殿だったのだよ。アゼレア殿の助命があったとはいえ、再生できれば良し。できなければ、いつでも席を挿げ替えられるように、平民の貴殿が選ばれた」
……そういうことか。
納得すると同時に、胸の奥に苦いものが広がった。
結局、貴族から見れば、わたしはただの「駒」だったんだ。
そんなわたしの気持ちをよそに、レックナートは続けた。
「俺が東地域をざっと視察したところ、トバルは財政難をひっくり返し、急成長だ。そして、ロッタとはどんどん差が開いている」
……だから余計に敵視されてる。
胸の奥で小さく呟いたその瞬間、レックナートの目が鋭く光った。
「いつ牙をむくかわからんぞ」
何を意味しているのか考えるより早く、冷たい感触が首元に触れた。
いつ抜いたのかすらわからない。
レックナートの剣先が、わたしの喉元にぴたりと突きつけられていた。
「貴族を甘く見るな」
低く、ぞくりとする声。
笑いながら語っていたさっきまでとは、まるで別人のようだった。
一瞬でも気を抜けば、この人は本当に首を斬るんじゃないか――そう錯覚するほどの圧。
遅れて状況を理解すると、心臓が一気に跳ね上がる。
「――っ!」
だが、次の瞬間、すっと剣は鞘へ戻された。
「な、何を……」
腰を抜かしたロエナが、呆然とした声を漏らす。
わたしも声が出ない。
今の一瞬、あまりに速すぎて頭が追いつかない。
レックナートはそんなわたしたちを一瞥すると、ゆっくりと席を立った。
「覚えておけ、アード代理」
いつもの豪快な調子ではなく、冷ややかな声音。
「トバルは再生した。ゆえに、いつ反領主派がその命を狙うとも限らん。アードの首を挿げ替えることなど容易い」
視線が突き刺さる。
「お前の命は、軽い」
無表情のまま言い切ると、レックナートは背を向けて部屋を後にした。
足音が遠ざかるまで、わたしもロエナも、ただ息を詰めて固まっていた。
◇ ◆ ◇
しばらくして、ロエナを伴って執務室へ戻った。
「ただいま……」
声が少し震えていたのだろう。
アゼレアが椅子から立ち上がり、鋭い目を向けてくる。
「何があった?」
その一言に、ロエナが思わず目を伏せた。
わたしは深呼吸をして、客室での出来事を簡潔にまとめて伝えた。
アゼレアは黙って聞き終えると、静かに口を開く。
「完全にこちらの落ち度だ。マテオ、警備は何人だ?」
呼ばれたマテオがすぐに答える。
「三十程。うち五名は休憩中です」
「常備兵は?」
「調査隊八十、警邏と門番が五十程、邸の警護に三十名です」
アゼレアは顎に手を当て、何かを思案していた。
戦力のことなんてよくわからない。
でも、雰囲気で不足しているのは理解できた。
「それって……少ないの?」
気になって口に出すと、マテオが首を横に振った。
「いえ、トバルの立地を考えれば少なすぎるわけではありません。ただ、もう五十名は欲しいところです」
「……」
……やっぱり足りないんだ。
胸の奥がずんと重くなる。
「アゼレア?」
不安に駆られて視線を向けると、アゼレアの琥珀色の瞳が静かにこちらを見返し、緩く首を振った。
「いや、数の問題ではない」
「んっ? それって……」
アゼレアが、マテオに視線を移す。
「そもそも、レックナートはどうやって邸に入った?」
「――っ!」
その問いに、マテオの表情が固まった。
返す言葉が見つからないようだ。
……言われてみれば。
わたしも頭を捻った。
レックナートが来たとき、門兵に止められた様子なんて一切なかった。
いつの間にか孤児の教室にいて、好き放題に話をしていた。
アゼレアは低い声で続ける。
「門兵からも、邸の者からも連絡は来ていない。レックナートを見たのは、フェルト爺と子供たち、そして――」
アゼレアの瞳が、まっすぐにわたしを射抜いた。
「つまり、潜入したってこと?」
頷くアゼレアの顔が、いつも以上に冷たく見える。
「マテオ、すぐに確認しろ」
「はっ」
マテオが足早に退出すると、アゼレアは机の前で手を組み、視線を落とした。
その横顔を見ると、事の大きさがわかる。
「しかし読めん。潜入したのに、わざわざ姿を見せる理由が……」
その言葉に、わたしも考え込む。
……潜入できるなら、そのまま気づかれずに去ることだってできたはず。
「ねぇ、警告をしに来てくれたんじゃ?」
思いつきを口にすると、アゼレアは小さく頷き、琥珀色の瞳がわずかに細められた。
「……それも考えられる。しかし、なぜ我々に警告を?」
「領主派だから?」
「今の情報からは、そう考えるしかないが……」
わたしはアゼレアの表情に、まだ何かを抱えている気配を感じ取る。
「他にも、何かありそう?」
「もしも反領主派だった場合、挑発とみていいだろう」
「挑発?」
「いつでも殺せる――そう言っているんだ」
「ひっ!」
変な声が漏れてしまった。
……だめ、思い出すだけで心臓がバクバクする。
「じゃ、じゃあ、どうして今じゃなかったの?」
必死に声を整えて尋ねると、アゼレアは首を振る。
「そこが引っかかる。新産業が軌道に乗るのを待っているのか、本当にただの挑発か」
アゼレアの声にも迷いが混じっていた。
彼女でさえ判断ができないのだ。
「もう一つ。日中にもかかわらず、誰にも悟られずに教室にいた。この警備の中をだ」
「潜入が……巧いだけじゃ?」
声が震えて情けない。
「他にもあるだろう。相手を欺く道具が」
その言葉に、禁制品――あの単語が脳裏をよぎり、息が詰まった。
「禁、制品?」
怖いのに口を開いてしまった。
わたしの答えにアゼレアが頷く。
「徴税官として各地を回っていれば、村に顔を出すのも納得できる。堂々と出入りする口実になる。そして、収穫祭の時期にトバルを訪れていた……」
頭の奥がじんじんする。
処刑されたはずの人間の影が、レックナートの姿に重なって見えた。
……本当に、そんなのありえるの?
つまり、彼こそ、ダズマである可能性が高い。
アゼレアがゆっくりと席を立ち、わたしに歩み寄る。
両肩にそっと手を置かれ、琥珀色の瞳と目が合った。
「安心しろ。無理矢理導いた仮定の話だ」
いつもの優しいアゼレアの目だ。
低い声には、少しだけ温かさが混じっている。
「……うん」
「だが、警戒するに越したことはない」
「うん」
わたしは深く息を吐き出し、こわばっていた肩の力をようやく抜いた。




