86話 晴れのち嵐 ~警告する刃1~
水の月、前節。
窓の外から吹き込む風が、もう春の終わりを告げていた。
少し湿り気を帯びた空気に、じきに夏がやってくるのだと感じる。
わたしは机の上に差し出された報告書に目を通す。
「接着剤と防水加工、どちらも試作の効果は出ております。ただし、まだ耐久性や費用の点で課題が残っております」
マテオの言葉に、胸の奥がすっと軽くなった。
これもみんなと考えた成果だと思うと、自然と頬が緩む。
「……よかった。方向性は合ってたんだね」
大きな壁は越えた。
あとは、時間をかけて職人たちが改良を進めてくれるだろう。
けれど、安堵の気持ちは長くは続かなかった。
マテオが次の書簡を取り出して、静かに口を開く。
「トバル近隣の集落の調査報告です。交易都市ロッタに近い集落で、金貨の交換が確認されました」
「はぁ、やっぱり」
ため息が口からこぼれる。
あの嫌な響きが、再び戻ってきた気がした。
忙しいのに、横からチクチクと横槍を入れられる気分だ。
「はい。本人の話では、ほぼ前回と同じ状況でした。ただ、今回は偽金貨の回収ができませんでした」
「どうして?」
「すでにロッタで取引をした後だったのです」
答えを聞いた瞬間、背筋が冷たくなる。
「でも……偽金貨なら、相手にバレるんじゃないの?」
マテオは首を横に振った。
「それが……重さを計らない、かなり杜撰な取引だったようで」
「ええっ……」
言葉が出ない。
そんな雑な取引でも成立してしまうのが、逆に恐ろしかった。
「本人も偽金貨と知らずに使ってしまったようです。今は罪に問われるのではないかと怯えております」
執務室に重い空気が広がる。
わたしも、同じように胸が締めつけられた。
その中で、アゼレアだけが落ち着いた声を出す。
「しかし、偽金貨を掴まされたという証拠はないんだな?」
「はい。同じ内容なので可能性は高いですが、あくまで状況証拠にすぎません」
報告の声が途切れると、部屋の中はしんと静まり返った。
窓からの風がカーテンを揺らし、ひとときのざわめきが響くだけだった。
◇ ◆ ◇
良い知らせの後に悪い知らせを聞かされて、胸の奥が重たく沈んでいた。
机に向かっていても考えがまとまらないので、気分転換も兼ねて執務室を出ることにした。
すぐに気配を察したロエナが後を追ってくる。
切り替えなくちゃと思うのに、歩きながらも、頭の中ではさっきの話がぐるぐると回っていた。
……ロッタの目的って、偽金貨で信用を落とすだけなの?
そんな単純なことのために、あんな手間をかけるだろうか。
他に狙いがある気がしてならない。
そして、ダズマ。
処刑されたはずの男の名前が、なぜ今になって浮かび上がるのか。
偽金貨の裏に本当にいるのだとしたら、不気味で仕方がない。
わたしは中庭へ出て空を見上げると、ぶ厚い雲が覆っていた。
中庭の大きな木。
そこにはいつも通り見上げ入道が大きな背を丸めて、ひたすら空を睨んでいる。
ここだけは、どんな日も変わらない。
……ねぇ、今日は降りそう?
心の中で問いかけると、入道はちらりともこちらを見ずに、静かに首を横に振った。
……そっか。ありがとう。
少しだけ肩の力が抜ける。
「今日は晴れそうね」
わたしの言葉に、隣を歩くロエナが小首を傾げた。
「お嬢様、あの雲を見ていると、今にも雨が降りそうですが?」
「降っても長くないよ。きっと」
ロエナは不思議そうに「そうなんですか……」と、空を見上げた。
そんな他愛もない会話をしていると、邸の奥から子供たちの大きな歓声が聞こえてきた。
「なにかあったのかな?」
重たい考えから一瞬解き放たれたように、自然と足がそちらへ向かっていた。
子供たちの歓声に引かれるように部屋をのぞくと、その中心にいたのは――レックナートだった。
大げさな身振りで両手を広げ、声を張り上げている。
「でな! あの巨体のイノシシが突っ込んできたっ! 俺はひるまず正面から構えて――」
わたしは自分の目を疑った。
……なんで、ここにいるのよ。
「すごぉい!」
「ほんとに? そんなの倒せるの?」
子供たちが目を輝かせて身を乗り出す。
レックナートは胸をどんと叩き、にやりと笑った。
「ふん、俺を誰だと思ってる。レックナート様だぞ!」
隣のロエナも同じ気持ちらしく、口元を引きつらせながら小声で呟く。
「お嬢様……どうしてレックナート様が教室に?」
……ロエナ、それはわたしが知りたいよ。
「さあ? 聞いてみないことには……」
邪魔をするつもりはないけれど、わたしは教室へ一歩足を踏み入れ、レックナートに声をかける。
「レックナート様、どうしてこちらへ?」
ピタリと手を止め、こちらを振り返ったレックナートが口の端を上げた。
「ん? なんだ、アード代理も俺の話が聞きたくなったのか? いいぞ、そこへ座れ!」
子供たちが「お嬢様も一緒!」と面白がって机を叩く。
……だめだ、こりゃ。
わたしは思わず困り顔になった。
すると、少し離れたところで様子を見ていたフェルトが、にこりと笑って一歩前に出た。
「代理殿、息抜きも必要ですぞ。こういう時間も大事かと」
わたしは「えぇ……」と声を漏らしたものの、椅子を勧められては断れない。
渋々腰を下ろすと、子供たちと同じ目線でレックナートの顔を見上げた。
レックナートは得意満面に腕を組み、声を張る。
「よし! それじゃあ続きを聞かせてやろう。あの時の俺の見事な剣さばきは――」
子供たちが「わぁー!」と拍手する中、わたしはただ苦笑いを浮かべるしかなかった。
けれど、不思議と心は少し軽くなっていた。
しばらく耳を傾けていると、レックナートの話には不思議と人を引き付ける力があるのだと思った。
身振り手振りを交え、声に抑揚をつけるからだろうか。
気づけば、わたしまで前のめりになって聞いていた。
「そこで俺は言ったんだ。取引に計りを使わないとは、どういうつもりだ、と」
……ん?
その言葉に思わず眉をひそめる。
なんだか、耳慣れた話に似ている気がする。
「俺はピンときた。こいつ、俺に偽金を掴ませようとしているな、と」
「それで、それで?」
子供たちが一斉に声を上げ、机を叩いて続きをせがむ。
レックナートは得意げに顎をしゃくり上げた。
「俺の目は誤魔化せん。それを見抜いた俺は、こっそり計りにその金貨をかけてやったのさ!」
「すげーっ!」
子供たちが大喜びで身を乗り出す。
……ちょ、ちょっと待って。それって……もしかして……。
話し終えたレックナートは満足そうに胸を張り、鼻を鳴らした。
「どうだ、これが俺の見事な勘と経験ってやつよ!」
子供たちは口々に「かっこいい!」「レックナート様すげー!」と拍手を送る。
その賑やかな輪の中で、わたしだけはじっとレックナートを見つめていた。
熱気に包まれていた教室をあとにして、客室にレックナートを案内し、ようやく腰を落ち着ける。
ロエナがお茶を用意し、一息つく。
「それで、どうしてこちらへ?」
「俺は徴税官だぞ? グラベルの帰りに決まっているだろう」
……お仕事帰りか。
「いえ、そうではなく、なぜ孤児の教室へ?」
「俺の凄さを知らしめるためだ!」
わかりきったことを聞くなと言うように、自信満々で返された。
……子供相手に知らしめてどうすんのよ。
「そ、そうですか」
渋々姿勢を正し、話を切り替える。
「先程のお話の中に、偽金貨の件がありました。あれはどちらで?」
レックナートが眉を上げる。
「興味があるのか?」
わたしは静かに頷いた。
「ロッタだ」
……やっぱり。
「なんだ、驚かないのか」
「いいえ、レックナート様がその話をしたときは驚きました」
話を聞けば、それは家畜を買いに来た村人との交換で手に入れたものだったらしい。
「アード・ロッタに管理不足を指摘したがな」
……うん、レックナートに怪しいところはない。ただの当たり前の行動。
「アード・ロッタは何と?」
「それは言えん。報告する相手が違う」
それ以上は口を閉ざすと思ったが、レックナートはおもしろそうに口の端をあげて続けた。
「アード代理、随分と恨まれているな? 何をやった?」
……何をやった、か。




