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私の秘密は増えてゆく ~この幸せを守るため――だからわたしは仮面をかぶる~  作者: 月城 葵
四章   新しい風が呼び込んだもの

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87話  静かな帰還 ~本当は嬉しいはずなのに2~



 馬車の中には、わたしとアゼレア、それにロエナ。

 外では、エルネストとマテオが馬上から隊列を見守り、十名の部下が護衛として列を組む。


 御者の手綱捌きに合わせて車輪がきしみ、石畳を踏みしめて進んでいく。


 足元では、いつの間にか古狸が丸まって眠っていた。

 のんきな寝息が、ほんの少し緊張を和らげてくれる。


 トバルの門を抜けると、広がるのはもう初夏の気配。

 畑には新緑が芽吹き、早くも次の収穫へ向けて人々が忙しく働いている姿が見えた。


 街道を進むにつれ、緑の濃さが増していく。

 林は生い茂り、木々の葉が陽を遮って涼しい影を落とす。

 蛇行した小川を渡ると、車輪がごとりと揺れ、冷たい水の飛沫が光をはじいた。


 やがて道は山道へと変わり、緩やかな坂を登るたびに、空気が澄んでいくのを感じる。


 鳥の声が響き、葉擦れの音が耳に心地よく広がった。


 ――そして。


 西日に照らされ、大きな影をつくっている懐かしい東門が視界に現れた。


 石造りの門壁は変わらず堂々と立ち、かつて暮らした街の匂いが風に乗って届いてくる。


 ……帰ってきた。


 街を出てから、もう一年と三ヶ月。

 馬車の窓から覗く大通りは、人々の賑わいも、店の佇まいもほとんど変わらない。


 本当は嬉しいはずなのに、ちっとも喜べない。


「ここが領都ですか……」


 ロエナが馬車の小窓から外を覗き、そう呟いた。


「うん。だいぶ、トバルと違うでしょ?」

「はい……なんというか、人が多いですね」


 ロエナなりの気遣いかもしれない。

 言葉数少ないわたしを、心配してくれている。


 中央広場を過ぎると、役所も見えてきた。


 あの場所で学んだ日々、笑ったこと、泣いたこと。

 見覚えのある風景が次々と目に飛び込み、何もかもが愛おしい。


 ……みんなに会いたい……。


 でも、今は公務だ。

 巻き込んではいけない。

 自分にそう言い聞かせる。


 やがて馬車は貴族街への門を抜けた。

 石畳は広く整えられ、周囲の建物も堂々とした造りに変わる。


 ……この緩やかな坂も懐かしいな……所長の屋敷は、たしかあっちの方角だったかな。


 少し視線を巡らせていると、馬車ががくりと揺れて止まった。


「着いたぞ」


 アゼレアのキリっと引き締まった声が告げた。


「ここが……」


 その声を聞いて、窓の外を覗く。

 到着した場所は、貴族街の一角にある、アゼレアの屋敷だった。


「お帰りなさいませ、アゼレア様」

「ようこそお越しくださいました、アード代理」


 響く声に、胸がどきりとする。

 背筋を伸ばし、少しでも堂々と見えるように足を運ぶ。


 扉が開かれると、涼やかな空気と共に整然と並ぶ使用人たちの姿が目に飛び込んできた。


 玄関ホールの両脇に控える彼らは一糸乱れぬ姿勢で頭を下げ、その中心をわたしたちの一行が進んでいく。


 ……これが、アゼレアの屋敷。


 磨かれた大理石の床は光を反射し、窓から差し込む陽光を跳ね返している。

 装飾は華美ではないが、要所要所に力強い意匠が刻まれ、屋敷全体に主の気配が漂っていた。


 堅牢で冷たいはずなのに、不思議と安心感を与える――アゼレアらしい空間だった。


 隣を歩くロエナが小さく息を呑み、目を泳がせている。


 平民である彼女にとって、この厳かな雰囲気は居心地が悪いのだろう。

 ましてや、ここはサンドレアム。

 トバルと違い、平民と貴族の壁は厚く高い。


 思わず小声で「大丈夫」と囁くと、ロエナはぎこちなく微笑んで頷いた。


 階段を上がり、長い廊下を抜ける。

 壁には代々の当主の肖像画が並んでいた。

 その中に、かつての「鮮血」と呼ばれたアゼレアの姿もあった。


 絵の中の冷たい眼差しと、隣を歩く彼女の横顔が重なる。

 一瞬、アゼレアの抱えていた苦しみを思い出して、ちくりと胸が痛む。


「こちらへ」


 案内役の執事に従い、重厚な扉の前で足を止める。

 扉が開かれた先には――アゼレアの執務室。


 扉が静かに閉じられると、部屋の空気が一段と重くなる。

 壁一面を覆う本棚には、法令集や記録簿、各都市からの報告書が整然と並べられている。


 中央には大きな執務机。

 そこに腰を下ろしたアゼレアの姿が、部屋の重心を決定づけていた。


「――マテオ。始めろ」

「はい」


 今朝、貴族街の屋敷に届いた書状の封を切る。

 マテオが巻物を広げると、眉間の皺が増し、硬い声で読み上げた。


「……審問会は、水の月、前節十五日。すなわち――明日です」

「えっ!?」


 思わず声が漏れた。

 すぐそこに迫った事実に、肩が小さく震える。


 ……もう、明日。


「なるほど……マーキス到着次第か。つまりこちらに準備の余地を与えず、逃げ出す口実を作らせるつもりだったか」


 アゼレアの表情に険しさが増す。


「それじゃ……」

「逃げるつもりなら、間に合わなかったことにされるわけですね……」


 わたしの言葉に、マテオが低く呟いた。


「そうだ。汚名を着せる算段だろう。すぐに出立していて正解だったな」


 アゼレアの低い声が響く。

 彼女の素早い判断が功を奏した形だった。


 つまり、最初からわたしたちを追い込む算段だったのだ。

 考える時間すら奪い、逃亡の汚名を着せるために。


「アード・ロッタ……そういうやり方か」


 アゼレアの口元に、冷たい笑みが浮かんだ。

 そして机上の書類から視線を上げると、マテオに向き直った。


「まずは今夜の屋敷の警護だ。配置はどうなっている」

「正門と裏門に二名ずつ、廊下と執務室前に各二名。交代で巡回を回しております元々の警備隊十五名はそのままです」

「よし。問題はないな――明日の本番は、前に言った通りだ」


 わたしが頷くと、アゼレアの声が一段低くなる。


「マテオは記録。ロエナは側使え。私とエルネストは護衛に当たる」

「はい」

「はっ」


 マテオにロエナ、二人の返事が重なる。


「ただし、もし審問が公開で行われた場合――我々は壇上に立つお前の傍にはいられん」


 傍にはいられない。

 その言葉に不安が募る。

 たったひとりで罵声を浴びせられる姿を想像するだけで、膝が震えそうになる。


 そんなわたしの心を読んだように、アゼレアが静かに言葉を重ねた。


「安心しろ。同じ場にはいる。離れていようとも、目は届く。それに――傍聴席には無関係の貴族たちもいる。その場で命を狙われる危険はない」

「……うん」


 かすかに震える声で、それでもしっかりと頷いた。

 アゼレアが満足げに目を細め、次にロエナへと視線を向ける。


「ロエナ。お前は傍聴席を観察しろ。悪意を持って嘲笑する者がいれば、必ず覚えておけ」

「……承知しました」


 ロエナが顔を引き締め、小さく頷く。


「ルルーナ」


 アゼレアの琥珀の瞳が、まっすぐにこちらへ向けられた。


「お前が臨むのは、剣の戦場ではなく言葉の戦場だ。侮辱も罵声も浴びせられる。だが、怯んではならない」


 ……わかってる。


 怖いけれど、それでも行くと決めたのは自分だ。


「うん」

「ルルーナ。連中の狙いは揺さぶりだ。だが、こちらが動揺すれば思うつぼ。堂々と立つこと……それが最大の反撃になる」


 それは言葉の刃よりも、強くて冷たい重みを持つ声だった。



 ◇ ◆ ◇



 会合が終わり、わたしは与えられた客室に案内された。

 重厚な扉が閉じられると、急に静けさが押し寄せてくる。


 夕方の張り詰めた空気とは正反対に、部屋の中は整えられた寝台と机、窓辺に置かれたランプの淡い光だけが頼りだった。


 窓を開けると、夜風がひやりと頬を撫でる。

 遠くに街のざわめきと、馬車の車輪が石畳を叩く音がかすかに届いた。


 懐かしい音。

 けれど今は、そのすべてがどこか遠く感じられた。


「……明日、か」


 呟いた声は、思ったよりもかすれていた。


 気持ちはずしりと重く、落ち着かない。

 壇上に立つ自分の姿を思い浮かべると、足が自然に震えてしまう。


 ふと、窓辺に小さな光が揺れた。

 精霊たちが寄り添うように集まってきて、わたしの肩に、手に、そっと触れてくる。


「大丈夫……わかってる。怖いけど、逃げない」


 言い聞かせるように口にすると、光が一層強く瞬いた。


 所長に教えられたこと、家族やみんなと過ごした日々。

 思い返すだけで胸が熱くなる。


 ……みんなに会いたい。でも、今は会っちゃいけない。公務なんだから。


 ぎゅっと窓の縁を握りしめ、顔を上げた。


 ……堂々と。


 夜風がカーテンを揺らす音の中、心の奥でそう誓った。



 ◇ ◆ ◇



 夜は浅い眠りしかできなかった。

 目を閉じても、罵声や冷たい視線を浴びる自分の姿ばかり浮かんでしまい、とても落ち着いてはいられなかった。


 空が白み始めた頃、扉を叩く音で目を覚ます。


「アード代理、朝の支度を」


 控えめな声に「はい」と返事をすると、すぐに侍女たちが入ってきて、手際よく衣を整えてくれる。


 深い色合いの正装に袖を通すと、背筋が自然に伸びた。

 布地は重たく、胸元の紋飾がひどく冷たく感じられる。


 鏡に映る自分の顔は少し青ざめていたが、視線だけは逸らさずに見据えた。


 髪を結い上げられていると、そっと声がかかる。


「……お嬢様、大丈夫ですか?」


 ロエナだった。

 彼女は不安そうに眉を寄せ、それでも笑おうとしている。


「うん、平気――ちゃんとやれるよ」


 できるだけ穏やかに答えると、ロエナは目を伏せて頷いた。


 外に出ると、すでにアゼレアとマテオ、エルネストが揃っていた。

 隊列を組んだ兵士たちが整然と並び、緊張の色を隠さずに待機している。


 澄んだ朝の空気が、胸の奥まで冷たく染み渡る。

 その冷たさが、逆に心を研ぎ澄ませていくようだった。


「行くぞ」


 アゼレアの一言で、一行はゆっくりと屋敷を出た。

 石畳を踏みしめ、車輪が軋む。


 ――いよいよ、審問会の会場へ向かって馬車は動き出した。









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