87話 静かな帰還 ~本当は嬉しいはずなのに1~
昼食を終え、再び執務室で対策を練る。
「まずは、打てる手から打つぞ」
アゼレアがそう告げたとき、わたしはただ頷くしかなかった。
「マテオ、警備体制を見直せ。これ以上、人数は裂けん。配置で補え」
「はっ」
アゼレアのまとう空気に、マテオの鋭く低い返事。
そのやりとりに、どうにも落ち着かない。
「それと調査隊からエルネストを戻し、ルルーナの護衛に当たらせろ」
「はい」
あの男――レックナートのことを思い出す。
剣を喉元に突きつけられた感覚は、いまだに消えない。
戦えないわたしが狙われたら、次は本当に命を落とすかもしれない。
そんな想像が頭を離れなかった。
「ルルーナ」
名前を呼ばれ、わたしは顔を上げる。
アゼレアの琥珀色の瞳が、まっすぐにわたしを見据えていた。
「サンドレアムに書状で確認する。レックナートという徴税官が存在するのかを」
あの男が本当に存在しているのか、それとも……。
わたしは頷いた。
すぐにロエナが紙と筆を整え、静かな筆音が部屋に響き始める。
筆音が響く中、胸の奥で静かに冷たいものが広がっていった。
◇ ◆ ◇
あれから数日、目立った事件は起きなかった。
ただ、邸の空気はどこか張りつめていて、ちょっとした物音にも心臓が跳ねる。
あの記憶がまだ鮮明に残っているせいか、精神的にじわじわと疲れていく毎日だった。
そんなある日、執務室に届けられた一通の書状。
封蝋には、見慣れない紋章。
「マーキス・グラベルからです」
マテオの声に、思わず姿勢を正す。
「調査結果かな?」
わたしの言葉に、アゼレアは黙って頷き、マテオが封を切って読み上げた。
「……マーキス・グラベルからの要請に応じ、サンドレアムにて行われる審問会へ出席されたし」
空気が一瞬で冷え込んだ。
アゼレアの瞳が細まり、険しい光を帯びる。
「本来なら無視してもいい。しかし……マーキスからの要請だ。応じなければなるまい」
アゼレアの言葉に、マテオの顔も厳しさを増し、口元が固く結ばれる。
なにか、とんでもなく重たいことが動き出したのを肌で感じた。
「……審問会って?」
口を開いたわたしの声は、かすかに震えていた。
マテオが心配そうな眼差しで、こちらを見る。
「領地やアードに対する疑義、問題があるとされた場合、周辺のアードたちが集まって議論し、説明を求める場です。罪を問う裁判ではありませんが……事実上の裁きと同じ意味を持ちます」
「わたしが責められるの?」
気づけば声が漏れていた。
裁きという言葉に、膝が震えそうになる。
マテオが一拍置いて、いつもの口調で答えた。
「……おそらくは。しかし、証拠があるわけではありません。罪に問われることはないでしょう」
マテオの気遣い。
わたしを安心させるための言葉だとわかっていても、霧のような不安は晴れない。
アゼレアが頷き、すぐに言葉を継いだ。
「ルルーナ。審問会は厳しい場だ。反領主派の連中は、あられもない理由で罵声を浴びせ、言葉で潰そうとしてくる」
その琥珀色の瞳が、わたしをまっすぐ射抜く。
わたしは小さく俯いた。
……怖い。
心臓が握り潰されそう。
「耐えられるか? 代わりに私が――」
アゼレアの声を遮るように、口が動いていた。
「わたしが行く」
唇が乾いて、声はかすれていたけど、それでもはっきり言った。
……だめ。これは、アゼレアに背負わせちゃだめ。
足が震えそうなくらい怖い。
けれど――剣を交えるわけじゃない。
命のやりとりじゃない。
言葉で責められるくらいなら、わたしでも……できるから。
ぎゅっと拳を握りしめ、顔を上げた。
マテオは険しい表情のまま、眉間に皺を刻んでいる。
ロエナは辛そうに唇を噛みしめていた。
そして、アゼレアは――まっすぐわたしの目を見て、ふっと笑った。
「……では、決まりだな」
わたしはアゼレアの目を見て、深く頷く。
アゼレアが頷き返すと、彼女の声が執務室に響いた。
「書記官にマテオ。側使えにロエナ。護衛は私とエルネストだ」
「はっ」
「はい!」
それぞれが返事を返す。
空気がきりりと引き締まった。
「マテオ、準備と引継ぎを急げ。道中の護衛の数を見繕え。最低でも十人は連れて行く」
「十人ですか?」
驚いたように目を見開くマテオに、アゼレアは表情を変えず言葉を重ねる。
「道中の襲撃がないとも限らん。もし、本当にレックナートが敵側であるなら……それでも足りんくらいだ」
アゼレアの言葉を受け、マテオが神妙に頷いた。
「……わかりました」
あの圧を放ってきた男を思い出し、肩がぶるりと震えた。
そんなわたしの様子に、気づけば精霊たちが足元に集まってきていた。
わたしにすり寄り、必死に励ましてくれる。
……大丈夫よ。みんなもいるから。
◇ ◆ ◇
翌朝早く、出発の準備を終えた頃、サンドレアムからの返答が届いた。
封を切ったマテオが静かに読み上げる。
「徴税官の名簿に、レックナートという名は見当たらず」
短い一文なのに、その場の空気が一気に重くなる。
あの男は何者で、一体、どこから来たのか。
これが何を意味するのか、今はまだわからない。
でも――
わたしはぎゅっと唇を結んだ。
ここで考え込んでも答えは出ない。
やるべきことは、ただひとつ。
準備を終え、馬車の前に立つ。
「行ってきます」
見送りに出てきた人々が頭を下げる。
みんな政務で忙しいはずなのに、揃って見送りに来ていた。
元メネズ派の政務官のひとりが、気遣うように言葉をかけてくれる。
「代理殿、どうかお気をつけて」
皆の顔を見渡す。
……ありがとう。みんな。
胸に温かさと重みを同時に覚えながら、わたしは笑みをつくった。
「みなさん、あとのことは、お願いします」
返事を待たず振り返り、馬車に乗り込む。
車輪がゆっくりと回り始め、石畳を踏みしめる音が響いた。




