82話 これも、お仕事 ~対峙する脅威~
馬車を降りると、ひんやりとした森の空気が頬を撫でた。
前世で言えば、四月下旬頃だろうか。
陽射しは柔らかく、若葉がきらきらと光を散らしている。
鳥のさえずりや、枝先を揺らす風の音が耳に心地よく響く……はずなのに、胸の奥は妙に緊張して落ち着かなかった。
わたしの隣にはエルネスト。
無言で森の奥を睨む横顔は、やっぱりちょっと怖い。
その後ろに、黒衣の部下たちが数名控えている。
やや前方の位置には、マテオとロエナ。
そして彼らに付き従う別の部下たちが列を成し、しんとした空気の中で足並みを揃えていた。
「……これから、この森を調べるの?」
口に出して確認すると、エルネストは短く頷いた。
それだけ告げて、また前を向く。
わたしはごくりと唾を飲み込んで、歩き出した。
森の中をしばらく進む。
落ち葉を踏む音、枝が揺れるささやき――耳に入る音がやけに大きく感じられる。
やがて、前を歩いていたマテオが立ち止まり、こちらに振り返った。
何か手で合図している。
どうやら、この辺りが魔獣と接触した地点にようだ。
「うん、わかった」
わたしは小さく返事をして頷く。
森の空気が、いっそう重くなったように感じる。
小さなざわめきとともに、部下のひとりが地面にかがみ込んだ。
「……比較的新しい足跡です」
声を潜めた報告に、空気がぴんと張りつめる。
マテオがすぐに指を三本立て、短く指示を出した。
「――前方を偵察。先行せよ」
「はっ」
黒衣の部下たちが素早く動き、音も立てずに木立の奥へと消えていく。
その間に、残った者たちは自然と隊列を整えた。
わたしの周囲を囲むように、エルネストを中心に警戒の輪が築かれていく。
足元の落ち葉を踏む音ひとつすら、許されない空気。
わたしも息を潜めながら、全周囲に視線を巡らせた。
……落ち着け、わたし。
前方の木立の影で、偵察隊の一人が腕を振った。
小さな合図に反応したマテオが、すぐさまこちらに顔を向ける。
「どうやら、一体を視認したようです」
「……うん」
息を詰めて頷く。
胸の鼓動が、ひときわ大きく響いた。
その直後、別の方向でも木陰から旗のような手振りがあった。
部下のわずかな動きに、すかさずマテオが動き出した。
マテオが持ち場に戻ると、こちらに手で合図を送ってくる。
あちらにも一体発見。
距離も近そうだ。
森の奥に、二つの影。
じわじわと緊張が増していく。
手のひらが汗ばんで、書類をめくるときよりずっと強く心臓が跳ねていた。
隣のエルネストが、すっと顔をこちらへ向けると、口元に人差し指をあてて――シーッ、と音を立てるなという仕草。
今は声を出すな、という合図だとすぐにわかった。
彼の指示に、わたしも無言で頷いた。
――そのとき。
ひゅっと風を切る音。
足元で、見慣れた小さな影が弾む。
……カマイタチ?
わたしにしか見えない精霊が、くるりと宙を舞い、誰も注意を向けていない方向を鋭く睨んだ。
次の瞬間、ひたすら軽やかに走り去り、茂みの中へ消えていった。
背筋がぞわりと粟立つ。
……何かいる。
思わず、カマイタチが消えた茂みを凝視する。
ざわっと葉が揺れたかと思うと――茂みの奥から、ずるりと大きな影が姿を現した。
普通の狼より一回り大きい。
鋭い牙を剥き出し、赤い眼がぎらついている。
その恐ろしい牙を見た瞬間、わたしは息が詰まった。
……あれがウルフイーター!?
カマイタチが風を巻き起こし、まるで追い立てるようにその魔獣を前へと押し出していた。
わたしは迷う暇もなく隣のエルネストの肩を叩き、茂みを指さす。
わたしの合図にエルネストは即座に剣の柄に手をかけ、鋭い視線をその茂みに向けた。
ほんの一瞬で空気が変わる。
周囲の部下たちも、一斉に武器を構えた。
ビンッと弦を弾く音がした。
次の瞬間、部下の弓から放たれた矢が一直線に飛び、茂みから出てきたウルフイーターの肩口に突き刺さった。
「――ガァァァッ!」
魔獣が苦痛の咆哮を上げる。
まだこちらに気づいていなかったのだろう、不意を突かれた形だ。
その刹那、エルネストが剣を抜いた。
風を切る音とともに、黒衣の影が一直線に飛び出したと思ったら、もう魔獣の懐に入り込んでいた。
鋭い光を放つ刃が、首筋を一閃――どしゃり、と重たい音を立てて、ウルフイーターが地面に崩れ落ちた。
……うわぁっ! もう、仕留めたの?
「交戦開始! 全隊、速やかに排除!」
マテオが即座に声を張り上げる。
その号令に従い、周囲に散開していた部下たちが一斉に動き出した。
森の静寂は、一瞬にして戦場へと変わる。
矢が次々と放たれ、槍が構えられた。
わたしは、ただ必死に顔を動かし、目を見開いていた。
森に響いたのは、剣戟の音と魔獣の断末魔。
耳を裂くような叫びが、やがて途切れ――再び静けさが訪れる。
その代わりに、あちこちから部下たちの声が上がった。
「目標、沈黙」
「こちらもだ」
次々と飛び交う報告に、最後はマテオの声が響いた。
「警戒態勢を維持せよ!」
しばらくして、偵察隊の合図でマテオが上げた手をゆっくり下ろした。
……終わった?
わたしは、ようやく肩の力が抜ける。
マテオの近くにいるロエナは平気だろうか?
馬車で待たずに、ついて来てしまったが……。
ちらりと様子を伺えば、青くなった顔で胸を撫で下ろしているロエナが見える。
……うん、一応は大丈夫そう。
その姿に、ほっと息をつく。
森の緊張が解け、足元の土の匂いがようやく戻ってきた気がする。
けれど――隣に立つエルネストだけは、まだ剣を構えたまま微動だにしていなかった。
鋭い視線を森の奥に向け、気配を探るようにじっと耳を澄ませている。
その姿に、わたしの背筋は再びぞくりと冷たくなった。
エルネストの鋭い眼差しに気づいたのか、マテオがすぐに指示を飛ばす。
「――第一隊、エルネストを援護! 第二隊、全周囲を警戒! 死角を作るな!」
「はっ!」
マテオの張り上げた声に、傍にいたロエナの体がびくんと跳ねた。
部下たちが再び一斉に動き出し、森が再び緊張に包まれる。
矢を番える音、槍の石突が地面を突く音が次々に重なる。
初めての戦場。
パニックになりかける度に、精霊たちがわたしの肩に寄り添う。
……ありがとう、助かるよ……ねぇ、みんな、ロエナもお願い。守ってあげて。
わたしのお願いに、宙を舞っていた精霊たちがロエナの周りに寄り集まっていく。
その様子に、わたしは深く頷くと、エルネストが睨む茂みに顔を向ける。
……まだ、終わってない……のね。
――ドドドッ!
地面が揺れるような低い響きが森を駆け抜けた。
直後、エルネストが短く声をあげる。
「――避けろ!」
茂みを割って飛び出してきたのは、巨大な牙を突き出した魔獣。
猪のような体躯にねじれた角を持ち、一直線にこちらへ突進してくる。
「うわああっ!!」
腰の辺りに軽い衝撃。
視界がぐるりと揺れて、何が起きたのかわからないまま声が裏返った。
エルネストが、わたしの体を抱え込んで宙を飛んでいる。
気づいたら地面が遠くて、心臓がドクンっと跳ねた。
「――ロングホーンだっ!」
マテオの声が響く。
部下たちは即座に陣形を組み、弓をその場に置いて槍を引き抜いた。
「構え!」
鋭い号令とともに、数本の槍が放たれ、ロングホーンの巨体に突き刺さる。
魔獣が獰猛な咆哮を上げ、木々を揺らした。
その最中、エルネストはわたしを抱えたまま、素早く一本の木に登る。
「ここで」
短く言い残し、枝の上にわたしを下ろした。
「えっ?」
……ここでっ!? ここに、いろってこと?
質問する間もなく、彼はすぐに飛び降りてしまった。
こうなると、自力では降りられない。
どうすることもできないわたしは、木にしがみついたまま、戦況を眺めた。
エルネストは部下に槍を受け取ると、地を蹴り、一直線にロングホーンの横腹へ突進した。
皮膚を突き破る音とともに、エルネストの槍がロングホーンの横腹に深々と突き立った。
「――グォォォォォッ!!!」
魔獣が苦渋の咆哮を上げ、大きく暴れ回る。
しかしエルネストは柄を握ったまま離さず、まるで嵐に翻弄されるように体ごと振り回された。
「止めろっ! 援護せよ!」
マテオの指示が飛ぶ。
放たれた投槍がロングホーンの脚を打ち、巨体が一瞬ぐらついた。
その隙に、エルネストが突き刺さった槍の柄に手をかけ、そのまま巨体の背に飛び乗ると、足場にした槍を引き抜き――渾身の力で、頭部へと突き立てた。
「――ォオオオオッ!」
断末魔の咆哮が森を震わせ、ロングホーンは地面に大きくのたうち、やがて力尽きるように倒れ込んだ。
前世では経験なんてしたこともない光景が、目の前で繰り広げられていた。
まさに命懸けの死闘だ。
そんな状況の中、わたしは木の上から戦いを間近で見て、深く息を吐く。
けれど――そのとき、遠くで茂みが大きく揺れるのが見えた。
……嘘でしょ。
木々の間を裂くように走る、もう一つの巨影。
距離はあるが、牙を突き出した別のロングホーンが、マテオとロエナのいる方向へ一直線に猛進していた。
たぶん、まだ誰も気づいていない。
見えているのは、木の上のわたしだけだ。
……間に合えっ!
「マテオ、右後ろっ! 大きな木の脇ぃぃぃっ!!!」
喉が裂けるほどの声で叫んだ。
マテオが反射的に振り返る――そこには、巨体を揺らして一直線に突進してくるロングホーンの姿。
牙を剥き出しにし、樹木をなぎ倒しながらマテオたちに迫る。
「むっ!」
「ひぃぃっ!」
マテオの顔に緊張が走ったとおもうと、ロエナの前に立ち、すぐさま何かを唱え始めた。
「――風の神よ、清き息吹をもって我を護れっ!」
言葉が終わるや否や、風が唸りを上げて渦を巻く。
……何アレ? 魔法?
衝突寸前、透明な風の防壁が張られ、ロングホーンの巨体がごうっと押し止められた。
だが、圧倒的な質量は防壁をきしませ、耳障りな軋みが辺りに響き渡る。
その隙に、エルネストが片膝をつき、地面へと手を突いた。
「――大地の女神よ、その胸に眠る力を解き放て」
低く呟く声は、森の奥深くまで響き渡るようだった。
次の瞬間、大地がうねりを上げ、地表を突き破って植物の太いツタが勢いよく飛び出す。
蛇のようにしなりながらロングホーンの足や胴に絡みつき、ぎちぎちと締め付けるようだ。
巨体が激しく暴れるが、根と枝がさらに絡み合い、完全にその動きを封じ込めた。
「今だ! 仕留めろっ!」
マテオの号令に応じ、部下たちが一斉に駆け出す。
弓を投げ捨て、槍を構えて一直線に突進。
鋭い穂先が幾本も突き刺さり、ロングホーンの咆哮が森を震わせた。
「グオオオオオッ!」
巨体がのたうち、牙が空を切る。
しかし足は絡め取られ、振りほどくこともできない。
「押せっ! もう一度だ!」
さらに突き立てられる槍。
血飛沫が飛び散り、土と混じってぬかるむ。
最後に胸の辺りを貫かれた瞬間、ロングホーンは全身を震わせ――やがて、力尽きたように大地へ崩れ落ちた。
森の木々が再び静まり返り、鳥すら鳴き止んでいる。
ロングホーンが地に沈んだあとは、あれほど響いていた咆哮も木々を揺らす音も消え去り、ただ風のざわめきだけが残った。
耳がじんじんして、心音もやけに大きく聞こえる。
「……終わった、の?」
思わず漏れたわたしの声に、すぐさまマテオが周囲を確認し、低く答える。
「目標、すべて沈黙」
その言葉に、張り詰めていた空気が一気に緩んだ。
部下たちの肩も落ち、安堵の息があちこちで洩れる。
わたしも胸の奥からどっと力が抜けて、木の幹に手をついた。
膝がまだ震えているのに気づいて、情けなさに苦笑する。
でも、エルネストはまだ警戒を解かず、剣を握ったまま森の奥を睨んでいた。
……まだ何かいる?
そう思ったのも束の間、わずかに息を吐き、ようやく刃を収めた。
「……ふっ」
低く吐いた息は、戦いの終わりを告げる合図のようだった。
わたしは、大きく吸い込んだ息を吐き出した。
「はぁ、よかった」
すぐにマテオが声を張った。
「負傷者の確認を! 討伐数を数えろ!」
部下たちが、てきぱきと散り、それぞれの役割をこなしていく。
倒れ伏したロングホーンの巨体からは、まだ湯気のような熱気が立ちのぼり、土の上に血が広がっていた。
その光景にわたしは息を呑むけれど、部下たちは誰も怯えることなく動いている。
「討伐、ウルフイーター三体。ロングホーン二体。いずれも沈黙を確認」
部下の報告に、マテオが深く頷いた。
同時に、どこか実感のないわたしを、現実に引き戻す。
「重症者なし。軽傷のみです!」
別の声が上がり、緊張していた空気がさらに和らぐ。
その横で、ロエナがへなへなと腰を落とした。
力が抜けたように地面に座り込み、両手で胸を押さえている。
「死ぬかと思いました……足が、まだ震えて……」
小さな声でそう呟くロエナの顔は血の気が引いていたが、それでも生きていることへの安堵がにじんでいた。
「よし、撤収の準備に入れ。ロエナ、立てるか? だから、馬車で待っていろと……」
「うぅ……申し訳ありません」
マテオの合図で、部下たちは再び、きびきびと動き出す。
血に濡れた槍を拭い、討伐証明のために魔石を取り出したり、角や牙を切り落とす者もいる。
わたしは、その様子を木の上から見下ろしていたが、気づけば、まだ膝が笑っていた。
……これが、アードの仕事。
下で撤収の準備が進んでいくのを見ながら、ふと我に返る。
……あ、わたし、まだ木の上にいるんだった。
どうやって降りようかと枝を見下ろしたとき、すっと影が伸びた。
エルネストが無言で腕を差し伸べている。
「……」
言葉もなく、ただ真っ直ぐな視線。
わたしはゆっくり手を伸ばすと、次の瞬間にはひょいと抱えられていた。
地面に降ろされたとき、ようやく足がしっかりと土を踏んだ。
ほっと胸を撫で下ろすと、彼は短く一言だけ。
「お見事」
それだけを告げて、再びマテオのもとへと歩いていった。
その背を見つめながら、わたしは静かに息を吐き、首を傾げた。
……お見事? わたし、何かしたっけ?




