魔王
【1】
闘い始めて5時間程経っただろうか。
ハンナは死骸を蹴り、他のマガイへ相対する。腕は疲労で震え、眼がかすみ、世界が点滅した。しかし、ここで倒れるわけにはいかない。飛び掛かるマガイを突き刺し、壁に叩きつける。息が切れ、肺が軋み、膝が悲鳴を上げる。倒れそうになるのを、剣で支える。
マガイは二倍、三倍と増え続けている。何匹殺しても終わりが見えない。がちん、と音がし、剣先が地面に当たっていることに気づく。体力も集中力も底をついていた。
「まだ……」歯噛みし、剣を持ち上げる。しかし、指から力が抜け、剣は手から滑り落ちてしまう。剣は刃こぼれしていた。地面に当たった刀身にヒビが入り、剣が折れる。冷たく、情けない音を立て、破片が転がる。武器はもうない。頭が真っ白になり、何も考えられなくなる。
エッカルトがうめき声をあげ、倒れる。クリスティーナも何とか鍬をさばいているが、限界のようだ。
「もうすぐ朝だよ」そうは言うが、空はまだ真っ暗だった。村人は疲労で倒れていた。
ずぶ、と嫌な音がし、その方を見ると、騎士が一人、串刺しにされている。咄嗟にクリスティーナがマガイを突き刺し、鍬ごと空へ放る。
「即死だ」エッカルトが騎士の瞼を閉じてやった。
「他のみんなは……?」ハンナが振り返り、皆の姿を見る。残っているのはエッカルトとクリスティーナだけ。
「あたしはだいじょ―」クリスティーナが静かに倒れ、その腹部に黒い染みが広がっていく。
もう限界だ。焦りと絶望が全身を包んでいく。ハンナは疲労で倒れこむ。全てがゆっくりと見え、音が消えていた。自分の荒い呼吸音だけが聞こえた。
ごっ、と鈍く重い音がし、音の方を向くと巨大なマガイが二匹、壁の上に居た。小型の熊ほどもある体躯から真っ黒な影が伸び、ハンナを覆い尽くしていく。
―ミナを殺した奴よりも大きい
勝手に歯が鳴る。ハンナは掠れた悲鳴を上げ、後退りする。
「武器は……もうないのに」
ふと階段の下で女の子が泣いているのが見える。ミナの姿が重なり、身体の奥が熱くなる。
武器ならある―拳を握りしめ階段下を睨む。ハンナの視線の先には巨大な鞘。父の研究室から持ってきた巨大な大剣―獰猛な白き花弁。
息を吸い、剣に手を掛け、思い切り持ち上げる。片手ではびくともしない。それどころか指の肉が一部、持って行かれ、痛みで右手が痙攣した。黒い血が零れ、地面に零れていく。
「守るって……決めたんだ……」ハンナは涙を零しながら歯噛みする。しかし、その声はマガイのかりかりと言う音にかき消されていく。
大丈夫、大丈夫、まだ戦える。手はそこまで重傷じゃない。じわじわと広がる痛みをこらえながら、自分に言い聞かせる。
「必ず守るから」少女に言い、両手で柄を掴む。そして、奥歯を噛み締め、両足に力を込める。ふと、痛みが消える。
ずずず、と重い音を立て、白銀の大剣が構えられる。腹に柄の先を当て、腹筋に力を込める。そして、両足を踏ん張り、無理やり持ち上げる。
マガイが数体、登ってきていた。その姿を睨みつける。ここで死んでも良い。命尽きるまで、戦ってやる。あの時のように、逃げたりはしない。
マガイがハンナに飛び掛かってくる。
ハンナは覚悟を決め、歯噛みし、大剣を振るう。奥歯が軋み、腕に電撃が走ったような激痛が襲う。それでも懸命に振り抜く。大剣がマガイに向けて薙ぎ払われる―空気が震え、風切り音が鳴る。鈍い炸裂音が響き、白い閃光が爆散。
ハンナが我に返ると、鈍い金属音と共に大剣が地面に落ち、自身の重量で震えた。
ぽと、ぽと、ぽと、と何かの破片が降り注ぐ。マガイだった棘の破片。それは再生することなく朽ちていく。
「倒せた……」ハンナはふと、手の平に違和感を覚え、ゆっくりと腕を上げる。腕全体が震え、指が細かく痙攣していた。指の皮がむけ、血がだらだらと流れている。しかし、思ったほど重症ではない―だが、もう戦える状態ではない。
ここまでか、そう思った瞬間だった―
白い閃光が辺りを照らす。マガイの群れが照らし出され、続く爆音で吹き飛ばされる。
「何が……」エッカルトが立ち上がり、呻く。
金属がこすれる規則正しい音が聞こえ、森から、全身鎧を着た一群が現れる。人数は十人ほど、全く同じ意匠の全身鎧は無機質で、異界の物のように見えた。
「助け、か……?」エッカルトが呟き、ハンナを強引に引き起こす。
マガイが方向を変え、騎士の一群に飛び掛かっていく。騎士達は洗練された動きで盾を一列に並べ、その後ろで弓を一斉に放つ。大量の矢がマガイに降り注いでいく。しかし、マガイの動きは全く止まらない。
「あれじゃ歯が立たない!」エッカルトが叫ぶ。
マガイの群れは、一斉に騎士に向かっていく。それに向けて、爆竹を投げた。稲妻を思わせる閃光が走り、マガイが一瞬、引く。しかし、すぐにその場を避け、マガイは向かっていく。しかし、不思議なことが起きた。マガイが動きを止め、ぶるぶると震えだしたのだ。
「あれは《祝福》?」ハンナが呟くと、エッカルトが、
「聞いたことがある。マガイ殲滅の御三家……ゼーフェリンク家の秘儀」エッカルトが唖然としながら言う。
轟音がし、マガイが塵になりながら宙に振り飛ばされる。
「大砲……!」驚くハンナをよそに、何度も砲撃が繰り返される。爆炎が散り、地面が揺れ、マガイが焼き尽くされていく。
「すげえ……」
マガイは数分で灰と塵になった。
真っ黒になった焼野原を一人の男が歩いてくる。炎にその姿が照らされる。高身長で、やや痩せた体躯。
「ゲオルク・ゼーフェリンク。一代で王家に匹敵するほどの権力を手に入れた傑物」エッカルトが目を丸くした。
ゲオルクは鎧を着ていたが、一人だけ白いマントを羽織っていた。細面に、無精髭、長い髪を後ろに撫でつけている。
ゲオルクは、まだ生きているマガイの所に、悠々とした足取りで向かう。そして、滑らかな動作で剣を抜く。一瞬でマガイが解体され、動かなくなる。
齢六十を超えていながら、その身体には一切の衰えが見えない。軽い足取り、体幹のしっかりとした動き。ゲオルクはゆっくりと散歩でもするような足取りでマガイの生き残りを屠っていく。剣が速すぎて、すれ違いざまにマガイが死んで行くように見えた。
最後の一匹を殺し、ゲオルクが顔を上げ、城を見る。その瞳には、怒りだろうか、異様な感情が満ちていた。
「魔王……」エッカルトがぼやく。
こうして、ハンナたちは救われた。
【2】
リヒャルトは、ハンナの視界を盗み見し、ゼーフェリンク家騎士団が合流したのを確認した。これなら一か八か助かるかもしれない。
ゼーフェリンク家は砲撃によるマガイ殲滅を行う。その地響きはここまで届くはずだ。それを利用する。
リヒャルトは、机の隅に置かれ、少しの揺れで落ちそうな水瓶を見る。
「分かった……話す。俺の《祝福》は未来予知だ」リヒャルトは嘘を付く。
黒装束が息をのむのが聞こえる。おそらくそこまでは想定していなかったのだろう。
「お前、未来が見えるのか?」巨漢が声を荒げる。
「ああ」リヒャルトは頷きながら、ゼーフェリンク家の騎士の視界を覗く。砲撃の準備を始めている。
「お前らがマガイを使い、村を襲撃すると知っていたからわざと捕まったのさ。そうすれば死なずに済むからな」
「う、嘘だろ」巨漢が声を裏返させる。
「でたらめだ!」警護の男が言う。
弾が詰められ、火薬に火が付く。砲撃まであと数秒。
「じゃあ、それを見せてもらおうじゃないか」痩躯の男が言う。
「分かった」
全員の意識がリヒャルトに集まる。
「五秒後、その水瓶は床に落ちる」リヒャルトは自信に満ちた口調で言う。本当は祈れるものなら何にでも祈るくらいには自信がない。
「まさか」痩躯の男が言った瞬間、砲撃の衝撃で部屋が揺れる。そして―
水瓶が音を立てて割れた。
「す、すげぇ……」巨漢が驚く。
「騙されるな。未来予知ではないかもしれない、単なるはったりの可能性もある」
リヒャルトは笑い、「俺はもう未来予測はしない」
「手が尽きたのか?」痩躯の男が微笑む。
「俺を痛めつける、殺す、そう言った行為や、ここにとどまると言った行為をすれば、お前らが騎士団に皆殺しにされる未来が見えたからな」リヒャルトは笑いながら吠える。
「何を―」痩躯の男が言った瞬間、部屋が砲撃で揺れる。何度も何度も揺れる。
「死の足音が近づいてきたな」リヒャルトは大声で狂ったように笑う。
「どどど、どうする兄貴」巨漢が震える声で言う。
リヒャルトはそれを見逃さない。こいつらはゼーフェリンク家の関係者ではない。おそらくは《代行者》どもだ。
三ヶ月前のマガイの襲撃事件には何者かの人為的な介入があったと疑われている。なぜかと言えば、北部地域で雨季が始まる時に、たまたま堤防が壊れ、二十年ぶりに何処からともなくマガイが押し寄せることなど考えられないからだ。それに洪水は、聖典の内容とも一致していた。
代行者、それが襲撃事件を裏で操っていた主犯と目されている組織の名前だ。何の代行者かと言えば、それはもちろん神だ。だが、自称しているだけで、王も教皇も認めていない。彼らは聖典の内容に沿い、破壊行為を行っている。
聖典の内容はざっとこんな感じだ。天使が地のいきものと交わり、怪物が生まれる。怪物は世界を荒らしまわり、神の怒りに触れる。神は洪水を起こし、地は滅びる。
代行者は、マガイが怪物に当たると考え、その後に起こる大量絶滅を防ごうと考えているのだ。どのような妖術を使っているのかは分からないが、連中はマガイを生み出すことができる。
神が起こす洪水を事前に引き起こし、その被害を最小限にする―
異様な思想だ。リヒャルトは改めて目の前の連中を見る。狂信者どもめが。
「運命には岐路がある。俺を殺して、お前らが助かる道はもう潰した」リヒャルトは笑い、
「ゼーフェリンク家は身内を殺した人間には容赦しない。地の果てまで追い続け、殺す」
「分かったぞ」痩躯の男が笑い、「お前の能力は―」
「「視界共有だ」」男と、リヒャルトの声が被さる。
痩躯の男が息をのみ、椅子から立ち上がる。その瞬間、また砲撃で建物が揺れる。
「「兄貴! やばいよ」」
黒装束、全員が凍り付く。リヒャルトだけが高笑いしている。その声が部屋に反響する。
全員が動けなくなり、立ちながら硬直し、それぞれの顔を見合わせている。
砲撃の音は大きくなり、揺れが激しくなる。
「にに、逃げるぞ」痩躯の男が言い、荷物を片付け始める。その手は焦りで震え、器具の幾つかを落としてしまう。
「化け物め」痩躯の男は言い、部屋を出る。二人もそれに続く。
一人、取り残されたリヒャルトは血の混じった唾を吐き、「縄……どうしよ」
読んで頂きありがとうございます。感想、評価、レビュー、ブックマーク、お待ちしております!