(ケイティの視点)教会での一日
「いつ来ても誰もいませんね」
「……はい。皆が不勉強というわけではないと思うのですけど……」
聖堂の図書室はいつ来ても誰もいないのでつい言葉にしてしまったが、よく考えてみれば私も以前はほとんど来たことはないので人のことは言えない。だが、これだけ多くの宗教関係の書物が集まっているのに、ほとんど読まれないのは勿体ない気がする。
「今日は何か調べ物ですか?」
「前に来た時は悪魔に関して調べましたけど、今回は神について書かれている本を読もうと思ったのです」結局悪魔関係の本はここにはなかったのだけど、神関係の書物は大量にある。「ロザリアは側にいなくても大丈夫よ。久しぶりの聖堂ですからやることもあるでしょう?」
「はい。では後ほどお迎えに参ります」あまり本が好きではないロザリアは少しホッとしたように図書室から退出していった。
神についての書物はこれまでにもたくさん読んできたけれど、今にして思えばただ知識の源として読んだだけだった。でも今は違う。悪魔とも会い、神についての知識も得始めている。今ならまた違う観点で本が読めると思ったのだ。
「これは子供用の本ですね」
子供むけの宗教本だ。私も小さい時に呼んだ記憶がある。神様を信じましょう、祈れば守ってくれますよ。そんなことが絵付きで描かれている。絵をよく見れば、神々は黒い髪、黒い瞳だ。
神々が黒髪、黒い瞳であることを知っていた人が描いたのですね。
この本自体はそれほど古いものではないだろうが、伝承として伝わっているのかもしれない。天に上るまでの神々は人間と近い存在だったに違いない。
悪魔が封印されたという二千年前から今に至るまで、地上には神も悪魔もいなかったわけだが、おおむねいつの時代もどこかしらで戦争や飢饉が起き、多くの人間が苦しみ続けている。フィルネツィアでは戦争こそ昨年のゼーネハイト戦が久しぶりではあったけど、エイナル地方で大規模な飢饉が発生したのはまだ数年前のことだ。
人間が苦しんでもなぜ神は助けてくれないのでしょう?
私が小さな頃から疑問に思っていることだ。たしかに魔術はある。神に祈れば魔術が使える。でも魔術が人間を助けてくれるわけではない。
次に私が手に取ったのは神々の解説をしている本だ。各地の伝承をもとに、さまざまな神々が紹介されている。私はアレクシウスの章に目を止めた。守護を司る女神。祈った者を守護の力で守ると伝えられている。なぜ、私たち四姉妹に力を与えたのだろう?
「おや? このような良い天気の日に読書ですか?」
振り返るとヴィットリーオがにこやかな微笑みを浮かべながら立っていた。全然気配に気付かなかった。
「よくここまで入って来れましたね?」
「いつもの猫の姿で参りましたので」ヴィットリーオは肩をすくめた。
「神官も猫には甘いですからね」
わざわざこのようなところまで来たからには、なにか用があるのだろう。
「何か用ですか?」
「ケイティ様が私に用があるのではないかと思いまして」
「なるほど」たしかに聞きたいことは山ほどあるが、何を聞けば良いのか分からないくらいには混乱していると言ってもいい。「でも、何を聞けば良いのか分からないのです」
「ほう」
「あなたに聞けば、あなた視点の回答しか得られませんからね。今必要なのは、クラインヴァイン側、アレクシウス側、双方を等しく眺められる視点です」
「ククク、たしかに。私の立ち位置はアレクシウス寄りですかね?」ヴィットリーオは楽しそうに聞き返した。
「分かりません。あなたとクラインヴァインは家族のようなものなのでしょう? なぜクラインヴァインに協力しないのです?」
「家族ではありますが、だからといって必ずしも同じ方向を向いているわけではありませんよ」
それはその通りだ。私も最近は母とほとんど話をしていない。
「それに」ヴィットリーオは言葉を続ける。「別に私はアレクシウスの思惑通りに動いているわけではありません。ベアトリーチェとは協力関係ではありますが」
「それはすなわち、アレクシウスへの協力ということではないのですか?」
「ええ。私はこのくだらない争いが一日も早く終わり、私が自由に楽しく暮らせる世界を望んでいます」
なるほど、それはそうだろう。ヴィットリーオは最初から楽しく暮らすことが望みだと言っていた。
「分かりました。私もこの件が早く片付くことを望んでいます。でも、ヴィットリーオ。一つ約束して欲しいのです」
「何でしょう?」
「何があってもターニャを傷つけないでくださいね。肉体的なことだけではなくて、彼女の心を」
ヴィットリーオはちょっと目を細め、「もちろんです。必ずお守りします」と頷いた。
ヴィットリーオが猫に戻って、図書室から出て行った後もしばらく私は本を読んで過ごした。そろそろ夕方かなと思ったところで、ロザリアが戻ってきた。
「ケイティお嬢様、読書ははかどられましたか?」
「ええ、たくさん読めたわ」
「それは良かったです。あと、大司教様が帰る前に顔を出すようにと」
「ええ、ご挨拶しておきましょう」
大司教はいつものように護衛も側近も付けずに、一人でなにやら書類に向かっていた。私が来たことを喜び、席を勧めてくれた。
「元気そうだな、ケイティよ」
「ええ、お爺さまもお元気そうで何よりです」
「うむ」大司教はにっこり微笑んだ。「教会でのお祈りも進んでいるようだな」
「そうですね。まだずいぶんと残っていますので、夏の休暇期間にはもっと頑張らないとなりませんが」国内に二十ある教会のうち、回れたのはまだ七箇所だけだ。
大司教は机の引き出しから何通かの手紙を取り出し、私の前に置いた。何の手紙だろう?
「この手紙は?」
「ケイティが回った教会からの感謝の手紙だ。どの教会もそなたの祈りを褒めているぞ」大司教は笑顔を深めて言った。
「そうですか」大司教の孫娘が祈りに行ったのだから、褒めるしかないだろう。社交辞令でも、喜んでおくことにする。「喜んでもらえたのなら良かったです」
「うむ。所作も立派で、ぜひ来年も来て欲しいとみな喜んでいる」
毎年はちょっと大変だが、たまに行くなら良いかもしれない、などと考えていると、お爺さまが真面目な顔に戻って私に問いかけた。「ヴィーシュでは不思議なことがあったらしいな?」
「ええ、ヴィーシュの街中に光が降り注いだ件ですね」
「ターニャが祈ったからなのか?」
「そうだと思います」アレクシウスの話をお爺さまにするのは面倒なので、これで誤魔化されてくれると良いのだが。「ヴィーシュを愛するターニャならではでしょう」
「なるほど」と言って、大司教は口ひげに手をやって唸った。「不思議なこともあるものだな。どのように祈ったのか、詳しく話を聞いておくとよいぞ」
「ええ、分かりました。今度聞いておきますね」
アグネーゼが戻る前日のケイティでした。




