(アグネーゼの視点)代償
もう本当に体はなんともないのだけど、念のために休んだ方が良いという周りの意見に従って今日は学校を休むことにした。どこも悪くないのだからベッドに寝ているわけにもいかず、部屋で本など読んでいたものの、すぐに飽きてしまった。この離宮にはなぜ、こんな面白くなさそうな本ばかり揃っているのだろう?
「退屈ねぇ」と独り言を呟いてみる。
エレノアとコルヴタールは王都見物に出掛けている。エレノアは心配そうだったけど、私はここにいるので大丈夫だからと納得させるとコルヴタールと出掛けていった。もちろん、ターニャとルフィーナは学校に行っているので、話す相手もいない。
私はぼんやりと窓から外を眺める。この離宮の名前にもなっている桔梗の花の見頃はもうちょっと先らしい。暑くなってくると、青や紫、白、赤など、綺麗な花を咲かせるそうだ。
「あら?」
何かの気配を感じて振り向くと、床に魔術陣が光っている。転移魔術だ。
誰だろうと思ってみていると、光に包まれた人の形が現れ、だんだん光が収まって輪郭がハッキリしてきた。
「ご機嫌よう、アグネーゼ」
「朝早くからようこそ、クラインヴァイン。といっても、ここはターニャの離宮なのだけど」
クラインヴァインはエーレンスの魔術士団長ではなく、前に庭園で会った時と同じように幼女の姿をしている。
「なんで幼女なの?」
「他国に行く時にエーレンスの者と分かっては面倒なこともあるでしょ。この姿なら周りも油断するしどうにでもなるのよ」
「そういうものなのね」
私はクラインヴァインに席を勧め、ついでにお茶をいれてあげた。
「あの庭園でも飲んだお茶ね」ひと口飲んでクラインヴァインが言う。
「そう、ネーフェのお茶よ」
たしかあの時クラインヴァインは美味しいと言ってくれた。そんなに前のことではないのに、ずいぶんと昔に感じる。
「ベアトリーチェを封印したそうね」
「ええ、ケイティ姉上がね」
「ベアトリーチェはどんな様子だったの?」
私は封印した時の様子を話した。
「あのベアトリーチェがねえ」
「ええ、まったく聞く耳を持ってなかったわ」
「なるほどね」
魔導書を見ればなにか分かるのかもしれない。でもあの本を開くのは危険だ。
「ところで、アグネーゼ。あなたは私に借りが一つあるわよね?」クラインヴァインの目が光ったように見えた。これが朝から私に会いに来た本題か。
「そうね。感謝してるわよ」
「じゃ、ベアトリーチェの魔導書を私に頂戴」
そうきたか。思わず返答に詰まってしまった。
「フフフ。ねえ、アグネーゼ。ターニャの変化に気付いてるわよね?」
「変化? 最近明るくなったとは思ったけど」同じ離宮に暮らしていても、ターニャと会って話をする機会は実はあまり多くない。
「そう、今夜の夕食時にでもしっかり話して観察してみると良いわ」
「そんなに違うかな?」
「ええ、神々の力を得て、自信も付いたみたいね」
「神々の力?」
どうやら天に上って、他の神々から力を得たらしい。クラインヴァインに会いに行ったという話は聞いたけど、天にまで行っていたとは。
「今や、私よりも豊富な魔力を持ってるわ。お節介な連中だからきっと色々魔術も授けたのだと思うわ」
「そうだったのね」
「ターニャがアレクシウスと話を付けてきて、二日後に会うことになったわ」
姉妹で話し合いをしてからということになっていたはずだが、もうアレクシウスと話をしてきたのか。今朝の朝食の席でもそのような話は出なかった。
「二日後に別の世界で会うわ。あなたやケイティはメンバーに入ってなかったから、自分で仕切って成功させるつもりなんでしょう」
和解の席を仕切るなどターニャがもっとも嫌がりそうな場だが、自信があるのだろう。その自信の源は神々から得た力なのか。何か不安を感じてしまう。
「そんなことになっていたのね」
「きっとアレクシウスは嫌々出てくるのだと思う。私も気乗りしないけどね。話し合いが上手くいくかどうかは分からないわ」
分からないと言うが、クラインヴァインは上手くいかないと考えているのだろう。
「それでベアトリーチェの魔導書なの?」
「そう。いくら魔力が増えたといってもターニャと一対一なら私は負けないし、アレクシウスとだけ戦うならなんとでもなる。でも、ターニャとアレクシウスを同時に相手はできないわ」
「なるほど。ターニャと戦うことまで想定しているの?」
「こちらにその気はなくても、あの調子ならどうなるか分からないわ」
力をチラつかせて無理やり和解を迫るターニャの姿は想像できないけど、その可能性もあるということか。
「だから、身を守るために、ベアトリーチェの魔導書が必要なのよ」
「分かったわ。でも、一つだけ聞いておいて欲しいの」
「なにかしら?」
「約束しろとは言わない。でも、本当に自分の身に危険が及んだとき以外には使わないでほしいの」
「なるほど。私がいきなり魔導書を使ってアレクシウスを封印する形を想定しているのね」
「ターニャは騙し討ちのようなことを嫌うタイプなのよ。正義感というより純粋なの。そういう場面になったら変に暴発しかねないから、それは避けたいわ」
「分かったわ。約束しましょう」
私はクラインヴァインを連れて桔梗離宮を抜け出し、白百合離宮へ向かう。エレノアがコルヴタールと出掛けている今、護衛なしで外出することはできないので、ひっそりと抜け出すことにした。
クラインヴァインが封印が解けたあとにパーヴェルホルトと会っていれば転移魔術で行けたのだが、まだ会ってないそうだ。
「パーヴェルホルトはああ見えて慎重なやつで、気配を隠してるのよ。一度探したんだけど見つからなかったのよ」
白百合離宮に着いたが、正面から入るわけにもいかない。
「ここまでくればパーヴェルホルトの気配が分かるんじゃない?」私はクラインヴァインに聞く。
「ええ、いるわね。ちょっと待って」
そう言うとクラインヴァインは周りを見回し、人がいないのを確認してから、私の手を取ると、小さく魔術を唱えた。なんと二人とも透明になった。
「あんまり長く効果は続かないから早く行くわよ」姿は見えないが声はする。
クラインヴァインに手を引かれてそのまま浮かび上がった。視点だけ上昇しているみたいで気持ち悪い。離宮の敷地に入り、離れの建物の前に降りると、透明化の魔術は切れた。
「ホントに短時間なのね」
「ええ、だから使い道があまりないのよ」
クラインヴァインが扉をノックしてから開き、そのまま入っていく。私も後に続く。エントランス脇の階段を上がり、二階の部屋の扉をノックした。
「パーヴェルホルト、私よ。入るわよ」
返事も待たずにクラインヴァインが扉を開いて、ズカズカと部屋に入っていく。私も後に続くと、ソファーに腰掛けたパーヴェルホルトと、なんと対面のソファーにはブレンダがいた。もちろん、ウェンディもいる。これは誤算だ。
「久しぶりね、パーヴェルホルト。噂は聞いていたけど、元気そうね」クラインヴァインがブレンダの横に腰掛けた。
「お前こそ元気そうだな、クラインヴァイン。おかしな格好をしているようだが、人間に混じっての暮らしはどうだ?」
「退屈極まりないけど、面白いこともあるわ」
クラインヴァインはそう言うと、隣のブレンダに視線を合わせて言葉を続けた。「こうして、フィルネツィアの王女様たちが驚かせてくれるからね。邪魔してごめんなさいね、ブレンダ王女」
私たちが入ってきたことに面食らったように目を丸くしていたブレンダがようやく口を開いた。
「クラインヴァインにアグネーゼ、どうしてここに?」
「パーヴェルホルトにちょっと用があってね。ブレンダ姉上こそどうして? 学校は?」
「パーヴェルホルトにテオドーラの剣について話を聞いていたんだ。色々と教えてもらったよ」
「ああ」クラインヴァインが興味深そうに口を挟んだ。「あなたが持っているんだったわね。明後日は忘れずに持ってきたほうがいいわよ」
「そのつもりだ」ブレンダは頷いた。「で、二人は何の用事だ?」
私はどこまで正直に話すべきか、あるいは出直すべきかを考えていたが、私が口を開くより前にクラインヴァインが切り出してしまった。
「ベアトリーチェの魔導書をいただきにきたのよ」と言ってニッコリ笑うクラインヴァイン。
「えっ?」
「パーヴェルホルトが持っているんでしょ。アグネーゼの了承は得たわよ」
「……アグネーゼ?」ブレンダが驚いた目で私を見た。
「ちょっと待て、クラインヴァイン。これはケイティから俺が預かっているものだ。ケイティの許可なく渡せぬ」
パーヴェルホルトが拒否すると、答えが分かっていたかのようにクラインヴァインが反論する。
「でも、ケイティに封印の魔術を教えたのは私よ。つまり、その魔導書は私のものとも言えるでしょ?」
「その論理は分からぬ」
「そこは誤魔化されておいてよ」
「そういうわけにはいかん。とくにケイティからはアグネーゼが何と言っても渡してはならぬと言われている」
ケイティ姉上は、私が魔導書を取りに来ると想定してたのかしら?
「少し違う形だがな。ケイティはお前が魔導書を使いかねないと心配しているのだ」
「最悪の場合には使っても良いかもとは思っていたけど」私は正直に言った。
「そう思っているだろうとケイティは言っていた。だが、この魔導書は魔力の少ない者が使うと闇に飲み込まれるのだ。お前には無理だ」
「その点、私なら大丈夫だわ」クラインヴァインがここぞと乗り出した。「そうでしょ? パーヴェルホルト」
「それはそうだが……」
パーヴェルホルトがちょっと返事に逡巡したのを見て、クラインヴァインが畳み掛ける。
「アレクシウスとの話し合いに念のため持っていきたいだけなのよ。パーヴェルホルトも知っての通り、奴は狡猾だわ。罠に掛けられる可能性もあるでしょ?」
「うむ……」
「そういう時のために持っておきたいだけなのよ。ブレンダ王女がテオドーラの剣を持っていくのと同じで、あくまでお守りよ」
「なるほど……」
「明後日の話が終われば返すし、仲間のかわいいお願いと思って頷いてよ」
「……そうだな」
横で見ていると幼女に何かねだられているようにしか見えないが、パーヴェルホルトは陥落寸前だ。その時、
「そうだな、ではありませんよ」扉を開いてケイティが入ってきた。「今朝も念押ししたのに、もう渡す寸前ではありませんか」
説得に弱いパーヴェルホルトでした。




