疲れたコネコにパンを 2
――空に浮かぶ月のよう。曇りなく、真っ白な眼球が、二つ。
自分と、目と目は向き合っているが、おそらく目は見えていないに違いない。トレイを差し出しても不思議な顔をされたのは、至極当然のことかもしれなかった。
と、思ったのだが。
「パンだ!」
言葉を理解したドールは途端に歓声を上げた。瞳がなくても、見えているのだろうか。
「食べていいの?」
内心、混乱しているとは露知らず、ドールは目を輝かせて訊いてくる。
どうやら相当にお腹を空かせていたらしい。覇気すら感じられる剣幕に若干気圧されながらも、自分もその場に腰を降ろし、トレイを置いた。
「やった! ありがとう!」
ギターを脇に置き、手がパンに伸びる。その手は二回、トレイの上で宙をかき三度目で捉えた。
その様を見て確信する。やはり目は見えていないようだ。おそらく匂いと、トレイを置いた音で、パンの存在と場所を察したようだ。
ドールはそれほど大きくないパン切れを両手で包み込み、そのまま口に運ぶと思いきや、そうはせずトレイに戻した。
「どうした、食べていいんだぞ?」
どうしたのかと思えば、ドールは手を組み目を閉じ、いただきますと告げたのだった。
「どうぞ召し上がれ」
あまりに自然で、健気で、思わず口を突いて出てしまった。言ってから恥ずかしくなり顔を背けた。
ドールはといえば、パンの皮を破り咀嚼する音が聞こえる。少し落ち着いて顔を元に戻せばすでに、一切れ食べ終わっていた。
ぱりっと、二つ目を手に取り半分に割る。
「おいしいよ! はい」
ドールは無邪気に笑うと、割った半分をこちらに向けた。おいしいのは知ってると返す。本当に外見だけでなくやることなすことが子供のようだ。それでも、屈託なくおいしいと言われるのは素直に嬉しい。
「ありがとう」
差し出されたパンを受け取る。ドールは満足そうに頷き、自分の分を口に運ぶ。口いっぱいに頬張り、苦しそうに顎を上下させる。もらったパンを、自分も端の方からかじる。
そうして口に含んだパンを飲み下そうとした時、ドールは唐突に口を押さえ顔色を悪くさせた。一目見て、喉に詰まらせたのだとわかる。
「待ってろ、今水汲んでるから!」
立ち上がって、店に向かい一目散に駆け出した。
失念していた。半日近く歌い続け、さらにパンを食べ、ドールの喉はからからに違いなかった。どうして、水一杯も用意しようという発想がなかったのか。
店にたどり着き、厨房に入って、水がめから椀に水をすくいすぐにまた店を出る。立ち上がってからそんなに時間はかからなかったはずだ。
ドールの元に駆け寄ろうと足を上げて、しかしすぐに勢いを失くして動きが止まる。
ドールがいない。
呆然と立ち尽くした。さっきまでそこにいてパンを頬張っていた姿が、忽然と消えていた。
泉に歩み寄ってみる。自分の持ってきたトレイだけがぽつんと、地面に置いてある。泉をぐるりと一周回っても見たが当然、いない。
元の場所に戻り、縁に腰掛ける。
いったいどこに行ったというのか。喉が詰まり苦しそうにしていた表情を思い出す。とにかく、その後、難なく飲み込めたならいいのだが。
しばらくその場から離れることができなかった。何食わぬ顔で、戻ってくる可能性もある。何も自分が面倒を見る必要なんてどこにもない。どこにもないのだが、このまま行方が知れなかったら、それは後味が悪いではないか。
そもそもどうしてドールはここで歌を歌っていたのか。
まるで夕方からの出来事が幻だったかのように、ドールは消えてしまった。