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その三 『血脈』

 その三


 『血脈』


 父の末期の言葉はただただ狗賓家の先行きを心配していた。

 若い頃から酷い齲歯で、壮年以降ほとんど歯が抜け落ちてしまった為、細かいところまでは何をいっていたかは聞き取れず、つまりは詳細は誰も覚えておらぬ。それでも残される家族よりも狗賓家そのものを心配をしていることだけはよくわかった。

 確かに父は平素から御家大事の人であったが、せめて文句ひとついわず添い遂げた母に対し労いの言葉ひとつだけでもかけてやってほしかった。母あっての、延いては一族郎党あっての狗賓家だろう。

 その母も二年前に不帰の客となった。

 父に忍従を強いられる為だけに嫁してきたような人であった。

 自分は先代正十郎とは違う。

 何処が違うかは巧く説明できない。


 正十郎はこりりと粕漬けを噛んだ。あの辛いばかりの痩せた於朋泥が酒粕に漬けただけでどうしてこうも甘味を出すものか。

 桜が茶を差し出す。

 宵である。

「桜」

「はい」

「…いや、なんでもない」

 桜は黒い瞳で正十郎を見、口元だけで笑った。

「なにが可笑しい」

「いえ」

 正十郎は桜のその笑みが嫌いだ。何処か見下されているような気分になるのだ。

「いいたいことがあるならはっきりいえばいい。どうしてそのような顔で見る」

「そのような顔とはどのような?」

「今のような顔だ」

「わかりませぬ」

 そういって桜は俯いた。小さく溜め息をついたようだ。

「それより旦那様」

「なんだ」

「西の館の話なのですけど」

「ああ」

 下男に続いて侍女が殺されたらしいと同輩数人が噂話に花を咲かせるのを、正十郎は用のある振りをして耳を欹て聞いてきた。

「また槍で一突きらしいな」

「それはつまり、一人目の下男を殺して以降も蝋燭の火が消え続けていたということなのですよね。すると火を消していたのは下男の某ではないということで」

「道理だな。亡者が火を消さぬ限りは」

 そう冗談めかしていうが、正十郎自身それはそれで有り得ぬ話ではないだろうなどと思う。死して尚極楽だ地獄だと世界のあるを嘯く輩は多い。正十郎も幼い頃から慣れ親しんできた話であり、人死さば即ち無、などといった無常感たっぷりの教義などより身に馴染んでもいた。

 ただ正十郎の常識は世間の常識ではない。「まあ怖い。亡者がどうして火を消せるのです」

「そんなものは知らん。ただ、亡者や幽霊がおるのならば極楽もあるのかも知れんとそう思ってな」

「極楽、で御座いますか?」

「あぁ、まあ気にするな。しかしあれだぞ。そのうち、亡者が消して回っているだとかそうした話に発展していくのではないかな。噂とはそうしたものだ」

「噂と申しましても旦那様、歩けば行ける距離の話なのですよ?」

「確かにそうだが、我らなど一生関わりのない場所でもある。ならばそんなもの御伽噺と同じよ」

「そうなのですか」

「そのくらいの気持ちで関わっていた方が良いという意味だ。所詮噂話と話半分に聞いているのが一番いい」

「旦那様、何かあったので?」

「なにもないがな。いずれ関わるにしても無関心を装うにしても、考えて間合いを計らねば面倒だと、そう思うただけだ」

 悩むまでもなく、正十郎は後者だ。

「でしたら私ももう申しません」

「まあ、うむ。それが一番良い」

 正十郎はずるりと洟を啜った。深更近くなって更に冷え込んでいるようだ。

「昨日は雨だったがそろそろ雪になるのかも知れん」

「そうですねえ。すっかり冷え込んできて」

 薪が爆ぜた。

「もう少しくべようか」

「勿体のう御座います」

「しかし寒くはないか」

「平気です」

「そうか」

 郎党はもう寝たものか、離れは静まり返っている。


 轟、と風が鳴った。


「旦那様はそうしたものを信じなさるのですか?」

「そうしたもの? 亡者か? 幽霊か」

「はい」

「信じているな。まあ歴としたものではないが。ただ結局信じるも信じぬも話に聞くばかりで見たことがない。お前はどうなのだ」

「私は、そうですねえ。そうしたお話は好きですけれど、実際に目にしたら矢張り怖おう御座います」

「好きなくせに怖いのか」

「好きなことと恐れることは別で御座いましょう?」

「そうかな」

「怪談は聞くだけだから愉しいのです。話の当事者ではまるで愉しくありませんわ」

「まあ、殺された侍女が真犯人だったことを願うのみなのだろうな、館の者は」

 どうやら西の館のある方へ顔を向けている桜に、正十郎は囁くようにいった。

 桜は侍女がねえと極小さな声でいい、続けて、

「逃げ出しませんか、館の者は」

 と尋ねてきた。

「ん? ああ、幾人かは闇夜に紛れ遁走したそうだが何分季節が悪い。矢張り逃げようにもその先のない者が殆どだ。いつ殺されるかわからぬ恐怖か、野垂れ死にか、どちらかを選ばねばならん」

「西様はどうして侍女をお疑いになられたのでしょうね」

「そこまでは知らんよ。しかし、疑われるには疑われるなりの行動を取っていたのではないか?」

 桜は早々に正十郎に良考のないのを看破したようで、やがてふむふむとおのれの考えに没入してしまった。

 正十郎は茶の替わりが欲しかったのだが、何故かいい出せなかった。隙間風がいいだけ膝頭やら足先やらを冷やす。

「寝るかな」

 ぼつりといった。瞬間桜ははっとし、お茶はもう宜しいですか尋ねたのへ、正十郎は若干不機嫌になって、

「いや、もういい」

 と立ち上がった。


 翌朝、払暁の薄闇の中起き出して桜に手伝わせつつ出仕の支度を整え、いつもそうであるように一度大きな溜め息を落としてから外に出た。

 外はうっすらと白かった。

 雪ではない、霜が降りたのだ。

 庭先を見遣れば年配の郎党がせっせと薪割りをしていた。

「なんだ、薪の備蓄が足りんのか」

 頭の毛がほとんど白い。一体いくつになったのだろうと思いつつ、正十郎はそう声を掛けた。

「あ、旦那さん、お早うさんでやす。寒いですな。いえね、逆なんでさ。薪用にと取っておいた木が余り気味でやして。だもんで売っ払って少しでも銭こさえようかと」

「薪を売るのか? 山に入ればいくらでも獲って来られるものを一体誰が買う」

「なに、こんな村でも、薪拾いも薪割りもやりたくねえ。だけれど金はあるってモンは居るですよ」

 郎党は汗だくで湯気まで出して笑った。

「しかし幾らにもなるまい」

 自分がそういうと、老いた郎党は汗を拭う手を止め暫時正十郎が顔を眺めた。

「はあ。確かに幾らにもならんですが」

「ふん。それほど我が家の家計が逼迫してるわけでもなかろう。行ってくる」

 立ち話をしていても身体が冷えるだけだ。早く出仕して帰宅するのがいい。そんな主の背に、郎党が溜め息を投げ掛けているのには正十郎はまるで気がつかなかった。


 知らぬは幸せ。


 無知は罪。


 そんな無知なる主が登城している頃。


 その時桜は洗濯物を干していた。

 今朝方はあれほど冷え込んだというのに、午近くにはまるで春の如き陽気となった。

 いつものように桜は、今朝方薪割りをしていた郎党頭の妻と二人で庭いっぱいに下穿きやら寝巻きやらを干していた。

 そこへ、

「奥様」

 声を掛けられた。

 見れば生垣の向こうに酷く顔色の悪い男の顔が覗いている。

 桜は兎に角男の銀髪に目を奪われた。

 なんと珍しく、なんと美しい髪をしているものかと。平素実の母のように慕っている郎党の妻に袖を引かれるまで、桜は男の髪色にただ見とれていた。

 男は残雪と名乗った。

「なにか御用でしょうか?」

「外堀を埋めに罷り越した迄」

「はい?」

 なにかが怪しいと気取った郎党の妻は、さっときびすを返すと何処に居るとも知れぬおのれの夫の名を何度も呼ばわった。

 残雪は空を見上げている。

「今日は暖かい」

「ええ。とても良いお天気で。お陰で洗濯物が干せます」

 桜は抜けているわけではない。それどころか人の何倍も聡いところが多くある。

「生憎主人はお城に行っております。もしあれでしたらお上がりになってお待ちになられますか?」

「お言葉に甘えさせて頂こう」

 桜はほぼ躊躇なしに残雪を家に上げてしまった。やや置いて、手に手に得物を携えた郎党らが息を殺しつつ残雪の居る部屋を囲んだことを、その時の桜は知らない。

 残雪は桜の淹れた熱い茶を早々に飲み干すと、魚里いおさとの生まれだとかと口を開いた。

「…まあ、よくご存知で」

 そこでやっと桜は目の前の男の底知れなさを気取り緩々と戦慄しはじめた。

「満ち足りておいでか」

「は?」

「今の生活に満足しておられるのかと訊いている」

「え、ええ」

「冗談だろう」

「え?」

「夜露を凌げる家がある。それだけだ」

「それが何より大切ではありませんか。それ以上を望むなどバチが当たります。人には分相応というものが御座いましょう」

「無欲は美徳ではない」

 加えてと残雪はわざとらしい間を置いた。


 間とは魔であるという。


 桜はその時目こそ庭に揺れる洗濯物を追っていたが、どうにも落ち着かない気分は次第に膨張し、遂には、

「加えて?」

 尋ねてしまう。

「蔵座国主をどう思われる」

 しかし桜の問いは簡単に聞き流されてしまった。

「三光坊様…」

「三光坊頼益」

「そのような、呼び捨てなど…」

「不遜とでも」

「いえ、否あの、不遜と申しますか危のう御座います。何処で誰に聞かれているかも知れず」

「この国の全てを取り仕切っているのが三光坊家」

 蔵座とは三光坊の別称ともいえよう。この山間の小さな国と主家は切っても切り離せぬものである。

「皆鬱陶しくは思っていても、この国に在る以上寄り掛からねば生きて行けぬ」

「鬱陶しいだなんて、そんな…」

「どうやら正十郎殿からは、私のことは聞いておられないようだ」

「え?」

「このままでは共倒れだ」

「あの…」

「近くこの国に堕府が侵攻する」

「堕府とはあの堕府でしょうか」

「盟を結ぶのではない、侵攻だ」

「あのう…」

 どうしてそのような話を自分にするのか、桜はただただ不思議に思った。無理もない。

「堕府は日輪で最も大きな軍を持つ。蔵座がこの国難から逃れる術は、隣国にして堕府に並肩する軍事強国である七鍵しちけんに支援を求めるか、早々に堕府の軍門に降るかだが」

「え、ええ」

「頼益は七鍵が嫌いだ」

「…あの。嫌いと申しましても、仮に本当にのっぴきならない状況であるなら、そのような」

「頼益は一国の主という意識に薄い。そして国を守る知恵も力もない」

「何故御山様は七鍵がお嫌いなのです?」

「その昔七鍵に天下に名立たる美姫がいた。頼益はその姫を我が嫁にとそれはあらゆる手を尽くした。だが結局美姫は日輪中部の国に嫁した。それが未だに許せないのだそうだ」

「ですが上に立つ方々にとって婚姻は同盟と同義でしょう? こういうのも何ですが…」

「そうだ。何も好き好んで此処のような辺鄙な国と盟を結ぶ必要はない。しかし頼益にはそれがわからない」

 結局は愚かなのだなと残雪は独りごちた。

「愚かであるからこの国が滅ぶと? 堕府に潰されるとそういうことですか」

 桜は幾分冷静さを取り戻し茶の替わりを淹れた。話が大き過ぎて冗談にしか聞こえなくなってきているせいかも知れぬ。

「何れにしても私になさるお話ではないようですね。いえ、主人とてそのようなお話に関わるような職に就いているわけでもないですけども…ええ、まあ」

 しかし残雪は傲然といい放った。

「この国を救うには狗賓正十郎が必要だ」

 桜はどう返事していいかもわからず、大きな目を白黒させた。

 残雪は新しく淹れられた熱い茶を一息に嚥下すると、また来るといって去った。

 一人残された桜は考える。

 まさかあの話は本当であったのか、と。


 正十郎が帰宅すると、狗賓家は混乱していた。

 桜を筆頭に家人がかわるがわる正十郎の許に来てはああだこうだと昼間の闖入者に付いての見解を述べる。その都度どうするのだ、いうことを信ずるのかと問うものだから、仕舞いには正十郎は辟易してしまって、取り敢えず飯を喰わせてくれと半ば懇願するような恰好で話を断ち切ったものだ。


「しかし堕府が攻めてくるとは、な」

 初見時残雪が自分に対してしようとした愉しくない話とは、はたしてそれだったのかと正十郎は思った。

「只なあ。そんな話を自分にしてどうする」

 桜ではないが、話が大き過ぎてとても信じられたものではない。その上正十郎には残雪を信用する材料はひとつもない。尤も残雪にしても、自分などを陥れて得をするとは正十郎には思えない。

「外堀を埋めると、そういったのだな」

 桜は正十郎の問い掛けに目顔で小さく頷いた。

「ううむ、まるでわからん」


 その日の夕餉は川魚を一度素揚げにし、辛味の強い蕪と一緒に炊いたもの。粟飯と香の物、あとは味噌汁。

 味噌汁を一口啜ると人心地ついた気がして正十郎は天井を見上げた。縦横に架けられた太い梁が闇の中にぼんやりと見える。


 食と家。

 それ以上に何を望む。


 味噌汁の実は零余子だった。

「私は何だか怖おう御座います」

 そう口を開いたのは桜である。表情こそ穏やかだが声の調子が若干暗い。

「それは当然だろう、何処の馬の骨とも知れぬ男を家に上げてしまったのだからな。自業自得と」

「違います。堕府が攻めてくるのがで御座います」

「そのような大法螺信じるのか?」

 そういう正十郎もそれに就いては判断を棚上げしていた。ただ桜の手前そうもいえなかっただけだ。

「大法螺ならばそれでいいのです。妙な男に誑かされたと笑い話になるのでしたらそれで…でもそうじゃない可能性、とでも申しましょうか。旦那様、お城で何かお聞きではありません?」

「いや何も。まあ聞け。若し仮に、本当に大都がこの貧しい国に攻め入るというのならば御山様とて下らぬ強情は張るまいよ。国の大事にはかえられまい」

「ですが、七鍵に支援を申し込んだにしても彼の軍国は兵を出すかわりにそれなりのものを要求してくると思われます」

「まあそれも当然な話だな。それなりのものな、うむ」

 行儀悪くねぶっていた箸を茶碗に置き、正十郎は考える。

 堕府には数では劣るものの、精強な軍兵と肥沃な土地、そして何より軍神と称される男を国主に擁する日輪随一の軍国は、食うや食わずの者どもの集うこの貧国に一体どのような要求するというのだろう。

「そんなものお前、この国一国差し出しても足るまいよ」

「ですから。堕府に侵略されようと七鍵に支援を求めようと、何れ蔵座は今の蔵座のままではいられないのではないですか」

「おいおい、すっかり残雪の言葉を信じているような口振りだな」

 そう気に病むな、狐にでも騙されたと思って忘れろといって正十郎は酒を要求した。

 桜は片頬を押さえながらゆっくりと立ち上がり、

「確かに顔は狐の面のようでしたけど」

 といって酒を取りに行った。

 その背を目で追い、自分でいっておきながら正十郎は無駄に思考を連ねる。


 何の為に現れた。


 何故自分なのだ。


 外堀とはなんだ。


 この場合、桜にそういったように騙されたと思って笑い話とするか、残雪をとっ捕まえて真意を問い質すかしか、胸の閊えを解消する術はない。

 酒はまだだろうか。

 何やら奥の間で物音がしている。

 まさか残雪が闇に紛れ侵入してきたかと正十郎は、横着ながらも首を伸ばし奥の様子を窺おうとするが、如何せん光量に乏しくまるで見通せない。

 物音は止んでいる。

 横目に闇を見、正十郎は不図堕府のことに思いを馳せた。伝え聞いた話では、大都では歌を聴きながら酒を飲むのが流行りなのだそうだ。飲み屋すら存在せぬ蔵座に居ては、其処がどういった場所なのか見当もつかぬ。歌とて此処でいう木遣りだの童歌だのとは違うのだろう。

 煌びやかな世界なのだ、と正十郎は乏しい想像力で思った。まるで稚児の描く戯れ絵のような世界しか想起できず、思わず鼻から息が漏れた。

 やっと桜が戻った。

 盆に正十郎愛用の素焼の徳利と、真桑瓜の皮を味噌漬けにした物に軽く七味唐辛子を振ったのを載せている。どうやら酒の肴を支度するのに手間取ったようだ。確かに正十郎はあまり空口で酒を飲むを好まない。

 桜が再び落ち着くのを見て口を開いた。

「もし自分がだな、やんごとない血を引いているのだとしたらどうだ」

「ええ。それでしたら残雪と名乗った仁の狙いも何となくですがわかりますわね」

「そうよな。例えば、今は零落してしまった我が身を押し立て、現主君にかわって蔵座を支配しようなどとな」

 鼻歌でも歌うようにそういって、正十郎は手酌でぐい呑みに酒を注ぎ入れた。桜は他のことには割合気端が利くのだが、どうも旦那に酌をするという頭は完全に抜け落ちてしまっている。

「旦那様を押し立てて。何だか大変な話で御座いますわね」

「ああ、うむ…」

「どうかなさいました?」

「いや」

 正十郎は自分が幼かった或る日、父が珍しく酒に酔い一度だけ愚痴る様にいった言葉を思い出していた。


 世が世なら蔵座は狗賓の物であったのだ。


 それはそれだけのもので、正十郎も長じて後、父の言葉の真意を問い質すことはしなかったし、父もまた家族を前に改まって語ることはなかった。

 過酔に乗じて発した言葉です、外で他言なさらぬようにと母に何度も口止めされたのをよく覚えている。幼い頃は兎に角、父の言葉の意味よりも、その時の母の真剣な眼差しやら眉間に寄った皺がとても恐ろしく思えて、正十郎は何度も頷き約束したものだ。


 何れそのような事実、今の狗賓にとって禍しか呼び込まぬ。

 ずるりと酒を口に含んだ。

 少し若い感じがするが、鼻に抜ける香りが何ともふくよかである。

「いい酒だな。貰い物かな」

「それは残雪さんのお土産ですわ」

「なんと」

 驚きのあまり飲み下してしまった。正十郎は思わず口に手を当てた。

「そ、そういうことは早くいえ!」

「まあ。まさか毒でも」

「正体の知れぬ男の土産など、安心できんではないか! その前に土産をもらう理由がなかろうッ」

「ですが、大丈夫で御座いましょう?」

「む…」

 不味い酒ではない。それどころか好きな味である。捨てるには惜しい。

「ま、まあ、大丈夫なようだがな」

 などといって正十郎はぐい呑みの残りを呷った。桜はくすりと笑った。

 先から頭を巡る愚考のせいか、呑み慣れぬ佳醸のせいか頬が火照っている。何を昂ぶっているのだと、そう思う。

 残雪の出現に因って忘却の彼方にあった亡父の言葉が耳裏に甦ったに過ぎぬ。

 正十郎は鼻で笑った。

「残雪はまた来るといったのだな」

「はい」

「桜よ」

 良い酒に気も多少大きくなり、正十郎はいわずともよいことを口走る。

「もし自分が、この国の王だったとしたらどうする?」

「私もそれを考えておりました」

「何?」

「覚えておりませんか。この家に嫁いだ夜、旦那様は私に狗賓の血筋の話をして下さいました」

「何と、自分は何といったのだ」

 まるで覚えていない。

「ええ。手も握らず、同衾こそしておりましたけれど」

「それはいい。自分は何といった?」

「はい。ただ、昔父がいっていたと。世が世ならこの国は狗賓のものであったと。私はどう答えたものか覚えておりません。何せ殿方と閨を共にするなど初めてのことでありましたし…まあ、当然の話ではありますけど」

「よ、酔っていたのだったかな」

「いえいえ、祝い酒こそお飲みになられてましたけども、お酔いにはなられてませんでした。ただ、自分は今の生活に満足しているとは仰っておりました」

「そうか」

「はい」

 矢張り覚えていない。

 一度桜の顔を見、見返されたので目線を徒に床に這わせた。

「戯言よ。忘れよ」

「はい。あの時も最後にそう仰っておりました」

「ふん」

 桜を娶った十年前から自分は何ひとつ変わっていないようだと、正十郎はやはり自嘲気味に鼻で笑った。


 翌日いつものように城へ行くと、何やら空気がざわついていた。


 西の館で三人目が殺されたという。


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