その二 『東の女、鈴蘭』
その二
『東の女、鈴蘭』
西の騒ぎを東で聞き、それでも最初は痛快でもあったのだが、今は粘性の強い不安に包まれ、何とも漫ろな気分である。近く、実に数年振りに此処東館に御山様が訪れる。
単純な話なのだ。手に持ったふたつのうちのひとつが潰れ、使い古しのもう片方へと流れた、それだけのこと。数年来御山様がご執心だった西の寵姫がこの頃乱心気味故、とても寄り付ける状況にない、それだけ。
それでも。
当館へとやって来る。
その事実は誠に悦ばしい。
「ふふ…」
無理矢理に笑みを仕舞い込み、我が頬を縦に伸ばした。
これでも数十年前は今生稀に見る美姫と近隣諸国に有名鳴り響いていたものだが、今は往時の烈輝の如き精彩に日々翳りを滲ませていた。
それでも、否だからこそか。
私は、血筋さえ良ければ此処のような貧国の、それも側室などといった位置に納まることはなかった筈の女だろうと思っている。重ねるが私は、その昔はそれはそれは見目麗しい、
「ふん…」
過日のおのれを振り返っても建設的ではない。それよりも久方振りに訪れる彼の男に老け込んだと思われないよう身支度を整えなくてはなるまい。今の私は西の女に劣っているという事実を冷静に踏まえながらも、日々なんの希望もなく生きている状態から脱出できるかも知れぬと淡い期待に胸を躍らせる。
不思議と御正室も西の女もさんざ主君の種を受けながら胤を身籠りはしない。
私は過去に一度、御山様との子を授かったことがあった。その子は生まれてすぐに消えるように死んだ。今では産声すら覚えていない。
泣かなかったのかも知れぬ。
兎も角。西と違い子の生せぬ身体ではない私は、実際既に半分以上諦めていたのにも関わらずこの機会を逃す手はあるまいとすぐさま気持ちを切り替えた。
私は先達の知恵に縋ろうと東館に関わる全ての、子を産んだことのある者を集め話を聞いた。正直得るものはほとんどなかったが、それはそれで愉しかった。
勢いで誤魔化せなくなっている。こまごまと下準備をしてやっと、諸事に対する心構えが出来上がるのだ。
しかし。
私は緩慢な戦慄に身を震わせた。
まさか人が死ぬまでに事が発展するとは思いもしなかった。
発端は最近この館に顔を出す妙な男。
名を残雪という。
果たして残雪が進言したこと。
目をこちらへ向かせましょう。
それはいわずもがな、御山様の興味を私へ向かせようとの意。私は目の前の痩身の男の正体を見極めることもせず、取り敢えず其の方法はと尋ねた。しかし残雪の返答、即ち御山様の意識を当館に向ける為の案は、正直使えるのかどうかわからぬ奇妙なものだった。
残雪は結句、結果が気に入らぬ時は此の身を斬り捨てて頂いて結構といい放ったものだからこれは面白いと相成った。勢いでしかない。まるで呑まれていたともいえよう。
奇妙な献策。
西の館の蝋燭を消せ。
西の女は極度の暗闇嫌いらしい。その話は彼女が此処蔵座に来た当時から有名である。
しかし当然のことながら最初は、蝋燭の火を消して回れとは一体どれほど貧相な嫌がらせかと鼻でせせら笑った。
西の女に不快感を抱かせる以外効果はないだろう。そういうと残雪は、どうにもならないでも東様には一切痛みがありますまいとまるでこちらの肚を見透かすようなことをいうものだから、私も思わず先の宣言まことであろうなとほんの少し語気を荒げて問い返したものだ。
残雪は一言無論といい放った。
なんなんだ、こいつは。
棒ッ杭に白い布を巻き付けたような外見の癖に、矢鱈と人を喰ったところがある。声とて金属的でとても美しくはない。目付きも悪い。普通ならば聡明そうだと評されることの多い広い額も陰険さを助長しているように思えてならない。
しかしどれほどふざけた内容であろうと、実行の可否を決定する権限のある私は、矢張り様々尋ねねばならぬ義務があったろう。まるで怠っていたわけだが。
結果、繰り返すが、彼の男の献策に則って事を起こし、そして死人が出た。
側近の伊福部福四郎は出会った昔からそうであったように、苦虫を万遍噛み潰したような顔にうっすらと汗まで浮かべて、無闇に奥行きばかりを感じさせる残雪の目やら額やらを見、そしてちらりと私を見るのを繰り返している。
館の最も広い部屋の上座に私、その横に立つ伊福部、残雪は下座の一番端で低頭し押し黙っている。
私は目だけで伊福部に問い質せと命じた。
伊福部は喉に痰を絡ませながら残雪の名を二度読んだ。
「どうするのだ、人死にが出たぞ」
死んだのは名も知らぬ館付きの下男。
残雪は垂れていた頭を少し上げ私を見た。
私は目を逸らす。
残雪はだから如何といった。
「如何だと? 貴様は死人が出るかも知れぬとは一切いっていなかったではないか」
「何か問題が」
「何だと!」
伊福部の声は少し震えている。一方の残雪は一切揺るぎのない、聞き様によっては自信に満ちた雅声で、
「何の影響もない」
といった。
確かにそれは残雪のいう通りだ。
実際御山様の顔をこの東館に向けることに成功している。只後味が悪い。
私は言葉を挟んだ。
「しかし残雪、失敗云々は元より、貴様は結果が気に入らぬ場合も如何様にもせよといったな」
「はい」
残雪は再び丁寧に辞儀をした。銀髪が扇状に広がって、昼下がりの陽の光を鈍く反射させている。慇懃なのか無礼なのかも判じかねる男だ。
「気に入らぬ。私は死人が出るなどと思っておらなんだ。これでは寝覚めが悪いぞ」
「それは困りました」
「気に入らんぞ。なあ伊福部」
伊福部は姫がそう仰せであるならとぼつりといった。
幾度姫はやめてくれといっても一向止めてくれぬ。
こんな薹の立った姫などおるまい。
私は生唾を静かに嚥下して、残雪の後ろ頭のあたりを無感動に眺めた。無性に煙草が欲しくなった。
「残雪」
残雪は手土産に大都で流行っているという刻み煙草を献上してきた。幾種類か混ぜているらしきそれは女の私にも吸い易く感じられた。恐らくは高級な品。若しかしたら私が煙草好きという事実を何処かで聞き知ったのかも知れぬ。
大都堕府になど一度として訪れたことはなく、そしてこの先も訪れることはない。この寒い国で一生を閉じるのだ。その点に今更不満はないが、だからこそ、この国に埋まる一生を少しでも有意義なものにしたく望む。
「残雪よ」
私の二度目の呼び掛けに残雪は再び面を上げた。
矢張り私は残雪を正視できない。
「私は不快じゃ。貴様を斬って捨てる」
すると残雪は折っている膝と膝の間を少し開け、その上に柔らかに握った拳を置き、白面を軽く傾げ一度天井の辺りを見、やや置いて後、先にも増した冷たく鋭い視線を私に寄越した。
私は今度は、その荷重のあるが如き視線に絡め獲られ目を逸らせなかった。
痛い。
突き刺さる。
残雪は薄い唇を開けた。
「愚かなことを」
「な」
私が残雪の言葉の意味を理解するより早く伊福部が抜刀し、
「愚かだと!」
残雪の眼前に抜き身を突きつけた。
はらりと、銀糸の如き長髪の幾筋かが畳の上に落ちた。
「なんたる讒言! 身分を弁えられよ!」
残雪は失礼をと自らの膝元に落すようにいうと、まるで女官の如き細く長い指を一本出し、伊福部の刀をつと横にどけた。
伊福部の顔に朱が差す。
捲れて見えているかいなの筋がびくりと収縮し「伊福部! よい!」
私は思わず大声に怒鳴った。
大きな口を開けては皺が深くなるというのに。
「残雪よ」
「はい」
「このままいけば確かに御山様は此処を訪れる。貴様の思惑通りな。望みの物を申せ、可能な限り褒美として取らせよう」
このような鼠輩早々に手を切るが得策だ。
すべては招き入れた者の落ち度だ。
誰が残雪をこの館へ招じ入れたのだ?
残雪は褒美はといって間を置いた。
「とく申せ」
「褒美はもう少しこの館にお仕えさせて頂くこと、でしょうか」
「なんと!」
伊福部が唸った。
残雪は感情を乗せぬ冷たい目で伊福部をちらりと見遣り、私にいった。
「他家の下男の死ひとつ、あまりご動揺あらせられるな」
「何だと?」
「もっと大局的に物事を捉えられよと申しております」
「何の事をいっておる」
私がごにょごにょと口籠っていると、伊福部がやっと刀を収め元の位置に戻った。
残雪は言葉を発する。
「宜しいか。この計画は西の主を生かさず殺さず。生かしておけば御山様は西館に入り浸り、殺さば新しい西の住人を何処からか連れて参る。しかし西の主が適度にご乱心している間ならば、いつか治るという思いから御山様は西様を手放すことはない」
「まあ、そうであろうな」
なにせ西の女は御山様のお気に入りだ。
「さりとて御山様はかなりの精力漢」
私は思わず笑い、そして惨めな気持ちになった。あの男がひと月もふた月も女を断てるわけがない。
正妻は病身、寵姫は乱心、その状態が長く続くと思ったればこそ。
「ふふ。惨めだわ」
「そう卑下なさるな」
「黙れ!」
「過程や方法を深く考えなさるな。得ようとしている結果にのみ自尊の心をお持ちあそばしますよう」
知った風な口をと伊福部が口中呟くのがわかった。
結局私は残雪を切ることはできない。
みっともなくとも何でも、今までを只生きてきた私のごとき女には、残雪のごとき狡猾漢が必要だ。
残雪は当面の生活費という名目で僅かばかりの米と味噌、そして酒を所望した。但し当人はまるで下戸らしい。
「其の方は何処で寝泊まりしているのだ? どうだ、当館に…」
どうせ雇い続けるならそうした方が良い。下手にそちこち動き回られても適わぬ。そして今後、もし斬り捨てる必要が生じた場合も手元に置いておいた方が都合が良い。しかし残雪は、何処其方に宿を求めてあります故と私の申し入れを柔らかく固辞した。
本当に喰えぬ男だ。
喰えぬ男は一度深々と頭を下げ音もなく立ち上がると、すと障子を開け暫時外に目を遣った。
眩しいのか、はたまた目が悪いのか眉間に縦皺を彫り、瞼を窄める。
「このあたりに大きな墓所があると聞きましたが」
「ボショ? ああ」
それは本当にこの館の目と鼻の先だ。かといって濡れ縁から見えるものでもない。
因みに三光坊家の菩提寺はその墓所を足元に見た小高い丘の上にある。
「少し離れた所にな」
「そうですか」
残雪の質問の意図は何なのだろうと思いつつ、自分もいつかはその墓の群れのいずれかに埋葬されるのだと思った。
丘の上か下かはわからぬが。
寂しいような儚いような気分になる。
残雪はまた参上致しますと言葉を残して立ち去った。
気付けば外は雨。
その夜。
ちりちりと燃える蝋燭の火に見るともなしに目を遣りながら、今尚降り続ける雨の音を聞いていた。
この数年寝酒がなくてはまるで寝付けぬ。今は揚げた餅に軽く塩を振った物を宛てにひとり飲んでいた。
風はない。
それでも蝋燭の火は揺れるものなのかとそんなことを考えている。
不図触れたおのれの顎の線が気に入らなくて、手に持った揚げ餅を庭に放った。伊福部が見ていたなら烈火の如く怒ることだろう。堅物なのだ、あの爺さんは。だからこそ律儀に自分の人生を私のような女に捧げている。伊福部とて伊福部なりの理想の一生というものがあった筈だ。
雨の音。
それ以外に何も聞こえない。
酒がなくなった。替わりを持ってこさせようと片膝立ちになる。
と。
せんぽく、かんぽく、
せんぽく、かんぽく、
雨音の間に間に聞こえる。音としてはっきりそう聞こえるのではなく、無理矢理に文字として表すなら、
せんぽく、かんぽく、
軽快なようでいて何処か物悲しい音だ。
蔵座の風習で死者を弔う場合、死者が生前愛用していた食器をひとつ墓に供える。供える物は何でもいいのだが、大概は飯茶碗を選ぶようだ。
それが午の会話に出てきた墓所に所狭しと並んでいる。それはもう夥しい数である。それでも縁者の絶えた者たちにとってはそれが墓標となっていた。
その飯茶碗などが雨に打たれ、そんな奇妙な音を鳴らしているものか。
しかしそのような音、今までしていただろうか。
せんぽくかんぽく、
加えて、
「提灯?」
うっすらと見える木立の向こうに火の灯かりが見えた。確かあのあたりは墓所へと向かう細い道が延びていた筈だ。
誰かを葬るのだろうか。
こんな夜中に?
こんな雨の日に?
しかし私には関係ないことだ。そろそろ眠らなくてはと思いつつも、私は木々の間に明滅する提灯の灯かりから目を離せずにいた。
もしかすると罪咎のある者を葬ろうとしているのかも知れない思ったがすぐさま。
「待て私」
此処数年蔵座にあって、死罪になるほどの大きな罪を犯した者はおらぬ筈だ。
ならば。
いくら目を凝らしたところで遠くにある人影の顔など見えはしない。埋葬するに白昼行えぬ事情のある者。
「ああ」
西の館の下男。
そして今更に実感する。
本当に殺されたのだ、顔も名も知らぬ下男は。そしてそのきっかけを作ったのはおのれである。
「私は…」
残雪の策に乗っただけ。
それもこれも御山様の胤を身に宿す為でありひいては伊福部やら誰やら其やらこの東館に関係する者どもの幸福の為。
そんなものは自己欺瞞だ。ただ今は、それでいいのだと誰でもいいから一言いって欲しかった。
おまえはまちがっていないよと。
気付けば雨は止んでいた。
提灯の灯かりは動くのを止めていた。
月明かりに黒々と樹影を屹立させている千年桜の姿が、提灯の小さな明かりの真横にはっきりと見て取れた。あの化け桜は墓所の真ん中に生えている。矢張りあの提灯の灯かりは下男を埋葬する為のものなのだ。館の主が乱心し、そして突き殺した下男。
「ふん、どうでもいいわ」
強がる。誰に聞かせるものでもない、自分の縮む心に対してである。口に出し音にしていい聞かせるのだ。
翌日。
残雪は陽が昇って間もなく館を訪れた。伊福部などは露骨に嫌悪感を表わし入れずともよいと怒鳴った。私はといえばあの後飲み繋いだ酒が未だ後ろ頭の奥の方に残っているような、自分が粕漬けにでもなってしまったような、つまりは二日酔いの状態で只座っていた。眼球の奥から次から次へと倦怠感が染み出てくる。
残雪は音もなく廊下を渡り、座し、矢張り音もなく襖を開けた。
膝を折り低頭している。
「残雪よ、私は矢張り人死にが出るのは好かぬ」
「はい」
声音が微々とも変わらぬ。まるで平板でまるで感情の籠らない声だ。
「これ以上人が死なぬようにせよ」
できんのならばもうやめにしたいとはいえぬ。残雪を手放すのなら斬らねばならぬ。しかし結局、その命令とて私には下せまい。
「東様」
「私は」
鈴蘭じゃと続けようとして結局やめた。このような男にその名を知らせ呼ばせて何の得がある。尤も特別隠しているわけでもない故調べれば直ぐに知れることではあるが。
「通称で呼ばれるのはお嫌いなのですか、鈴蘭様」
ここまで来ると流石に悪寒が走る。
しかし良果を得たいのであればここは我慢するしかない。良果とは無論、御山様の御落胤を此の身に宿すことである。
時間は余りない。
「確かに時間はない」
「なにを」
「いえ」
なんなのだこの男は。
覚りの怪か?
「…残雪よ」
「はい」
「…あ。うん。…今後も貴様と誼を通じたいと思う、思うがしかし、先にいった通り私は人死にが出るを好まぬ。成るべく人が死なない方法を採りゃれ」
私の言葉に残雪は暫時蛇のように固まっていたが、やがて薄い唇を開いた。
「鈴蘭様、おのが意を十全に相手に伝えたいと欲さばそれ相応の言葉を舌先に乗せねばなりませぬ」
「それが…」
なにか言葉足らずなところがあったか。私の要求は単純であるし、失言もないように思う。自分なりに言葉を選び冷静に話したつもりだ。
いや、待て。
「あ。あの、成るべくというのは」
残雪はすっくと立ち上がり、また参上致しますと颯爽と退出した。
私は何かを掴もうとしているような中途半端な姿勢のまま、とりあえず伊福部を見た。
「姫。あの男の策では死人は想定内。一度関わりを持った以上今更どうもならないようですな。しかし若し、姫がこれ以上犠牲となる者を出されたくないのであれば。この伊福部福四郎、初めて人を斬らせて頂くことになりましょう」
「よい。もうよい。誰も斬るな。人死にが出たとて所詮は西館。顔も名も知らぬ者。であるならばそのような事柄我々には有って無きが如し。違うか」
違う。だからそれは自己欺瞞だ。
伊福部は音が出そうなほど奥歯を噛んで、何かを必死に耐えている。
「しかし伊福部。あの男誰が引き入れた」
私の愚痴のような言葉に、伊福部はこれ以上開かぬというほど目を開け、
「姫では御座らんのか」
といった。
「わ、私は知らぬ。私が知らぬ間にあの男はこの館に入り込んでいたぞ」
「なんと…」
「本当に伊福部ではないのだな」
「滅相も御座いませぬ」
「…気に入らん、まったく気に入らん」
明らかに残雪は誰かを謀ってこの館に出入りしている。それでも結果として御山様の胤を宿すことができたのならばそんな瑣末なことはどうでもよくなるのだろうか。
夕。
忙しなく立ち働く下女らを横目に見、今以て尚西の主は残雪の策に因り恐々としているのだろうかと夢想する。もそもそとした思いに囚われているが故、夕の膳の飯を口に運んでいるのだがまるで味がしない。
これでいいのだという思いと、断たねばならぬという思いが交錯して、やがて私は悪酔いでもしたような実に不快な気分になった。
もう入らぬと膳に箸を置いたその時、騒々しい足音が鳴り響き、午から姿を見ることのなかった伊福部が部屋に躍り込んできた。
伊福部は肩で息をし、暫く暫くと繰り返している。余程慌てているらしい。それだけで凶報であることが知れた。ここまできて御山様が我が館に来るのをお取りやめになられたか。私がまさか御山様がといい掛けると伊福部は否さと首を振った。
「さ、左様ではあり申さぬ…」
「では」
「に、西の館でまた人死にが…あいや、人が殺されました」
「な…」
それはとても厭なこと。しかしそれでも、待人不来よりはましかと心の何処かで思っている。それは私の心奥のほんの一部分の思いではあるのだけれど、とても深く重い。
「誰が。今度は誰が」
「侍女だそうで」
「侍女…」
果して最早麻痺してしまったものか、伊福部の言葉に心が萎縮することはなかった。
「殺したのは真実西の女か?」
「自分が聞いた話ではそういうことになっております」
「誰から聞いたのだ」
「は。先の下男の死を知ったのと同様、村の者の噂話に御座います」
そうだ。死んだの殺したのと騒いでいるが一切確証のある話ではない。
食欲が完全に失せた。
膳を下げさせ、座敷が空疎となる。伊福部が畳に額を擦り付けんばかりの勢いで土下座をした。
「やめよ、伊福部。そちのせいではない」
よくよく見れば伊福部は肩を震わせ泣いている。私も居た堪れぬ気分となり早々に自室に引き籠った。
御山様の久方振りの訪問という果報も霞むほど矢継ぎ早に厭なことばかりが起こる。ただでさえ鬱屈したものの発散が苦手な質であるのに、このままでは潰れてしまいそうだ。
酒も飲まずに半ば不貞寝でもするように布団に入った。
初冬の夜気に冷え切った絹の布団はなかなか暖まりはしない。
闇に溜息を放つ。
西の女はこの視界いっぱいに広がる黒が怖いのだ。
闇とは一体なんであろうか。
目に見える世界の様相が変わるだけで、例えばこの部屋の中は何も変わらぬ。
本当に同じか?
私は跳ね起き、記憶を頼りにあたりを弄った。記憶通りの物が記憶通りの位置にある。 当然だ、阿呆らしい。布団に潜る。ほんの少し身を剥がしただけであったのに僅か付きつつあった温もりが綺麗さっぱり消え失せていた。まったく阿呆らしい。何をやっているのだか。阿呆らしい。
何者かが覗いていたら。
私は再度跳ね起きた。瞬間何か理由を付けて人を呼ぼうかとも思ったが、一方で何を無根拠に怯えていると思い直した。
動悸だけが矢鱈に早い。
そして音がする。
せんぽく、かんぽく、
無縁仏の墓標が鳴っている。
せんぽく、かんぽく、
遠目に提灯の灯かり。
嗚呼あれは侍女の葬列なのだ。
雨が陶器を打ち、せんぽく、
私は、
雨が漆器を打ち、かんぽく。
叫ぶように人を呼んだ。




