▽こんこん7-6 リヒュを噛んだ日
リヒュを喰った。
ロロシーがはっきりとそう認識したのは工場地区に向かって走っている最中だった。
口も手も血みどろで、真っ赤に染まっていたが、不思議と誰ひとりロロシーに目を向ける者はいなかった。四つ足で走っていたロロシーが触れた道路には血の手形が残ったが、清掃オートマタが瞬く間に拭い去った。
工場地区の入り口に辿り着いて、自分が巣に、家に帰ろうとしていることに気がついた。頭のなかを支配していた獣臭い思考から引きはがされて、四足歩行が二足歩行になる。
放心。
とぼとぼと工場地区に踏み入る。
金属の岩を乱雑に積み上げたような建物に挟まれた細い道。道の両側には、縦に亀裂が走ったような隙間が並ぶ。工場で使う工具や部品を運搬する経路。レールが敷かれ、細長い貨物車が通れるようになっている。
木立が影だけ残して消えたようなスリットの林をロロシーは歩く。第一衛星がいつの間にか沈もうとしていた。空を第二衛星に明け渡そうという逢魔が時。
不意に、仄暗いの隙間のひとつから、
「おねえちゃん。肉食?」
と、子供の声がした。
「えっ」
瞬時に身構えて四つ足へ。声の主に、獰猛な捕食者の眼差しを向ける。
闇のなかから、少女が一歩足を踏み出していた。工場廃水で洗ったかのように汚れたマント。少女の輪郭は朧で、大きな瞳だけがぴかぴかと輝いている。
ひどい匂いが漂ってきて、ロロシーは顔を顰めた。ロロシーの頭にはもう感覚を制御してくれる冠はない。嗅覚を偽装して匂いを和らげることができない。リヒュに揺り起こされた時に、冠を壊してしまった。
今あるのは、ありのままの感覚だけ。それも、獣のように敏感な。
闇のなかに、にかっ、と歯が並んだ。笑顔。
「あたしもさっきまでピュシスで遊んでたのよ。お姉ちゃん、半人になったばかりなんでしょ。見つかるとね、すごく怖い目に遭うんだよ。ほら、こっちにおいで」
瞳と歯が闇に溶けて、汚れたマントが翻る。マントの端っこが尻尾みたいに揺れて、隙間に呑み込まれた。
ぺたぺたという裸足の足音が遠ざかっていく。
家へと続く道と、細い闇の道を見比べて、ロロシーは逡巡する。考えはまとまらない。誘われるままに暗い隙間へと体を滑り込ませる。体を斜めにして進み、貨物車が来ないことを祈った。少女の姿は見えないが、強烈な化学薬品の残り香が、手招きするようにそこかしこに残されていた。
匂いを辿って随分と歩くと、開けた場所に到着した。ガラクタが無造作にうち捨てられ、いくつものうねりを作っている広場。
無数の視線がロロシーに突き刺ささる。ロロシーは自分の目と鼻を疑った。人間離れした姿の者たち、それらが発する仄かな動物や植物の香り。
「あっははは! びっくりした?」
汚れた少女がガラクタの小山の上に座って、ロロシーを見下ろしている。
「あたし、スウちゃんよ。おねえちゃんは?」
ロロシーはただただ立ち竦み、その胸中には恐怖がひたひたと忍び寄っていた。現実と幻覚の狭間に立たされて、脳がぐらぐらと揺さぶられる感覚。
中央に置かれたコンテナを覗き込んでいた男が振り返り、広場の縁に立った客人の姿を認める。コンテナから離れて靴音を鳴らすと、ロロシーの隣に駆け寄ったスウに声をかけた。
「おお、ひらひらちゃん。新しいお仲間を連れて来てくれたのか」
スウは答えず、横目でコンテナの方から歩いてくる男を見て声を潜めると、
「あのおじちゃんはヲヌーっていうんだよ。頭が悪くて、人の名前覚えられないんだ。馬鹿だよねー。あたしは、スウちゃん、で、ひらひらちゃん、じゃないから。ね。おねえちゃん」
「んん? なんの内緒話をしているのかなあ」
ヲヌーが首をもたげながら傍に来ると、コートの襟が揺れて、ばさり、ばさり、と音を立てた。
「たてがみちゃん、随分、派手にやったんだねえ」
たてがみのように逆立ったロロシーの髪と、血に濡れた全身を舐めまわすように見て、目を細める。スウも同じように乾きかけた血の汚れを見ると、「ちょっと待ってて」トタトタとガラクタの山の向こうへ消えていった。
広場のあちこちでは無数の鼻、耳、目、がロロシーを注意深く探り続けている。
「あなた方は……」
どうにか気丈にふるまおうとしたが、ロロシーの声は掠れ、喉は血で粘つく。広場には混沌とした匂いと音が渦巻いていて、ガラクタのなかに何体の化け物が潜んでいるのか想像もできなかった。
「俺たちは奴隷って名乗ってるんだが、聞いたことある?」
日陰者であることの暴露にしては軽い調子。
「犯罪者の……」
ロロシーが言うと、ヲヌーは肩を竦めて、
「俺たちはちょっとばかり人間の枠を外れちゃったからさ、人間の決めたルールをいちいち守ってたら生きられないワケ。たてがみちゃんはピュシスを遊んでてさ、鳥類に対して空を飛ぶのはルール違反だ、なんて言わないでしょ。その辺のところを理解して欲しいんだがなあ」
「……ピュシス」
と、ロロシーがその言葉を拾って、舌の上で転がすようにすると、
「ここは第二衛星の加護があるから、好きなだけピュシスの話ができるのさ。みーんなピュシスプレイヤー。たてがみちゃんもそうでしょ。そうだった、かな?」
言いながら垂らされたヲヌーの舌は、先が真っ二つに割れていた。チロチロと揺れる長い舌。ロロシーは人間を逸脱したその舌の形と動きに悍ましさを覚え、しばし言葉を失う。たび重なり押し寄せる理外の事柄に理性が悲鳴を上げはじめる。犯罪者の巣窟。化け物どもの群れのなか。逃げないといけない、と考えたが、ヘビに睨まれたカエルのように、足はこの場に縛り付けられていた。
「そんなに怖がらなくてもいいんじゃないの。むしろ怖がってるのは皆のほうなんだからさ。たてがみちゃんはさ、肉食動物なんでしょ」
口紅よりも赤い、血の赤に染まったロロシーの口元。
物陰で蠢く無数の奇怪な鼻、耳、目。
ヲヌーが手を伸ばしてくる。
ぶるりと体が震える。
「逃げるなよ。ゆっくりしていけ」
突然、理性が後退し、理性を越えた本能によって体が動き出した。
ヲヌーの手が、ロロシーの腕に絡みつこうとした瞬間、ロロシーはネコ科の身軽さで跳躍する。ヲヌーの頭上を飛び越えると、広場の中央にあるコンテナへと駆けた。波が引くように一斉に化け物たちがロロシーから距離を取る。
「おいっ! 逃がすなよっ! 捕まえろっ!」
ヲヌーの檄が飛ぶが、ロロシーを追う者はいない。ロロシーはコンテナの上に飛び乗った。しっかりと足を踏み締め、立ち上がると、周りを見回す。
こいつらは、弱い。
ロロシーは突然、理解した。その瞬間、理性の恐怖は吹き消えて、本能の闘志が湧き上がった。
「この場で最も強いのはわたくしです。捕まえられるとお思いですか」
厳粛に言い放つ。どよめきが起きて、ロロシーを取り巻く輪が更に広がる。ただひとり、ヲヌーだけがロロシーの前に進み出てきた。
「下りておいでよ」
「わたくしは帰らせていただきます」
「どこに? そういえば最強ちゃんに家族はいるか? ここにいる奴らにはね。自分の家族を喰っちまった奴もいるんだぜ。本能に抗えずにね。最強ちゃんはどうかなあ」
ヘビの瞳がまとわりつくようにロロシーを苛んだ。ヲヌーの言葉に刺激され、リヒュを喰ったという記憶がフラッシュバックする。ロロシーが呻き、数歩よろめくと。足元のコンテナが靴の裏で、がん、がん、と大きな音を立てた。
「ここにいる奴らは喰っても大丈夫。喰うし、喰われるのが、ここにいる奴らの運命。まあ、肉の供給もあるし、食物だって手に入る。できればそれで我慢して欲しいけどな」
人間と動物が頭のなかで混然一体となり、異なる結論に向けて突き進もうとしていた。二方向に引っ張られた心が弾け飛びそうになる寸前、
「ロロシーお嬢様じゃないですか」
ガラクタ広場に繋がる道のひとつから、若い男が現れた。蹄を打ち鳴らすような軽快な足音を響かせて、ぴょん、ぴょん、と跳ねるように近づいてくると、ヲヌーの隣で立ち止まる。
見覚えのある作業服。後ろにつばをくるりと向けて被った帽子。
「カヅッチ……!」
ロロシーの父親、ロルンの工場で運搬屋をやっている男。
「知り合いなのか?」
ヲヌーが横を向いて聞くと、
「ええ、雇い主の娘さんです」コンテナを見上げて、「お嬢様。どうなさったんです。奇遇ですね。こんなところで会うなんて」
「あなたは……」言葉が出てこない。日常と非日常と理性と本能がぐちゃぐちゃにかき混ぜられたものがロロシーの頭に栓のように詰まっていた。
「下りて来て話しませんか? この辺りの名所をご案内しますよ」
まるでふらっと道端で出会って世間話するような調子に、ロロシーの体から力が抜けていき、本能の雄々しいたてがみが、ゆるりと力なく垂れさがる。
やがてロロシーはぎこちなく屈んで、コンテナの端に腰を下ろすと、足を数度揺らして飛び降りた。
「どうも」とカヅッチが帽子を持ち上げて挨拶する。露わになった頭には、ふたつの小さな膨らみがあった。髪を押しのけて出っ張ったその切っ先は微かに尖り、角を思わせる形をしている。
「説明してください。あなた、犯罪者だったのですか?」
ロロシーが鋭い声をカヅッチに向ける。カヅッチは平然とした態度で見返したが、ロロシーの口元の血を見ると、不快そうに頬を痙攣させた。
「同じピュシスプレイヤーなんだから。お嬢様だって犯罪者でしょう。しかも肉食動物だったなんて。その口の血は誰のものなんです」
棘を含んだ返答。言い返せずに、口を閉ざす。
その時「おねえちゃん」と、スウが布を手に持って戻ってきた。
「ほら。綺麗にしてあげる」
手を取られて、引っ張られるままにしゃがむと、顔や両手の血が布で拭われる。布には薬が染み込ませてあるらしく、鼻の奥に抜けるような匂いがした。
血が全て落とされると「すごーい。布が真っ赤っかだよ」感嘆の声と共にスウが布を広げた。
「ほんとうね。ありがとう。スウちゃん」
力なく微笑むロロシーに、
「どういたしまして」
にかっ、と歯を見せて笑うと、「あっはははは!」汚れたマントを翼のようにはためかせながら、どこかに走り去っていった。
「なにがそんなに楽しいのかねえ」
ヲヌーがひとりごちる。
「ああいう未発達な子供の精神も、動物的と言うんでしょうか」
カヅッチもスウの背中を目で追って、それが見えなくなると、改めてロロシーに向き直った。
「さて、と。どんなお話がお望みですか? お嬢様」