●ぽんぽこ6-5 立ち込める暗雲
積乱雲が膨張するように、漆黒のゾウが爆発的な勢いで巨大化していた。赤土の岩々は黒象の体で押しのけられ、バオバブの大木ほどにもなった長鼻は、月や星を呑み込んで天を貫いて伸びた。山のような、という形容が決して比喩ではない大きさ。闇を纏った山そのもの。アフリカゾウの面影の一切を捨てた不気味な黒象は、濡れたように輝く巨大な瞳を麓へと向ける。
「君はアジアゾウを知っているのだろう」
叩きつけるような声が、黒象の足元にいるライオンの頭上に振り下ろされた。周囲の岩片が驚いたようにぐらぐらと揺れて、崩れていく。
「ああ」
ライオンが答える。
「彼女は、ぼくのかけがえのない友だった」
黒象が足を持ち上げると、空気がどよめき、暴風となって吹き抜け、いくつもの岩が宙を舞った。霰のように降り注ぐ礫岩に晒されながら、ライオンはもはや動物とはかけ離れた存在となっている黒象から距離を取って後ずさる。
アフリカゾウの肉体は、悪を討つ者である雷神インドラの騎象アイラーヴァタの純白の聖象から反転したように、魔王マーラの騎象、ギリメカラと呼ばれる漆黒の魔象に変わり果てていた。
「彼女はどこだ」
足が振り下ろされる。大地が鳴動し、立っていられないほどに激しく震えた。ライオンは腹這いになって足を踏ん張りながら、
「何故、俺様に聞く? 俺様は知らないぞ」
「そうだろうさ。君は軽薄で、卑劣で、冷酷な王なのだから。そうだと分かっていた。彼女から聞いていた。君に対してぼくが思うところはなにもなかった。けれど……」
黒象は大雪玉が転がるように、ライオンへ向けて巨体を動かしはじめた。地鳴りが響き、その足元にあるあらゆるものが押しつぶされていく。ライオンは退避し、全速力で駆けだした。黒象は大怪獣の巨大足跡をサバンナに刻み付けながら、その後を追いかけていく。
「ぼくは君を断罪する! そうしなければ、気が済まなくなった!」
「俺様が何をした!?」
「彼女を死の窟へと向かわせただろ!」
「わけが分からんっ! 説明しろっ!」
ライオンが背後に向かってスピーカーで叫ぶ。
「君にとって忘却の彼方にあるのなら、これ以上の説明は不要! 君は最強であるべきじゃない! ぼくが最強のプレイヤーになる!」
興奮した様子で黒象が叫び返した。プレイヤーそのものの人格が露出し、今まで偽装のように使われていた口調も失われている。
「子供かっ! お前は! 少しは落ち着け!」
ライオンの言葉に、黒象は聞く耳を持たない。しかし、その胸中には、かつての親友との日々がとめどなく溢れ出していた。
アフリカゾウとアジアゾウ。どんな動物よりも大型の肉体。
あらゆる動物プレイヤーたちにとって、己の数倍から数十倍にもなる体長。そして数百倍、小動物にとっては数千倍にもなるその重量は脅威として映り、畏怖の対象となっていた。動物ではない植物族たちにとっても、草食動物最大種のゾウたちは忌むべき存在であり、敵性NPCたちよりもよほど身近な死神に感じられた。
もちろん全てのプレイヤーがそんな調子で距離をとっていたわけではなった。けれど、誰よりも、ふたり自身が、自分たちの肉体が異端であることを意識しており、むしろ積極的に受け入れてさえいた。
特別であることは小さな優越感に繋がり、それは、現実世界で疲弊した心を癒してくれる薬となっていた。そうしてふたりはほとんど他者と関わることもせず、ふたりだけで絆を育み、親密になった。
「ピュシスって面白いね」
アジアゾウが中立地帯の泉の傍で水面を見つめながら言った。アフリカゾウは並んで映るふたりの水影に同じく目を向けながら、
「ホントにぼくらみたいな生き物がいたのかな?」
「そりゃいたんじゃないの。地球ってところは不思議だ」
「地球があったっていう証明はできないし、誰かが想像した架空の惑星なのかも」
「でもたくさんデータが残ってるでしょ」
「データだって劣化するし、それが正しいとは限らないよ」
「劣化したデータは復元したり、修復したりすればいいだけじゃないの」
アジアゾウは言いながら長い鼻を水に沈めて、くるくるとかき混ぜはじめた。アフリカゾウも同じようにしてみると、ふたりが立てた波がぶつかり合って、ばちゃばちゃと楽しげな音が響いた。
「もしかしてピュシスって地球のデータを復元しようとして作られたのかな」と、アフリカゾウ。
「しようとしてる、というか、既に復元できてるんじゃないの。おかしな部分はひとつもないもの」
「そうかな。情報閲覧施設で調べたことがあるけど、完全一致はしてないみたいだよ。継ぎ目というか、微妙に異なってる部分もある」
「例えば?」
「ほんのちょっとだよ。細かい部分。動物の身体能力とか、色味とか、植物の葉や花のつき方だったり、習性に基づいた動きみたいなものとか」
「身体能力なんてプレイヤーの野生値によるんじゃないの」アジアゾウは言いながらメニュー画面を呼び出して、自身の野生値を確かめた。まだまだ駆け出しといった数値。
「そうだね。植物族のバフ、デバフとか、肉食、草食、植物族の三すくみとか、いろんな要素がふんだんに関わってるから、少しずつずれてるのかもね」
「それに、習性なんて言ってもさ。わたしたちは本物の動物や植物のことなんて知らずに動かしてるんだからしょうがないんじゃない?」
「まあ、それはピュシスを作ったひとだって、たぶん知らないだろうね。もう誰も本物の自然を知ることはできないんだから」
アフリカゾウが水中から鼻を持ち上げる。その鼻先からいくつもの雫が滴るのを見たアジアゾウは、頭に対して少々小さめの耳をパタパタとあおいで乾かしてあげた。アフリカゾウはお礼代わりに大きな翼のような耳でバサバサとあおぎ返す。
「いいこと思いついた」
と、アジアゾウも鼻を持ち上げて、鼻でくみ上げた泉の水をあたりにまき散らした。水飛沫が近くの梢に爽やかな恵みを与え、すぐ隣にいたアフリカゾウはずぶ濡れになった。アフリカゾウがぶるぶると体を震わせていると、アジアゾウが、
「それらしくしようよ。そうしたらピュシスがもっと楽しくなるよ」
「どういうこと?」アフリカゾウは首を傾げる。
「動物らしく動くの。今の動き、とってもゾウっぽくなかった? ゾウはああやって鼻を使って水浴びするんだよ」
「ゾウっぽいなんて、本物を見たことがないから分からないよ」
「わたしたちが本物になるの。ピュシスにいると体がうずうずしてくることはない? わたしたちふたりともさ、泥浴びしてることがあるじゃない。あとは鼻を絡めて遊んだりさ。きっと本物のゾウもそんな風なことをしてたんだよ。この肉体が本来の使い方をされたがっている、って気がするんだ」
「肉体がプレイヤーに干渉してくるなんて、そんなことあり得ないよ。冠の感覚操作だって、ぼくらの知覚や意識の権限を越えて、完全な自動化はできないようになってる。ピュシスでは感覚が鋭くなるけど、あくまでぼくらの意識が主体で主役なことは絶対なんだ」
「じゃあ。わたしたちの意識の主体のなかに動物がいたらいいんじゃないの」
アフリカゾウには何が、いい、のか分からなかったし、その考えからは危険な香りがぷんぷんしていた。
「ぼくらは人間だよ」
「こんな格好してて?」
アジアゾウは見せびらかすように鼻を持ち上げ、耳をはためかせ、尻尾を揺らし、四肢を地面に打ちつけて、どすんどすんと足踏みをした。
「ここは仮想世界だから、どんな姿にだってなれる。けれど、それは結局はまやかしだよ」
スピーカーで声にしてしまってから、アフリカゾウは自分の言葉に悲しくなってしまった。ピュシスはまやかし。機械惑星こそが紛れもない現実。
アジアゾウは「うーん」と考えて、
「じゃあ地球人らしくしよう。同じ人間。動物がいた世界に暮らしていた人たち」と言って「知ってる?」と、鼻先をアフリカゾウに向けた。
「我を知らずして、外を知るといふ理あるべからず。されば、おのれを知るを、物知れる人といふべし」
「何言ってるか分からないよ」
「地球人の喋り方の真似」と言って、アジアゾウは「ふふっ」と自分でおかしくなったらしく、笑みをこぼした。
「変な喋り方」
「だね。けどわたしたちと同じ人間だよ。動物の真似じゃなくて、地球人の真似ならやってくれる?」
アジアゾウはどうしても自然があったという惑星と同じような存在になることにこだわっているようだった。憧れ、なのか、ただの遊びの延長線上なのか、アフリカゾウには分からなかったが、どこかで妥協点を見つけなければ、アジアゾウが離れていくような気がして、彼女の提案を受け入れてみることにした。
「我、アフリカゾウなり。好きな場所は木陰の泉なりなり……こんな感じ?」
アフリカゾウの調子に、アジアゾウは耳を打ち鳴らして「なりなり、ってなに?」と鼻をくねくねと動かして笑い転げた。
「そんなに笑わなくたってさあ……。ぼくはこれぐらいしか知らないんだよ。とりあえず、なり、って付けてればそれっぽくなるんじゃないの?」
アジアゾウは楽し気に笑い続けていて、
「勉強するよ」
と、言ったアフリカゾウも、つられて笑い、空に向かって高らかに、ぱおーん、と鳴き声を響かせた。




