●ぽんぽこ6-3 試練を越える者
「長! こっちは片付けたぞ!」
リカオンの声が降ってくる。
「ここは任せてブチハイエナに報告へ行け!」
ライオンが言うと「分かった! 本拠地で待ってるからな!」とリカオンの足音が夜のサバンナを遠ざかっていった。
アフリカゾウがライオンをさんざんに追い回したことによって、赤土の岩場に積まれた岩は崩れ、粉砕され、だいぶん見通しのいい風景へと変わっていた。
ライオンは今度こそ神聖スキルによって、己の肉体を変質させた。筋肉が膨れ上がり、見るからに頑強な体へと変わる。ネメアーの獅子と呼ばれる大獅子。英雄に与えられた第一の試練。
相対するアフリカゾウは耳をはためかせて、鼻をマレーバクがいた岩山へと向け、その干渉がなくなったことを確かめた。
「我、全力での勝負を、望む」
「神聖スキルの使用を歓迎する、ということか? ただの動物としての力比べでなくていいのか」
「ピュシスに与えられた全てが力。あらゆるものを包括し、一番に、最強に」
風が止まった。すると、あらゆる音が消え去った。二頭の息遣いすら、闇に呑まれ、静寂だけが音になった。それに呼応するように、アフリカゾウの体から、一切の色が失われていった。灰色だった肌が、白化し、陶器のようなつややかさを帯びて、夜に浮かびあがった。ぐぐぐ、と口元が盛り上がったかと思うと、巨大な牙が現れた。二本の牙が四本へ。そして、牙だけにとどまらず、蔓植物が芽吹くように、鼻の根本から、二本、三本、と新たなる鼻が生えだして、ついには鼻が七本にまで増殖した。
「……おいおい、なんだそれは」
流石のライオンも四牙、七鼻の怪白象の姿に、度肝を抜かれて目を見開く。
「我、雷神インドラの騎象、象の王たるアイラーヴァタなり」
威風堂々たる名乗りに、ライオンは眉を顰めて。鼻を鳴らす。
「そのものじゃあなく、あくまでスキルだろう? ピュシスが作ったまがい物にすぎないさ。礼儀として教えてやるが、こちらはネメアーの獅子という化け物の力らしい」
「感謝」
「それはどうも」
「否」
「ん? なら、なにへの感謝だ」
「この戦いに」
戦闘狂もここまでくると、いっそ清々しい、とライオンは感じた。四肢に力を込め、いつでも跳び上がれるように構える。矢も槌も通さないネメアーの獅子の岩のように頑丈な皮膚であっても、聳え立つ四本の巨大牙と、長大な七本の鼻の前では、どこまで対抗できるか未知数だった。
白象は鼻の一本を大地に向けて、押し込むように地面を貫いた。地下へと鼻先がめり込み、蛇腹のような鼻の側面が脈動する。残った六本の鼻は星々が輝く天に向けられ、祈祷でもするように蠢いた。やがて、六本の鼻先から、水が噴き出し、細かな水の飛沫が天高く散布される。サバンナの暑い夜が冷却され、星々の間に虹がかかった。
にわかに辺りが陰った。どこからか出現した雲が、夜をさらに暗く覆い尽くす。ぽつり、ぽつり、と雨が振りはじめ、雷鳴が無数の獣の唸り声のように響いた。雲の奥が閃いて、針のような雷がライオンの足元を打つ。
雷神、とか言ってたな、とライオンはこの雲も神聖スキルの一部なのだと理解する。矢のように雷が降り注ぎはじめると同時に、ライオンは疾駆した。空の射手が放つ雷はライオンだけを狙っているが精度はそれほどでもない。懐に飛び込み、巨大な白象の体を盾にするつもりだった。
接近するライオンに対して、七本の鼻を網のように広げた白象が、四本の牙の切っ先を尖らせ、轟音と共に突撃してくる。白象が足を踏み出す度に、太鼓を打つように大地が震え、赤土の上に薄く張った水の膜が蠕動する。水の表面に無数の波紋が生み出され、干渉し合った波が大きなうねりとなって広がっていった。
白象は増えた鼻で地面を漕ぐようにして速度を上げる。その勢いに危険を感じたライオンは咄嗟に周囲に積み上がった岩の上に飛び乗った。ゾウは哺乳類のなかで唯一、ジャンプすることができない動物。高所まで追ってくることは難しい。
だが、そんなことは関係ないというように、岩の上に退避したライオンの足場へ、減速することなく白象がぶつかった。凄まじいパワーで、積み木崩しをするかの如くに、岩がバラバラに砕かれる。ライオンは足場が失われる前に跳躍し、白象の背へ爪を向けた。
宙に浮かぶライオンの体躯に、七匹の白蛇のようなゾウの鼻が絡みついてくる。どっしりと筋肉質なライオンの体は軽やか動き、鋭い爪や牙で白蛇の群れをいなして、つるりとした白い肌へと飛び掛かろうとした。しかし、その時、不意に落ちた雷の一打が、ライオンの背に直撃し、矢に射られた鳥のように地に叩き落とされてしまう。
激しく降りしきる雨に、再び吹きはじめたサバンナの風は困惑したように渦巻いた。赤土で濁った水溜まりに倒れるライオンの体に、白象が四本の牙を下から突き立て、かち上げる。牙は神聖スキルによる強化、肉食草食という相性差すら貫いて、ライオンの体に深い傷を刻むと、その体を岩壁の向こう側まで放り投げた。
雷雲の下で、輝きを失った黄金色の毛衣と雄大なたてがみが飛んでいく。稲光に照らされた尻尾の房が流星のようになびいて、岩の輪郭に区切られた地平線に墜落していった。
容赦ない追撃を加えるべく、すぐさま白象はライオンの落下地点へ向かった。しかし、岩を押しのけた先に、ライオンの姿はなかった。翼のような耳を広げ、聴覚を研ぎ澄ます。ゾウ本来の能力を使い、足裏で振動を感知しようとするが、ライオンの所在はようとして知れない。星空を分厚く覆う積乱雲からもたらされる大雨によって、全ての音がかき消されてしまっていた。音がダメなら、匂い。七本の鼻を七方向に向けて、アンテナのように広げる。集中。赤土の錆びた香り。雨水の湿った香り。更に集中すると、ゾウの優れた嗅覚は、雨粒の間を漂い、洗い流されようとしているライオンの微かな香りを、ある方向に感じ取った。
体を向けると、すぐ傍の岩上に夜闇に紛れるライオンの影があった。その瞳だけが力強く輝き、たてがみは立ち昇る煙糸のようにはためいている。白象は七本の指を持つ手のように七鼻を広げて、影を捕縛しようと試みる。しかし、その刹那、影は雨露に溶けるように消えて、小さな鳥が羽ばたく音が微かに聞こえた。
背後、に気配を感じた。だが、ゾウの巨体はそう簡単に反転できるものではない。白象は慌てて振り返ろうとして、体勢を崩した。ぐらりと体が傾く。しかし、倒れる寸前、鼻を車輪のように回転させ、連続で杭を打ち付けるように地面を叩いた。激しい水飛沫が上がる。片車輪の車がコーナーを曲がろうとするような強引な動作でもって、白象は後ろを向いた。
天上を覆う雲に切れ間が走り、天へ天へと昇りつめようとする月が覗いた。雨粒のカーテンを潜って、薄布のように儚い月明かりに照らされた黄金の獣が白象の鼻先に迫っていた。車輪代わりに使っていた鼻たちを正面に結集させようとしながら、白象は四牙を突きあげる。しかし、十分でない姿勢からくり出された牙は、大獅子の強力な前肢に殴打され、左二本が折られてしまった。砕けた牙の切っ先が白く輝きながら大雨に呑まれて消える。すぐさま残った右二本で応戦しようとするが、ライオンは白象の左側に素早く潜り込んだ。
ライオンが白象の喉を狙うが、やっと追いついてきた七鼻がライオンの尾を捉えた。尾の先端にあるふっくらとした房が抜けそうな程に引っ張られ、剛力でもってライオンの体を持ち上げる。すぐさま七本全ての鼻を使って、白象はライオンを縛り上げた。
「卑怯なり!」
白象のスピーカーが雨粒ごと大気を揺らした。一騎打ちを望んでいた白象は先程のライオンの影、タヌキのまやかしに対して憤慨していた。
「俺様の群れだ。俺様の群れ員だ。それが俺様の力でなくてなんだ。お前も全ての力を結集したぶつかり合いを望んでいたんじゃないのか」
吊り上げられて、四肢と首、尾、胴に巻き付いた鼻に体を引き千切られそうになりながら、ライオンが返す。英雄でも締め落とすのに三日かかったと言う大獅子。しかし、二本の腕で挑んだ英雄とは違い、白象は七本。しかも雷神の騎象、象の王たる凄まじい力を有している。絞められたライオンの肉体はメキメキと悲鳴を上げ、ダメージがみるみる蓄積していった。
天高くライオンが掲げ上げられ、空に稲光が閃く。それと同時にライオンの心臓を穿たんとする稲妻の矢が放たれた。
身動きが取れない的に、正確で、致命的な一打が迫る。雷鳴が轟いた瞬間、細く伸びる雨に紛れて、空から棒が降ってきていた。よく見ると、それは棒ではなく、縄。縄ではなく、蛇。猪のような反り返った鼻を持つシシバナヘビであった。ヘビがライオンの首に巻き付いている白象の鼻に噛みついた。だが、その牙は露ほどのダメージも与えられない。
シシバナヘビは尾をピンと伸ばし、空へと向ける。すると光の矢が、その尾の先に触れた。細長い棒のような体が避雷針となり、ライオンを射抜くはずだった雷を受け止め、逸らしたのだった。そして、体表を這い進んだ電流は、小さな牙が突き立てられていた白象の鼻に強烈な一打を加えた。それは白象の鼻を、ライオンの首から離させるのに十分な威力だった。
鱗の肌を黒く焦げさせ、シシバナヘビは煙を上げながら濡れた地面に落下する。首の拘束が緩んだ好機を逃さず、ライオンは両前足を縛る鼻に牙を食い込ませギロチンのように顎を閉じた。二本の鼻がダメージを負い、操作不能に陥る。更に、電流で痺れていた鼻も歯牙に裂かれて、同じく操作不能になってしまう。白象はライオンを力任せに振り下ろして、残った二牙でその喉元を串刺しにしようとした。だが、刺し貫かれる寸前、ライオンは自由になった前肢を振るって、牙をへし折る。
あまりの剛腕ぶりに驚いた白象は、これ以上の被害を受ける前にライオンを投げ捨てる。宙でくるりと華麗な回転を決めて、ライオンは赤土の大地に降り立った。倒れるシシバナヘビを見る。タヌキの神聖スキルには能力を強化する効果はない。雷をまともに受けて、流石に体力が尽きてしまったようだった。群れ戦においてはライオンに化けるのをあんなに怖がっていたのに、群れを勝利に導こうと踏み切ったタヌキの心中にライオンは想いを馳せた。タヌキにとってこの戦は大きな試練だったに違いない。しかし、タヌキは戦い抜いた。その結果倒れてたとしても、試練を乗り越えた事実はタヌキの弱気がちな心を燦然と照らし、導いてくれるに違いない。
雨が止んだ。雲は千切れ、戸惑うように薄く漂った。
「おいゾウ。さっきも言ったが、これは俺様の力だ。後で文句を言うなよ」
白象は四鼻無牙になってしまった己の肉体を抱えて、神妙な表情でライオンの言葉に耳を傾ける。牙無き白象は敗北がひたひたと近づいていることを感じていた。
「お前がもし草食動物でなく、別の相性を持った動物だったら、俺様に簡単に勝っていたかもしれん。しかしお前は草食動物。俺様は肉食動物だ。これはどうやったって変えられん。この自然における不変の理だ。ただピュシスに与えられたものだけを甘受し、生まれ持った性質を乗り越えようとしても、どこかで無理が生じ、躓くことになる」
ライオンのスピーカーの振動は、ライオン自身の毛並みをも乱し、濡れた毛先を逆立たせた。仲間の助けを受けて心は奮い立ち、勝利に向けて力が漲る。
「ピュシスに与えられたもの全てを力とするなら。俺様が俺様に与え、築いた仲間たちとの関係も同じ力だろ。俺様もまた仲間の力の一部だ。俺様はこれからお前を打ち破る。その勝利は、そこに倒れている小さなタヌキの勝利だ。何故一騎打ちにこだわる? 何故孤独を好む? ひとりでの戦いは、力を捨てながら、力を望むようなものだ。俺様にはお前の行動が矛盾しているように思えてならん」
ライオンの言葉を耳で、足で、鼻で、受け止めていた白象は、ぶるぶると震えだした。陶器のような白い体に残っていた雨粒が、肌を伝ってぽろぽろと流れ落ちていく。白象は嘶いた。慟哭が天上を覆う雲を吹き飛ばし、満天の星と、傾いた月を露わにした。
「……汝、汝よ、君が、それを言うのか、君だけは、ぼくに、そんなことを言う資格はないよ。絶対に、絶対に、絶対に……」
白象の鼻が一本を残して自壊し、弾け飛ぶ。牙を折られ、失った、アフリカゾウの姿。その一本残された鼻先から闇を粒子にしたような煤が噴き出した。ゾウの肉体は一瞬にして白から黒に染まり、不気味な変貌を見せはじめた。