●ぽんぽこ6-1 本物の格
黄昏の曇天を太陽が焼き払ったようだった。沈む太陽と、昇る月の光の狭間で、不安定な影を膨らませているアフリカゾウの体が揺れて、よろめきながら赤土の地面に足をつく。ゾウの鼻に拘束されていたリカオンが、衝撃で緩んだ隙を逃さず脱出し、平らな岩の上に背中から落ちた。踏み潰される寸前であったタヌキは、掠めていくゾウの足裏に体を撫でられ、尻尾を抱えて丸い体を更に丸め、岩の隙間に凝る闇のなかに、吸い寄せられるように転がっていって姿を消した。
ざらついた赤土が大地を覆う地帯。むせかえるような錆びた匂い。サバンナの乾いた風に洗われ、角が丸くなった赤い岩が瓦礫のように積み上がって、表面を剥がれた山岳地帯の骨格標本のようになっている。足元には裸の土が露出し、岩間に生えるひょろ長いヒゲのような草だけが植物の存在を主張していた。干からびた指にも見えるその草が、風に吹かれて、はたはたと岩を叩く。
アフリカゾウが甲高い鳴き声を、暗澹たる夜に染まりゆく空に響かせた。太陽に弓を引くが如く、反り返った牙を猛然と前に突き出す。突然現れ、体当たりによってゾウの巨体を揺らした黄金色の獣。ゾウの牙は、その獣の分厚いたてがみをなぞるように避けられ、次いで振り下ろした長い鼻は、走り高跳びでもするような華麗な跳躍で躱される。黄金色の獣の鋭い爪が、ゾウの前肢にダメージを与えようと迫るが、刃を返すような動作でゾウが鼻を振り上げると、黄金に輝く毛衣が大きく跳ねて、赤土の岩の上に飛び退いた。
これは本物か、とアフリカゾウは考える。ライオンだと思っていた者は、その実、小さな獣だった。まん丸いタヌキ。そして、もう一頭、ライオンが現れた。強烈な体当たりをくり出し、俊敏に牙や鼻の攻撃を避けた。本物としか思えない動き、力、そして格。刃を交え相対した今はっきりと感じる。先程までのまがい物のライオンとは、格がまるで違う。
「長、なのか?」
起き上がったリカオンが、岩の隙間に鼻先を向けて、タヌキの匂いを探りながら、威容を纏った獣を見る。まさしくピュシスの王、ライオンの姿。しかしまだリカオンの心は混乱し、かき乱されていた。
「俺様は俺様だ」
「しかし……」
タヌキが消えた場所を見て、リカオンが言い淀む。
「俺様がタヌキに頼んでいたんだ。群れのごたごたを処理してもらうためにな」
「それってスパイの話か?」
「なんだ、知ってるのかリカオン」
「ああ。今日、副長に聞いたんだ」
ライオンは苦い表情をする。ライオンは現実世界での用事に追われていた。今日はログインしないつもりだった。しかし、不意にピュシスに飛び込みたくなった。
とにかく、なんとか時間を作ってピュシスにログインしたが、サバンナの本拠地、ライオンの玉座に現れた途端に、ブチハイエナからタヌキのことを聞かされることになった。ブチハイエナはフラミンゴによってライオンが現れたという情報がもたらされた時、それがタヌキが化けたものであると、はじめから分かっていた。
聞いたライオンはすぐさま行動を開始した。他の戦況など一切聞かずに、それはブチハイエナに任せて、本拠地を飛び出した。
到着して思ったのは、想像より大変なことになっている、ということ。この場に駆けつける寸前に、ライオンは遠目にもう一頭の自分を見た。ドッペルゲンガーのように瓜二つの姿。岩山から見下ろすマレーバクが何かすると、その姿はかき消え、丸い獣が現れた。タヌキの正体が暴かれ、それが味方のリカオンだけでなく、敵のマレーバクにまで目撃される事態。しかもアフリカゾウという強大な敵。ライオンを付け狙う酔狂なプレイヤーの存在もある。かなり切羽詰まった状況。
ライオンはアフリカゾウを睨みつける。ゾウもまたライオンに強い眼差しを向け、探るように鼻を伸ばして、その全身を嗅ぎまわった。リカオンとは違い、まだ本物かどうか確証を持てずに、しきりに首を傾げている。
「タヌキが長の姿形をしてたのか? いつからだ?」とリカオン。
「あいつはオポッサムだ。だからオポッサムが群れに来てからかな。しかし、時々さ」
無用な疑いを避けるために、ライオンはすっぱりと事実を開示する。
「ん? オポッサムが元の姿なのか?」
リカオンは展開についていけずに、頭がこんがらがったようで、尻尾をぐるぐると振り回した。
「タヌキだよ。タヌキがオポッサムにも化けてた」
ふたりの会話を引き裂くように、雷の如き風切り音が響いた。強靭なアフリカゾウの鼻がライオンの首を狙う。骨や関節のない純粋な筋肉の塊。受ければひとたまりもないが、ライオンは太い鞭のようなその鼻に対して、果敢にも噛みつこうとした。前に踏み出した一瞬、ライオンの全身の筋肉が盛り上がり、変容の兆しを見せる。神聖スキルで肉体を強化して、ゾウの鼻と太刀打ちしようとする。
しかし、膨らみかけていたライオンの肉体が、膨張を止めて、元の大きさに戻りはじめる。ライオンにとって予期せぬ事態であったが、異変を察知すると、すぐさま地に伏せ、ゾウの鼻の下を潜ることで危機を回避。
貘による妨害。神聖スキルを無効化する神聖スキル。トラの群れの副長であるマレーバクが小高く積まれた岩山から、ゾウにも似て長く伸びた鼻を使って、吸い寄せた夢を口に運び、ごくん、と呑み込んだ。
「あいつは任せろ!」
リカオンが岩を跳びながら駆けていく。
「任せたぞ!」ライオンは言いながら足を動かし、アフリカゾウの背面に素早く回り込んだ。神聖スキルが使えない状態で戦うとすれば、スピードを生かす他ない。それ以外のほぼ全ての点において、アフリカゾウの能力はライオンを上回っている。
太陽が沈み切り、薄暗闇のなかで夜の決戦の火蓋が切られた。乾いた風音が岩々に反響して、嘆き声にも似た、ひゅう、ひゅう、というか細い音をまき散らしている。
ライオンは後ろから臀部に噛みついてアフリカゾウの機動力を削ごうとしたが、攻撃に合わせてゾウはバック走をする。その動きは鈍重だが、単純な超重量こそが何よりも怖ろしかった。衝突すればダメージを受けるのは、常に重量で劣っている側。アフリカゾウはあらゆる陸生動物の中で最大の重量。それを支える体は全身のいたるところが非常に屈強で、その隅々までもが武器となりえた。
ライオンは牙を突き立てたものの押し返されて、すぐに外されてしまう。赤い大地に叩き落とされたライオンを踏みつけようと、ゾウが足を持ち上げた。ライオンは跳ね起きて、足の間に潜ることで踏みつけを避ける。次いで体全体で押し潰そうとするゾウの腹の下を走り抜け、更には伸びてくる鼻を振り切り、岩の上に飛び乗った。
肉食最強の動物と、草食最強の動物が、向かい合い、その牙と牙が風を裂き、星明りでつややかに煌めく。
「汝、真のライオン、なりや?」
地平線の上に浮かぶ月を背負うライオンに、アフリカゾウが尋ねる。
「相変わらずまどろっこしい喋り方だな。お前の方は間違いようがなさそうだ」
「我、真のアフリカゾウ、なり」
「そうだろうよ。アジアゾウには見えない」
その返答に、アフリカゾウは細長い祈りのような鳴き声を月に響かせた。そうして「汝、ライオン。汝、王」と断定する。
アジアゾウ、とスピーカーの音に乗せて思い出す。アジアゾウとライオンが戦ったのは随分前。神聖スキルもまだなかった頃。ライオンが今まで相対した動物の中で、間違いなく一番の強敵だった。背中が丸く、頭にコブがあって、優しげな印象の動物。それでも戦いとなると、凄まじい強さで、手が付けられなかった。
アフリカゾウは、そんなアジアゾウよりも大きく、重く、牙も長い。最も厳しかった戦いの記憶を塗り替えるに足る最大最強の敵。そんな存在が、サバンナで共に暮らす群れ員を苛むというのなら、決して見過ごすことはできない。
そういえばアジアゾウも、最強、にこだわっていた。ゾウの肉体を与えられたプレイヤーはすべからく同じような思考をしているものなのだろうか、とライオンは考える。しかしそうなると、ライオンである自分と、いけ好かないトラについても類似する点があることになってしまいそうだったので、すぐさまそんな考えは振り払って、頭のなかから消し去った。