▽こんこん5-1 ナンパ?
「お断りします」
ロロシーの声。静かで、硝子みたいにつややかな硬さ。
「冷たいな。素敵な場所を知ってるんだ。その紹介だけでもさせてくれないか」
聞いたことがあるような男の声。軽さのなかに牙のように引っかかる棘がある。
「結構です」
毅然とした拒否の声が、廊下を曲がった先から、小さな反響音を伴って聞こえてくる。
バスケットボール大会が行われる競技場。関係者専用通路の奥。入る時に冠から警告文が網膜に照射されると同時に、通路にいたオートマタが向かってくる気配を見せたが、ギーミーミがデータを提示するとすぐに警戒態勢が解除された。選手として出場するクァフを通して事前に許可をもらっていたらしい。
聞こえてくる声にギーミーミが頬をすぼませるように口を尖らせて、リヒュにちらと目を向ける。それからすぐに足を早めた。リヒュはプパタンの手を引きながら、ギーミーミの大きな背中を追う。灰色の廊下を歩く三人の靴が、粘土を叩くようなくぐもった音を立てた。
廊下を覗き込んですぐにギーミーミが声を上げる。
「クァフさん!」
「おう。ギーミーミ」
応える声をたぐるようにリヒュとプパタンが続いて角を曲がると、薄い灰色に濃い灰色でマークが描かれたユニフォームを身にまとったクァフと、その長身と向かい合って壁際に追いやられているロロシーがいた。
「あら」とロロシーが、プパタンと他二名に目を向けると、壁に伸ばされていたクァフの長い腕のアーチを、さっ、と潜って、三人の方へつかつかとやってきた。
クァフは苦笑いして、やれやれというように頭をかくと、
「ギーミーミ。ありがとう。応援に来てくれて」
と、大きな手のひらを差し出す。歩み寄ったギーミーミががっしりとその手を握ると、クァフが、ぐっ、と引き寄せて、感謝を示すように肩を叩いた。
二人の後ろで、ロロシーはプパタン、リヒュと少し言葉を交わしてから、すぐに立ち去っていく。その後姿を眺め回しながら、クァフが、
「彼女は良い体をしてる」
と、こぼしたので、ギーミーミが咎めるように握っている手に力を込めた。すると、クァフはその手をパッと離して、
「誤解するなよ。彼女はいい選手になるよ。知り合いなのか?」
「うん。同級生」とギーミーミ。
「それなら勧めといてくれ。将来の可能性の一つとして。俺のお墨付きだって言って」
「嫌だよ。言うなら自分で言ってくれ。巻き添えで嫌われたくはないからさ」
ギーミーミがやや声を潜めて申し出を拒否していると、リヒュとプパタンがゆっくりとやってきて合流した。
リヒュは、公園で会ったクァフの印象と、今のやり取りとの温度差に面食らっていた。たいして言葉を交わしたわけではなかったが、その時はスポーツに真剣に取り組む真面目な大人に見えた。それが大事なデビュー戦前に、学生をナンパしているなんて、とちょっとした落胆を覚える。それはクァフ個人への落胆というより、大人全体への微かな落胆となって、リヒュの心に苦く滲んでいった。
「よお。ギーミーミの友達だな。来てくれてありがとう」
試合前の高揚した気分を隠すこともなく、ファンに呼びかけるように話すクァフに、リヒュは曖昧にあいさつを返す。面識があることを言いだそうかどうか悩んでいると、クァフはリヒュの全身を素早く視線で確認して首を傾げ、プパタンの跳ねた毛先からつま先までをじっくりと観察して悩むように顎を引き、それからまたリヒュに視線を戻して、あっ、と目を見開く。
「君とは前に一回会ったな。確か公園で、一緒に試合をした。ギーミーミと、そう、もう一人小さいのがいて」
記憶を探りながら並べられる言葉の途中で、リヒュは「そうです。リヒュと言います」と改めて自己紹介して「あの時は、楽しかったです。クァフさん。プロチーム所属おめでとうございます」と、楽しかったり、おめでたかったりするかもしれない、と思いながら言葉を継いだ。
「来てくれて嬉しいよ。そっちの子は?」
プパタンは天井の照明に当てていた視線を下ろして正面に向けた。クァフと目を合わせたままプパタンは動かず、口を閉ざしたまま。芯が通った雄大な一本の樹のような佇まいに、クァフは困ったようにギーミーミとリヒュを見比べた。見られた二人は、どちらがどういう風に答えようか、と牽制する意識がぶつかって、同時に口ごもる。そもそもプパタンについて二人ともよく知らなかったし、バスケットボールのファンなのかも分かってなかった。
なんとも微妙な距離感なんだよな、と思いながらリヒュが「同級生の、プパタンです」とだけ答える。
クァフは、うん、と頷きながら、こいつら別に友達でもない同級生の集まりなのか、それでいてなんとなくまとまりがあるから変な奴らだ、という感想を持った。RPGの寄せ集めのパーティみたいな、と考えて一人心の中で笑う。と言っても学生なんてものは、特に理由もなく緩やかな仲間意識で繋がっているのが当たり前なのかもしれない、とも思った。
「みんな仲良しなんだな。一緒に観戦しに来てくれるなんて」
と、わざとクァフは言ってみた。思った通り困惑した顔が並んで面白い眺めになる。そんななか、三人の真ん中に立っていたプパタンが、こくん、と頷いたので、左右の二人はより一層困り果てたような表情をして目を見合わせた。
クァフはもう少し若者たちで遊びたかったが、そうはいかない。だるいだけの開会式に出る準備に、試合前の入念なミーティング。それに体を温めておくことも必要だ。
「コートから観客一人ひとりをちゃーんと見てるからな。応援してなかったらすぐに分かるぞ」
クァフが言うと、
「任せとけって」と、ギーミーミが握った拳を前に出した。そこに、こつん、と拳を打ち合わせて、
「じゃあ、試合で」
クァフは廊下の奥へと去って行く。その姿が見えなくなったところでリヒュが、
「なんか、気さくな人だったな」
と、こぼした。
「試合に集中してると怖いけど、普段はあんな感じだよ。しょっちゅうおごったりしてくれるし。リヒュが前会った時は試合モードだったから、印象が違うかもな」
ギーミーミが言って「客席に行こうか」と、来た方向へ戻りはじめた。そうして歩きながら「ロロシー、なんか言ってたか? 怒ってなかった?」と、聞く。
「いや。プパタンの心配してたぐらいかな。人ごみで迷子にならないか、とか。僕に目を離さないように頼んでいった。ギーミーミにも言っておいてくれってさ」
「母親じゃないんだから……」
ギーミーミが少し呆れて、ロロシーの庇護対象であるプパタンに視線を向けたが、プパタンはゆったりと歩きながら、天井の明かりの一つひとつを眺めていた。その様子にリヒュは、あるいは天井の向こう側にある第一衛星を、いつものように見ようとしているのかもしれないと思った。
プパタンが第一衛星に惹かれているのは何故なんだろう、とリヒュも天井に目を向ける。ピュシスの太陽のように昼を照らし、夜には隠れる第一衛星。太陽であれば惹かれるのも分かる。あのえもいわれぬ温かさ。心地良さ。もっとも直視すると視覚にダメージを負ってしまうので、真正面からその姿を見たことはない。けれど、燦々と太陽の光を身に受けて、のびのびと枝葉を広げ、花を咲かせる植物たちを見るだけでも、その素晴らしさが存分に分かるというもの。そういえば植物族は太陽をどのように感じているのだろうか。今度、植物族に化けて確かめてみてもいいかもしれない。
灰色の通路の天井にピュシスの空を重ね合わせていると、やがて途切れて、大きく広がった空間に出た。たった一つのコートの周りに無数の席。無数の人。そのいずれも灰色。
リヒュはプパタンの歩幅に合わせて進みながら、ロロシーに言われた通り、はぐれたりしないように注意しながら、人をかき分け、通路を抜けて、客席へと入っていった。