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事件が終わり、数日の間、瀬崎は迷い続けていた。自分が口を出すようなことではない。人は人の人生を歩むのだから、と。しかし、もどかしい気持ちは止められず、覚悟を決めた。
「先生」
大学内で文香の姿を見付け、呼び止めると、彼女は振り返った。そして、瀬崎の姿を認めると微笑みを浮かべる。
「瀬崎さん」
簡単な挨拶の後、二人は場所を移動する。意図したわけではないが、二人が足を止めたのは、あの夜、文香が人形に襲われた場所だった。ベンチに腰を落とし、事件のことを振り返ったが、数分もすると沈黙が流れ、文香が首を傾げた。
「それで、どうしたの? 何かあった?」
「えっと、ですね」
数日間、伝えるべきかどうか、と悩んだ末、結論を出したつもりだが、やはり本人を前にすると気が退ける。だが、瀬崎は思い出す。例の事件の中、何度も見た文香の苦し気な顔。そして、表情のない人形から、確かに感じた想い。瀬崎は、それを永久に失われてしまうことは認められなかった。
「先生は、会田さんに…お会いにならないのですか?」
瀬崎の質問に、穏やかな笑顔を浮かべていた文香の表情が固まる。そして、少しずつ笑顔は消えて、冷たい視線だけが残った。
「どういうこと?」
明らかに態度が変わっている。やはり踏み込むべきことではなかったのだろう。それでも、今の文香は幸せを感じているようには思えなかった。
「あの…私、このままで良いとは思えなくて」
慎重に言葉を選ばなければ。そう思いながらも、瀬崎は自分の感情のまま、喋るしかなかった。
「知っているんです。先生が人形の正体を知ってから、ずっと会田さんを探していたこと」
何か思い当たることがあったのか、文香の目付きが鋭くなる。これは、敵意に近いものだった。
「……私の後をつけていたの?」
「ごめんなさい。先生のことが心配で…。でも、あのときの先生、必死というか、どこか追い詰められているみたいで、とにかく苦しそうだった」
文香は黙ったまま、反応を見せなかった。瀬崎は続ける。
「先生、会田さんのこと…まだ忘れたわけじゃないんですよね?」
文香は表情を隠すように、遠くで談笑している学生たちの方へ視線を向けた。
「会田さんも、先生を想い続けている。二人がどういう別れ方をしたのか、私は分かりませんが、会って話をすべきではないでしょうか? そうじゃないと、先生も会田さんも、本当の気持ちを押し殺したまま生きて行くことになってしまいます」
文香は黙ったまま、学生たちが行き来する流れを見つめている。瀬崎は心苦しさを感じながら、文香の言葉を待つしかなかった。小さい溜め息の後、文香が口を開く。
「だとしたら、どうなの? あの人だって、今は家庭がある。それとも、瀬崎さんは不倫を勧めているの?」
「そうではありません。そうではなくて……せめて、誤解はとくべきじゃないでしょうか?」
「それに何の意味があるの? 今更、誤解をといても意味なんてない。彼も、彼の奥さんだって、酷く混乱するだけのことじゃない」
語気は静かであるが、強い怒りを感じて、瀬崎は何も言えなかった。しかし、もう一度溜め息を吐いた文香の表情は、柔らかさを取り戻している。
「ごめんなさい。瀬崎さんが心配してくれているって、ちゃんと分かっているから」
穏やかな言葉に安心する瀬崎だったが、文香は生徒に忠告する教師らしい声色で言うのだった。
「でもね、私たちが人様に咎められないような形で再会できたとして、貴方が想像するような関係に戻れるとしても、私はそれを選んだりしないの」
「……どうしてですか?」
そのとき、文香が見せた微笑みは、慈愛のようでもあったし、嘲りのようでもあった。彼女は言う。
「不自由なく、何も心配することがない今の生活を、捨てられるわけがないじゃない」
言葉が見つからない瀬崎に、文香は「もう行くね」と告げてベンチを立った。瀬崎はその背中が見えなくなっても、文香が立ち去って行った方向を眺め続ける。瀬崎は単純に、文香が理解できなかった。
新藤と如月が宗谷骨董店を訪れると、宗谷雄二郎は小さく頷いて奥へ通した。お茶を入れてくれた宗谷の娘が、店に戻るまで待ってから、新藤はそれを取り出し、テーブルの上に置いた。一つの石。形も色彩も自然物では有り得ないほど、美しいものだった。
「会田真司さんの記憶です。取り戻してきました」
宗谷はそれを目にして、やや表情を柔らかくしたように見えた。
「ありがとう。高月さんの奥さんは…無事だったかい?」
新藤が頷くと、宗谷は深く溜め息を吐き、良かった、と呟いた。
「ただ、見て欲しいものがあります」
そう言って、新藤はもう一つの石を取り出した。それは、歪な形で毒々しい色をしている。宗谷はそれを見て僅かに目を細めたが、どういう感情なのか、新藤には理解できなかった。
「会田さんの魂は、高月文香さんを襲うことはありませんでした。でも、こちらの魂は違った」
新藤はその石を宗谷の前に置いた。宗谷は黙って手に取り、まじまじと見つめた後、テーブルの上に戻すと、新藤たちを見て深々と頭を下げる。
「本当にご迷惑をおかけしました。このお礼は必ずします。ありがとうございました」
宗谷は頭を下げたまま、それ以上、何も言わなかった。
「新藤くん、帰ろう」
如月の言葉に、新藤は従った。新藤たちが宗谷の前から立ち去ろうとしても、彼は頭を上げようとしない。僅かに肩を震わせているところを見ると、新藤も事情を聞く気にはなれなかった。
宗谷骨董店を後にして、新藤たちは人気のない商店街を歩く。
「宗谷さんは、なぜ二つの石を高月さんの所へ忍ばせたのでしょうか?」
新藤の質問に如月は感情のこもらない声色で答えた。
「一つは本人が言うように、会田真司の報われない想いを、せめて相手の傍に置いてやろう、という気持ちだ。もう一つについては、宗谷雄二郎も存在を知らなかったみたいだね」
「知らなかった…?」
「たぶんね。もう一つの石を見て、驚いていたみたいだし、酷く動揺しているようだった」
新藤は宗谷の振る舞いを思い返す。確かに、もう一つにの石を見た途端、態度が変わったようにも思えた。
「でも、自分の異能力で作った石なのでしょう? 知らないわけがないじゃないですか」
「あの石が、彼の異能力によるものだって、誰が言った?」
確かに、宗谷は自分の異能力だとは言っていない。
「だとしたら、誰の異能力なんですか? あの石は…誰の記憶なんですか?」
「……それを暴くことは、私たちの仕事ではないよ。たぶんね」
そう言って如月は振り返る。先程まで歩いていた道を。その視線の先に、何があるのか。新藤はそれを確認するため、振り返った。
遠くに宗谷骨董店が見える。店先では宗谷雄二郎の娘が、忙し気に働いていた。




