14. まもり
左眼から眼窩ほぼ目一杯に、浮き上がっていた術式紋が消えていく。
強い脱力感に大きく息をついて、どさりと自分の椅子へヨルドは倒れ込んだ。その音を合図にゆっくり目を開いた青年、ニースへ声をかける。
「なあ、ニース」
「なんでしょう」
海底の色をした彼の双眸は、ぱっと見にはただの普通の目にしか見えない。
しかしよくよく見てみれば、左目だけが全体的にうっすら白く濁っており、瞳孔の奥には複雑な術式が幾重にも描かれ組み込まれていることに気づく。幼いころに左目を失った彼が用いている、非常に精巧な義眼であった。
しかしその「精巧」ゆえ、今日もヨルドはその白濁を治してやれなかった。
嘆息しつつ、彼へと腕を組む。
「前から再三言ってるがなあ。本当にそろそろこれ、やめろ。今度こそ視力が死ぬぞ」
「ご忠告痛み入りますが、仕方がありません。今の私には、必要不可欠なものですから」
テーブルの上へ置いていた眼鏡を手に取った彼が笑う。ほそい黒縁のその眼鏡は、義眼を普通の目と変わらぬよう、偽装するためのものだ。
拾ったのだという、どこの誰のものとも知れぬもの。
この国に存在する魔具師全員が、複製はおろか解析すら匙を投げた不可解の品。精巧かつ多様な能力を、視力の代わりのように有するそれは、今日も不調を隠して眼鏡の奥で偽られる。
義眼が全体的に白く濁ってきているのは、義眼それ自体の経年劣化であろう。予想はつく。
魔具の劣化は、使用者へ明確な悪影響を及ぼす。今はまだ右目の視力の軽度低下と左の眼窩の痛み程度だが、劣化が取り除けない以上、症状は進む一方で、決して改善しない。
故にやり取りはいつもの通りだった。ヨルドが止めろと言い、ニースは決して首を縦に振らない。
やれやれとひとつ息を吐いて、違うことにヨルドは話の内容を変えた。
「嬢ちゃんのあんな顔、初めて見たな」
「奇遇ですね。私もです」
嬢ちゃん。「あの」カリアスリュート・アイゼンシュレイム・ラピリシアをそう呼ぶことが許されているのは、おそらくヨルドと、彼の妻であるアルセラくらいのものだ。他の下賜名持ちの貴族を含めても、である。
彼女も彼も同じ下賜名貴族だが、ひとくちに下賜名といっても、位階がある。ヨルドおよびアルセラの下賜名は第三位の「キュアドヒエル」。そしてあの金と銀の少女、カリアがその父母から受け継いだ下賜名は、最高位の「アイゼンシュレイム」だ。
彼女がラピリシアの当主となって既に三年が経つが、彼女の名は揺らがない。取り上げるつもりは毛頭ない、というのが王の言葉だ。それだけの価値が彼女にはあると、カリアの若さゆえの未熟を常にあげつらう他貴族たちに王は断言する。
そんな、あらゆる意味で常に途轍もなくあらねばならない彼女が。
あの妙な黒を前にして、ごく普通の少女のように驚き、笑っていた。
「まったく……なあニース、頼むからあいつは俺たちのところに置いとかせてくれよ」
「他のどなたでもない、キュアドヒエルのあなたがそう仰るのですか」
「あいつの知識と着眼点は、ただ誰かに聞いたとか教わったとか、そんな程度で収まるような簡単で単純なもんじゃない。もっと根っこから隔絶した、当たり前みたいな異質、「真実」を、やつは確かに知ってる。そうでなきゃ、あんな考えは出てくるはずがない」
いったいどこでどれだけ、どんな知識を誰に叩き込まれればああなるのか。
苦笑交じりに昨夜アルセラが言っていた言葉を、今日、ヨルドもまた実感していた。彼のような黒髪黒眼をした民族なら実在する。しかしその国は、どちらかと言えば文化の遅れた、魔術の発達も遅い部類に入る国であったはずだ。
リョウは違う。明らかに立ち居振舞いが、思考回路が、行動様式が明らかに庶民のそれとは外れている。
そもそも自分が無魔だと言い切りながら、魔術に興味を持ち、勉強しようとする時点で常軌を逸している。なぜ魔術に、しかも一般の魔術ではなく、治癒魔術に多大なる興味を示すのか。どうしてふたつの治癒魔術の、人体に対する作用機序を、差異を明らかにしようとする?
違うと考えることすら、普通はしない。
だからこそヨルドとアルセラは、絶対にリョウを逃したくなかった。
ともすればこちらが呑み込まれてしまいそうな気配を感じつつも、彼を、自分たちのもとへと引き込んだ。
こちらはそんな苦労をしているにもかかわらず、あの絶世の美少女一人の力であっさりすべて持っていかれてしまっては、本当にまったく、たまったものではない。
「……彼が只者でないことは、私も既に存じております」
ヨルドの思考を読んだのかどうなのか。ふと笑ってニースが口を開く。
眼鏡の奥の双眸は、相変わらず相手に感情を読ませない。ヨルドは静かに笑い返す。まったく小さいひょろいガキだったこいつが、随分可愛くなくなってしまったものだ。
「なんとなく想像はつくぜ? あれだろ。カリアの嬢ちゃんがどんな子か知っても、あいつ、全然あの態度崩さなかったんだろう」
「ええ」
「まあ、無理もないか。そんだけあいつは、本当に妙だ」
二回目の同意は嘆息だった。嬉しげにも、困っているようにも取れた。
カリアという少女の立場の特殊性を考慮すれば、まあそれも無理はなかろう、ヨルドは思う。
なにしろあの男、見事なまでにまったくさっぱり訳の分からない妙ちきりんなのだ。
「なあニース。どうせお前のことだ、あいつの過去についてはもう調べられる限りは調べてあるんだろう?」
「そうですね。結局どれほど手を尽くしても、結論は「無い」、それだけでしたが」
「無い? ……何もなかった?」
「はい。言葉通りに取っていただいて構いません」
「おまえ。そんな人間を、俺たちはともかく、嬢ちゃんの傍に置いといて本当にいいのか?」
「そんな得体の知れない人間であるからこそ、他の誰でもなくお嬢様が彼を見ていらっしゃるのですよ」
この海底色の目をした青年が、優秀であることをヨルドは知っている。
まだ三十にも満たないながら、「ラピリシア」の副官として傅役として、家令として申し分ない働きをする男だ。彼の持つ捜査網の緻密さおよび広さも、よく分かっている。
だからこそ驚愕しかなかった。意図的に隠しているのか、ただ文面および他人の記憶に残されるものとしての過去が存在しないだけなのか。どうもリョウ本人を見ていると、後者のような気がする。
危険だからこそ接触を続けている、という。
また、ため息が口を突いて出た。これだから貴族は面倒なのである。
「あいつがどこの間謀だろうと違おうと、使える限りは目いっぱい使ってやる、ってことか。……嬢ちゃんは最初からそのつもりであいつに近づいたのか?」
「お嬢様が、彼を見つけられたのは偶然です。ですが少なくとも最初のうちは、彼の異端を確かめるために、お嬢様はあの青年のもとへ通っておられました」
なるほど、今は必ずしもそうとは言えない、と。それこそリョウを見た瞬間のカリアの表情がすべてだ。
年不相応だの冷たく冴えただの、美貌を妬む御令嬢どもの陰口も形無しだった。
瞳の金は、日だまりのようなやわらかさを宿した。彼を目にしたあの一瞬で、あまりにも簡単に氷は崩れてしまった。
「……危険じゃあないと、言ってやれりゃあいいんだがな」
ヨルドはぼやく。なにしろあれは紛うことなき「異質」だ。
リョウは、本質的にこの世界の理を飛び越えすぎている。知らないという、知識がないと言う。ゆえにその視点には、思考にはなにも制限がない。過去と現在、既知と新規の事象を、重ね連ねて思いつこうともしなかったようなものを描き出す。
眼鏡の奥の瞳を、何かもの言いたげにニースが細めるのを見た。
これも承知していたのだろうか、とふと彼は思った。違うと、誰にも重ならないと、そう言われることも、ほかならぬ己が示さねばならないこともすべて分かったうえで、姿を現したのだろうか、リョウは。
わからないのだという。
ただ見ているだけなど、耐えられないのだという。
「困ったもんだな」
「……ええ、本当に」
言葉少なに、二人分の苦笑が重なる。少し耳を澄ましてみれば、ドア越しの楽しげなやりとりが聞こえる。
この先、何がどうなるか。
考えずにはいられないのは、若者を見守る立場がゆえの、いわゆる、老婆心などというやつなのだろうか。
 




