後編
水滴の音がした。全身が泥のように重かった。
目蓋を上げると、白い天井が視界に入る。
体は動く。腕には点滴のチューブが刺さっている。顔に触れると、何かが巻かれている。包帯だろうと見当がついた。何重にも巻かれた包帯は頭を重くさせた。白いベッドから降りてみると、ふらついて上手く立てなかった。
点滴スタンドを支えにすると、体が傾いてスタンドごと崩れた。大きな音が病室に散らばった。
扉がスライドする。看護師だ。
「エディさん、無理しないでください! 動きたかったらブザーを押して!」
テキパキした様子で看護師が動き回る。腕を頭に回し、倒れた彼をベッドに上げてくれる。
「あの」
唇を動かすと、顔全体が針の筵になるような激痛が走った。
痛みに呻く。喉が引き攣る。声帯に一匹の芋虫が詰まっているような違和感があった。
「先生を呼んできます。いいですか? 勝手に動かないように、お願いしますね」
看護師が走っていく。彼は呼びかけた手を下ろした。きっと、看護師の間違えだ。
訪れた医師は60間近の老体だった。緩慢な動作でベッド脇のパイプ椅子に腰掛ける。目尻には生きた年月を感じさせる皺が刻まれていた。
大きな事故でした。幸いエディさんの命に別状はありませんでしたが頭部の損傷が激しく……最善を尽くしましたが、今後の生活で今までと違う部分が出てくることがあるかもしれません。それと、これは落ち着いて聞いてほしいのですが――。
誰も彼もが同じ間違いをする。事故にあったのはトッドだけだ。
そして、生まれてから彼が共に過ごしてきた名前もトッドだった。医師が告げたのはトッドの死亡だった。
包帯を外すには一月がかかると医師は言った。目覚めるまでに二週間を要した彼の身体はリハビリが必要だった。
医師には自分がトッドであるとは信じてもらえなかった。事故直後で混乱しているのだろうと、処方箋と通院の義務を申し付けた。
支払いについて訊くと、既に済んでいると首を振られた。払ったのはトッド自身だと言う。つまりエディだ。事故が起きる前、『近々世話になる』と大金を置いていったらしい。
トッドの頭は混乱の最中にあった。本物のエディはどこへ行ったのだろう。記憶の最後にあるエディのことは夢だと思っていた。だが、夢でなかったら? 全てを知っているのは彼だけだ。
退院の際、病衣と交換して得たのは血に汚れたエディの服だった。ポケットを漁ると、エディの家の鍵が見つかった。トッドの物は何一つ見つからなかった。
エディの家は知っている。以前、彼に招かれた経験がある。
病院の外は風が強かった。治りかけの顔を火で炙っているような錯覚さえ抱いた。病院で借りた服のフードを深く被る。
「エディ!」
背中を叩かれる。エディがいるのか? 辺りに視線を投げるも彼は見当たらない。
「きょろきょろして、どうしたの? いつもよりも丸まって歩いてるもんだから、うっかり通り過ぎちゃうところだったわ。ずいぶん探したのよ」
振り向くと、そこには快活に笑うアデールがいた。息を飲む。ラピスラズリのような青い瞳がトッドに向けられている。
アデールが手を伸ばしてきた。咄嗟のことに反応ができなかった。いつもよりずっと近くに彼女がいる。蜂蜜とパンが混ざったような甘い匂いがする。
「包帯……怪我をしたの?」
トッドは頷いた。口を開くと顔の皮膚が割れるように痛むのだ。
「喋れないのね。……家はどこ? 送るわ」
石造りの歩道を歩く。エディの家は入り組んだ場所にある。高い建物の間を抜けていく。
日はまだ高い。彼女はパンの配達をしていた途中だったらしい。焼きたてのパンの匂いはそのためだ。
夢のようだった。彼女がトッドを気遣って、隣を歩いている。
エディと勘違いされたって構わなかった。今、彼女の隣にいるのは間違いないのだから。
「……トッドのこと、残念だと思うわ」
重々しく、彼女が口にしたのは彼のことだった。
「とても繊細で、優しい人だった。貴方が守りたくなるのもわかるぐらい。葬式の話、聞いた? 来週行うそうよ。私、花を送りにいくわ。貴方も行くんでしょう? 誰よりもトッドを大事にしていたものね」
――じゃあ、また来週。彼女は手を振って仕事に戻っていった。
五階建てのマンションを上る。エディの部屋はマンションの四階と五階にある。細長い建物なりの工夫だ。階段を上り、鍵で四階の扉を開ける。中に入る。
部屋の中は質素だ。エディはあまり物を持たない人間だった。ベッドと、空っぽのスチールラックがぽつんと置かれている。エディが入ることで、ようやく人の部屋になる。それまでは空き家だ。人の気配が極端に少ない。
以前、彼の家に訪ねた時、物を置かないのかと訊いた。このままでは他人の家と自分の家が見分けがつかないのではないかと。
『逆だよ。物を置くと、自分以外の誰かが入ってくるみたいで嫌なんだ。俺が俺だって証明できるのはこの体だけなのに、他の物なんて置いたらそれで押し潰されてしまいそうじゃないか?』
初めて、エディのことが身近に思える会話だったと思う。彼はトッドのヒーローで、完璧な存在だった。そんな彼にだって嫌なものはあるのだ。
頭に衝撃を与えないよう、ゆっくりベッドに寝転がった。部屋にエディの痕跡はなかった。彼は、どこへ行ってしまったのだろう。
来週の葬式のための服を探すためにクローゼットを開けた。一番手前に、誂え向きの喪服があった。
生きているのに、己の葬式があるというのも不思議なものだ。棺の中には誰が入っているのだろう。
葬式は晴天だった。知り合いは誰も彼もがエディの友人だ。トッド個人の知り合いはいない。
両親は長い間連絡を取っていない。親にとってトッドは恥だ。関係者だと思われたくないだろう。
エディの友人を名乗る誰かが、すれ違いざまに肩を叩いていく。名前も知らない。みんな悲しむエディのために来たのだ。
アデールが隣に立った。彼女は違う。彼女はトッドの死を悲しんでいる。口が動かせるようになったら、自分がトッドであることを伝えようと決めている。それが彼女に対する誠実というものだ。
アデールの赤い唇が耳元に寄せられた。
「花を投げ入れましょう。大丈夫よ。事故の時、顔にはあまり傷が入らなかったらしくて、酷い状態ではなかったって聞いたわ」
頷いて白い花を持つ。地面に埋まった棺の中身を見た。
花が震えていた。トッドの手が震えていたのだ。間違いなのではないかと、彼はずっと疑っていた。だが、そこにいたのは間違いなくトッドだった。毎朝見ていた顔が、白い顔で眠っていた。頭部は包帯がぐるぐるに巻かれて白い水泳帽を被ったような装いだったが、肉付きの悪い体、人相の悪い顔、どれもこれも特徴はトッドの物だ。
では、ここにいる俺は本当に誰だ?
自分をトッドと思っている、この男は誰なんだ。
両手を見る。節くれ立った長い指だ。手も、足も、骨格も、違う男だ。エディのものだ。彼は真っ直ぐ背を伸ばして歩く。知っている人間なら体格だけで視線が奪われる。だからみんなトッドをエディと思った。
「エディ?」
花を投げないトッドを不審に思ったアデールが顔を覗き込む。トッドは首を振って応対した。大丈夫だ。アデールがいる。アデールがいるなら、トッドは大丈夫だ。
棺の中に花を投げ入れた。ぽすんと、間抜けな音を立ててトッドの死体の胸に着地した。
葬式を終えればすべてを忘れる。事実、数日すれば誰もトッドの話題を出さなくなった。トッドと共にいるアデールを除いて。
二人で出かけた時のことだ。公園のベンチに腰掛けていた。彼女は弁当にクロワッサンとサンドイッチを持参してきた。
「傷もだいぶ治ってきたわね」
「ああ、喋るのも問題なくなってきた」
事故にあってから吃音症も治っていた。エディの身体だからかもしれない。不思議と話すのも恐ろしくない。
彼女が作ったクロワッサンを頬張る。サクサクした食感と、引っ張ると伸びる生地がたまらなく美味い。トッドの好物だった。
「初めの頃、三つ穴の開いたマミーが歩いてたのかと思ってたわ」
「今もそんなもんだろ」
「今は違うわよ。あの時は死人が歩いてるみたいな形相だった。まるでトッドみたいに」
食べる手が止まる。
「悪いように受け取らないでね。貴方だってそう思うでしょう? 彼、いつも何かに怯えてるみたいに背中を丸めて……。正直言って、貴方が会って話すよう言わなかったら決して食事なんてしなかったわ」
「……だろうね」
トッドの名はまるで他人事のように聞こえた。以前の自分だったらショックを受けただろうか。ああ、そうだろうと納得の態度が今の彼の正直な気持ちだった。以前の気弱な態度は吹き飛んでいた。
「だから、今貴方が前みたいに喋れるようになってよかったと思ってるのよ」
――あの、今日は喋らないんですか?
ふと、以前彼女が口にした言葉を思い出した。
「前みたいって、俺、どんなふうに喋ってたかな。事故にあってからあまり覚えてなくってさ」
トッドはここひと月の常套句を口にする。彼は本当のエディではないのだ。エディにしか知らないことを尋ねられた時に重宝している。
アデールは顎を二つの指で挟んで考え込んだ。
「どんなふうにって言っても今とそんなに変わらないわ。……ああ、でも一時期変な喋り方してたわね」
「変な?」
彼女は頷く。緩く巻かれた髪が風にかき上げられる。
「トッドみたいな話し方。詰まったみたいな話し方で、でも話してるのはエディだったから変だったわ。あんまりにそっくりにしてたから、トッドと話してる時も違和感が拭えなくって」
しばらくしたら止めてたけど、何だったのかしらね。アデールが小首を傾げる。
トッドは自分の顔を包帯越しに撫でた。エディは見つからなかった。
くるくると手で白い包帯を巻き取る。太い糸のようで、五本の指を持った糸巻きはすぐに白い塊になった。鏡の中に映った顔には傷はない。頭に触れる。頭髪の下で、肉の盛り上がった跡が繋ぎのように頭部を一周している。
緑色の目が鏡の向こうからトッドを見ている。映っているのは、トッドが憧れたエディに間違いなかった。
「エディ」
声は低い。声の高いトッドでは出せない音だ。
鏡の中をじっと見る。一つたりとも見逃さないと、すべてに意識を向ける。額の髪をかき上げると、エディにはなかったはずの文字が小さく彫られている。
『I'm here』