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小石一つも動かすのもが怖く、彼が平静を保てたのは肩越しに伝わるマルティアーゼの温もりのお陰で、それが彼から正気を奪わなかった。
(何も考えなければいいんだ、静かに待てば何れ朝が来る、此処で騒げば悪いことが起こりそうだ、今は我慢、それが最善……)
闇との睨み合い。
それが竜なのか又は全く違う生き物なのか、それともただ単に風で草が揺れただけの音かも知れなかったが、それを確認する術がなかった。
闇を挟んだ向こう側にいる何かといきなり始まった持久戦は、先に動いたほうが負けで、視界が明るくなり状況が掴めるまでは何としても動くわけにはいかなかった。
もしかすれば何もいないのかも知れないが、もしもという言葉は今の状況を考えて軽率な行動を取ることは出来ず、そのような事で命取りになってしまってはならないことをトムは承知していた。
(こんな所で殺されたとしても誰にも知ることはないだろう、大公陛下でもまさかこんな隔絶された孤島で、愛する娘が亡くなっているなどとは想像も出来ないだろう、こんなに遠く、大陸から離れた場所に骨を拾いに来たなどと酔狂にも程があると思われるに違いない、そのような危険な場所に行くことを止める役目の俺も一緒になって骨探しに来ているのだ、申し訳程度で済まされる事ではないな)
自分でも何故、今このような島のこのような岩場の狭い隙間に隠れながら夜を明かしているのだろう、一体自分の運命は何処で道を外れ此処までやって来たのか、それはもう遠い過去の思い出になる程に長い時間が経っていた。
今では懐かしいローザンでの記憶を思い出してみても、変哲のない人生を送ってきたはずの自分が、よくも幾度の戦いと逃避行を繰り広げて、ここまで生きてこられたなと思わずにいられなかった。
カサッカサッ、とまたも音が聞こえてきて、トムの意識が闇へ戻される。
「…………」
風で揺れたのとは違う音がはっきりと聞こえた。
(聞き違いではなくやはり何かがいる……)
顔を上げて闇を見つめると、そっと足元に置いた自分の剣に手を伸ばす。
剣に触れると握らずに手を置いたままに、もしもの時に対処できる唯一の武器の存在を確認をすると、あとは静かに待った。
どのくらいの時間が経って、後どれだけ待てばいいのか、時間の感覚などとうに消え失せ、さっき起きたところなのか、それとも数時間経った事なのか考えるだけで頭が混乱しそうになってくる、夜目に慣れるぐらいの時間は経っているはずなのに真の暗闇の前では何の意味もなく、目を動かしても自分の足さえも何処にあるのか視ることは出来なかった。
(眼の前のことに集中すればするほど、頭がおかしくなりそうだ、こんな試練は今まで感じたこともない……、何もしないというのがこんなにも息苦しさと精神の摩耗を感じるとは……、戦って傷ついたほうがどんなに楽で生き生きしていると感じるなんて、ついぞ思ったこともない状況だ)
とにかく動きたい、この一言に限った。
剣士ならばこう思うのが自然であり、剣を振るい眼前の相手と剣を交えることが一番だった。
学者や知識人ならばじっとして頭の中で物事を考え、思考を巡らせていれば時間などいつの間にかに過ぎていくのだろうが、トムにはそれほど考える物事がなかったし思案する事案を持つ学者でもない、うずく体は今にも剣を振りかぶって闇の中へと飛び出したい衝動で一杯で、何かのきっかけがあれば直ぐにでも爆発しそうであった。
その衝動を抑制出来たのは、言うまでもなくマルティアーゼだった。
肩越しに聞こえてくる微かな寝息と吐息、ほのかに甘い匂いがトムの衝動を押さえていた。
トムが一人、闇夜と戦っていることなどお構いなしに、自分の夢に没頭しているマルティアーゼに羨ましく思い、今の状況に気付いて欲しい反面、起きてこないで静かにしていてもらいたいと思う葛藤があった。
長くこのまま精神が壊れるまで居続けなければならないのかと思うほど、まだかまだかと長い時間が過ぎていき、額からは脂汗が滲み出て、体の震えに自制が効かなくなって来た時、トムはそっと目を開けた。
(……朝だ)
待ちに待った夜明けが訪れたのである。
まだぼんやりと殆ど暗闇に近かったが、うっすらと木々の間に黒とは違う紺色のシルエットが見えだしていた。
それをじっと見つめていると、次第に薄い青から白っぽく変わり、森の輪郭が認識出来るまでに明るくなっていく。
トムは岩場の前には何も居ないことを確認すると、夜中の間、ずっと息を止めていたように空気を求めて深呼吸を何度も繰り返した。
「ふう……なんて夜だ」
闇との戦いはトムに軍配が上がった。
慌てず混乱に陥らずに、見えない相手との根比べに勝ったのだ。
日は昇り始めるとあっと言う間に辺りの景色に色がつき始め、足元も難なく見分けるようになったので、トムはマルティアーゼを揺り起こした。
「う……ん」
色っぽい声と共にマルティアーゼの目がゆっくりと開いて瞳に光が宿っていく。
「おはようトム」
「おはようございます、朝になりましたよ」
マルティアーゼは大きな伸びを狭い岩場ですると、体をほぐした。
「何だか体が痛いわ、寝違えたかしら」
「…………」
トムは呑気そうにしているマルティアーゼを見たが、自分からゆっくり寝てくださいと言った手前、何も言い返せずにいた。
結局は何事もなく、森に何かの動物や竜が居たわけでもなかったので、無駄に騒ぎ立てようとは思わず、早速島を出る準備に取り掛かった。
「霧が晴れないから朝という感じがしないわね、どれ位寝ていたのかしら」
「そりゃもういびきを立ててぐっすりと……」
「まぁ……そんなに音を立てていたの? 恥ずかしいわ」
マルティアーゼの顔が赤くなった。
「さぁ、この島に長居は無用です、とっとと脱出しましょう」
二人は岩場の外に何も居ないのを確認してからそろりと出ていく、狭い場所に居たお陰で起き上がって体を伸ばすと一層開放感で溢れた。
「この先を真っ直ぐ行けば何処かの海岸に出るはずですよ……」
トムがそう言ってマルティアーゼに振り向くと、彼の表情が凍りついた。




